地球を愛の星へ

カテゴリ:日向(ひむか)( 15 )

日向(ひむか)からのメッセージ(15)

原点は夫婦であります。

確かにもう少し地球が高度な惑星になれば
自分の魂のパートナーと呼ばれている方たちと
巡り逢っていくこともあるかもしれません。
今の地球ではそうでない場合もあるのです。

でも今生この方と一緒に結婚し、この人と愛ある生活を育み
そこで子どもをつくりたいと
一時はそれを覚悟し、結婚されたのではないでしょうか。

そうであるのならば、その状況をしっかりと受け入れることです。
そして、よっぽど問題ある場合でしたら
それは別れていっても構わないのですけれども
そうでない限りは子どもを授かったというのは
しっかりその夫婦に縁があったということです。

であるのならば、男性たちもそうですが
妻たちよ、女性たちよ、その夫に仕えなさい。
夫に主導権を渡しなさい。
夫を尊敬し、夫が当たり前のように、外でお金を稼いできてくれることを
当然の権利とし、子どもにうつつを抜かすのを止めなさい。

子どもよりもまず、夫を愛し、夫を大切にすることです。
夫婦がほんとうに愛し合っているところに、悪い子どもは育たないのです。
子どもが、やはり母親が夫をないがしろにし
父親のことをばかにしている姿を見れば、そのあとで思春期以降になって
母親たちがほんとうに子育てに苦労する段階がくるのです。

父親を大切にし、そして父親は母親を大切にする。
家の中でのことを任せっぱなしではなくて
やはり母親たちに対して、妻に対して温かい言葉をかけてあげてください。
女性というものは言葉によってひじょうに傷つきもしますが
また言葉によってたいへん喜べる生き物でもあるのです。

「愛しているよ」などというと
日本の男性に関してはとても照れくさいのかもしれません。
でも、「自分はほんとうに夫に愛されているのか」と
不安になるのが女性なのです。
「今さら言わなくてもわかっているじゃないか」っていうのが
ご主人たちなのです。

でもどうか、そこらへんをいとわず
愛しているよということを言葉でも何でも
照れくさかったら遠回しにでもよいのです。
奥様の喜ばれる言葉をかけてあげていただきたいのです。

そうしたら、奥様はまた頑張るのでしょう。
そして、なおいっそう仲睦まじくなるでしょう。
その姿を見て、子どもは健全に育っていくのです。
そのことを忘れてはいけません。

夫婦がまず仲良く、いたわり合って、愛し合っていく姿の中に
尊敬し合って、お互いに立て合っていく姿の中に
役割分担を尊ぶ姿の中に、家庭の愛の基本はあるのです。

そこに次の段階として子どもが授かってくるのです。
子どものために親の人生があるのではありません。
親たちの人生の延長上に、子どもたちが授かっていくのです。
そして子どもたちは、時が過ぎれば成長し、羽ばたいていく。
そしてまた、夫婦男女ペアの原点に戻ってくるということです。

老後の自分たちのことを
いたずらに子どもたちに面倒を見させるためにしばってはなりません。
夫婦でいたわり合うのです。
その時こそ、数十年の夫婦愛が何であったのかということを
再度問われるのです。

どれだけ社会で立派な仕事をされていた方でも
定年退職をし、家庭に入ってきたときに
仕事を終えて抜け殻のような気分のときに
妻による愛ある家庭が待っているのか
それとも粗大ゴミと言われてうっとうしがられるのか
それは数十年のそれまでの夫婦の架け橋の架け合い方によるのです。

そこがしっかりと絆ができていれば、戻って来たときには
それこそお二人で旅行に行ったり
楽しい、楽しい老後が待っていることでしょう。

その時に、家にゴロゴロいられるから嫌だとか
お父さんが毎日いるから私は好きなことができないとか
お給料をもらってこなくなったのなら
もう別れて、離婚してしまいたいとか。

よく退職金をもらったら離婚したいというご夫婦もあったようですけれども
そのような情けない―
それはもう、あなた方がどれだけ外で仕事をしてお給料を稼いでこられても
夫婦生活において、家庭愛において失敗したという結論がそこに出るのです。

そうならないために、数十年の人生、大切な今生の人生において
奥様方にねぎらいの言葉を、愛の言葉を
若いうちからかけてくださるということ
そのことを私はぜひお願いしたいと思うのです。

そして、女性たちに厳しいことばかり言っているかもしれません。
でも男性方が家庭の中に心を砕くよりも
妻たちが、女性たちが家庭に心を砕いてエネルギーをかけるほうが
ずっと時間的にもエネルギー的にもたくさんあるのです。

ですから、子どもたちの幸せのためにも、自分たち夫婦の愛ある生活
幸せのためにも、どうか家庭を第一義として
母親として、妻として、その宇宙の創造者として
神のごとき愛の体現者として
この家庭を通してご自分の修行をされ、学ばれることを誇りとされる人生を
ぜひとも生きていただきたいと思うのです。
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その子どもたちが、あなた方がいずれ死んでいったとき
私たちの世界に帰って来たとき、その次の地球の未来をつくるのは
あなた方が愛により育まれ、育み出された子どもたちがつくっていくのです。

この地球の未来は、あなた方の愛の賜物である
次の世代を担う神の子たちが担っていきます。
そのことを考えるのであるのならば
あなた方の仕事はけっしてつまならい仕事ではないのです。

外に出て、いかなる仕事があるでしょう。
確かに女性の教師や看護師さんや
さまざまな、女性でなくてはできない仕事があるでしょう。
でも、そっちを大事にして
家庭をおろそかにしていいということは少しもないのです。

あなたがほんとうに愛を学びたい。
神の本質が愛である以上、神の子の本質は愛であります。
男性であれ、女性であれ、愛のエネルギーによりできているのです。
その尊い神のごとき愛を学ぶために、家庭というものを神はお与えになり
結婚愛というものを与えられたのです。

そうであるのならば、その家庭というものを通して
どうか女性たちが修行され
神の子としての未来というものをつくるために力を貸していただき
女性の誇りというものを取り戻し、社会の中において要らぬ
今のような不幸の種というものをなくしていただきたいのです。

女性たちの努力次第で
そして、女性たち、妻たちを理解する夫たちの夫婦愛を取り戻すことにより
今の社会の中で異常に増殖しているこのような不幸な現状というものの
大半が取り除けるということを私は申し上げておきます。

暴力沙汰、その不良化におきましても
やはり小さい時の子どもたちとの接し方にあるということ。
そして、一時暴走していっても、不良化していっても、さっき言ったように
相手をほんとうの意味で信じて待ってあげる。
ほんとうの意味でその子どもが戻って来るのを待っていく。
それも、先ほど申し上げた忍耐というものの愛の側面でもあります。

けっして見捨てない。
けっして逃げない。
それが愛の本質でもあります。
神は常にそうして、忍耐の時の中で人類を育まれておられます。

私たちもそうであるのならば、家庭というものを介在として
私たちの中にある神性の愛というものを学ぶために
ぜひとも家庭人として、家庭の中における役割を
神性なる役割として受け入れ成長するために
私たちは頑張っていきたいと思います。

それは現代の女性たちに対しての、私の心からのメッセージであります。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-02-17 07:56 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(14)

愛というものには執着があってはなりません。
つかんではならないのです。
何かを所有しようとしたとき、愛は死ぬのです。

何か見返りを求めると同じに、やはり何かに執着してはなりません。
あなた方が学んでおられるように
宗教の求道者だけが執着から離れようということではないのです。

人間すべてにおいて、執着から離れねばなりません。
大切にするということと執着は違うのです。
お金も大切にしなくてはいけません。
夫も大切にしなくてはいけません。
妻も大切にしなくてはいけません。
職業も大切にしなくてはいけません。
子どもたちも大切にしなくてはいけません。
愛していかなくてはいけません。
でも執着してはいけないのです。

そのわきまえをしなさいということ。
それが、愛を学ぶという中において
我々が今まで学んできた過程においては
次なるステップの愛というものを人類は学ばなくてはいけません。
そうすれば、この地上というものがユートピアになっていく
ひとつの過程として出てくるのです。
それができていないから、いらぬ不幸や悲しみや苦しみを生んできたのです。

夫婦が単位であるということ。
男女が単位であるということ。
その愛の中に祝福され望まれて
子どもたちは生まれて来たいという本能を持っています。
そこに迎え入れていくのです。

夫婦がともに手を取り合ったところに
神の子としての新しい幼い魂を受け入れていくのです。
でも、その魂たちはあなた方自身ではないのです。
あなた方とはまったく違う個性を、使命を
そして、天職を持った子どもたちを一時お預かりしていくのです。
で、その子たちの天命を発散するお手伝いをしたのならば
あとは飛び立たせていく。

そして子育てが終わったら、また夫婦単位に戻るのですよ。
どれだけ子どもに執着しても、いい齢をして嫁や孫たちに過干渉になって
息子を取り戻そう、娘を取り戻そうとする親たちがおりますけれども
そのような姿は愛ではないのです。
もう執着そのものなのです。
飛び立たせていきなさい。

娘だって今いい齢をして、皆嫁にも行かずに
母親たちが皆脇で手放したくないがゆえに一緒にいる場合があります。
それは娘の成長の機会というものを奪っているのですよ。
娘がかわいいのなら、自分が一人になることを恐れずに、嫁に出しなさい。
一人で自立させなさい。
自分が全部やってあげるから、娘はますます居心地良くて
嫁に行きたくないと安易な道を生んでいるのです。

母親たち自体の接し方が、息子たちを引きこもりにしてみたり
娘たちを嫁に行きたくないと言って
自分の中の自己実現だけに人生を浪費させてしまうという
そのような結果を生んでいる。
そのバックボーンにあるのは、母親たちの愛の姿であるということ。
そのことをもっと見極めねばなりません。

そのことをもっと母親たちがわかったのならば
自分たちはどのように接していかなくてはいけないのか。
ありのままに受け入れ
そして、けっして執着をせず、その魂の成長を喜ぶ
それが愛そのものであります。

その魂がほんとうの意味で進歩発展していくことを望むのならば
時には厳しいことを言い、時にはこぶし、平手打ちのひとつも入れながら
体当たりでその子どもたちとぶつかり合って
愛というものはけっして安易なものではなくて
甘やかすものではなくて、厳しさもあるのだよと。
愛しているから厳しいことを言うのだよと。
それを伝える。
それが親の愛でもあり、また神の愛でもあります。
神の愛そのままであります。

ですから、祈りの中で、なぜ私たちの祈りをすべて聞きいれてくれないのか
苦しみをなぜ除いてくれないのか、なぜこの病をすぐ治してくれないのか
神も仏もない、という言葉がよくあります。
祈りの中の最大の祈りであります。

でもそれは、あなた方の魂を、あなた方の霊的な成長を望むからこそ
私たちは今、その艱難辛苦を取り除かないのですよ。
頑張ってそこを通り抜けなさい。
そうすればあなたは、次には素晴らしい成長を
自分の魂の中に勝ち得ることができるのですよと。

手を出したくても手を出さずに見守っている。
それを、永遠の時の中で、忍耐をもって見守っている。
それが神の愛であります。
その神の愛を見習うことなのです。
同じなのです。
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魂を、人類の魂を、成長を愛しながら見守るという姿
それは家庭の中において
魂を、新たな子どもたちを、神の子たちを授かりながら
預かりながら、その子どもたちの世話をしながら、愛しながら
その魂の成長を望んで、その彼らがその苦労の中で
苦しみながら乗り越えて一人前になっていく姿を、手を出さずに見守る。

時には手を出してしまうほうが簡単なことはたくさんあるのです。
手を出したくても出さない。
見守っても手は出さない。
それがどれだけ愛として尊いかということを
もっと今の母親たちは学ばねばなりません。

子どもの数が少ないから、簡単に、自分に余った時間とエネルギーがあるから
そんな簡単に手が出せてしまうのです。
出したいのです、自分自らが。

それは自分が齢いってから、定年退職したご主人に対する愛という姿においても
多く出ているはずなのです。

多くの人びとがまったく、晩年になったならば
給料を持って来なくなったら、辞められたなら
夫が家の中でゴロゴロしていてうっとうしいということを聞くのです。
そんなことは、何の夫婦愛をあなた方は今まで築いてきたのですか。

子どもがいて、給料だけを運んでくれるという、その感謝も何もなかったから
家の中に毎日いる夫がうっとうしくてたまらないのです。
お金だけ持って来てくれればいい。
子育てが終わったらあとは自由だ。
夫はいらない。
粗大ごみであるというひどい言葉が出ます。

そのような母親たちに育てられた子どもたちは
ほんとうの意味で親孝行をしたいと思うでしょうか。
夫を大事にしないは親の姿を見て
自分もまた、娘たちも同じことをしていくのです。
そして、その不幸が繰り返されていくのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-02-11 07:34 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(1)

日向(ひむか)からのメッセージ(13)

ただただ無条件で受け入れてあげる。
それが愛というものなのです。

その兼ね合いというものが、今の親御さんたちがわかっていないから
ただただ溺愛し、ただただ過干渉で
ただただ与え切りになってしまうことを愛だと勘違いするか
さもなくは、自分たちのプライドや世間体の面子のためだけに
ほんとうに傷ついて行き場のなくなった子どもたち、思春期の子どもたちを
自分のプライドも、親のプライドなど捨てて受け止めてあげるという
ほんとうの意味での優しさ、無条件の無償の愛というものを
親というものは時には出さなくてはいけないということがわからないから
いたずらな自殺者をつくって追い込んでしまったり
過干渉の中で労働意欲のない、学校にも行けない子どもたちを
引きこもりの子どもたちをつくってしまうということなのです。

引きこもりの子どもたちを見ていると、大体が立派な家に住んでいたり
親が結構な収入がある方が多いのです。
そして、自分の部屋を与えられて、本来であるなら、人間であるならば
ご飯を食べなければ死んでしまうのです。

ではどうするかというと
大体お母さんたちが、ご飯をつくって家の部屋の前に持っていくのです。
さもなくは、その家自体に食べ物を置いといてあげるのです。
そんなことをすれば部屋から出て来る訳もないのです。
ならば、飢え死にしてもいいから、放って置けばいいのです。
そうすれば部屋から出て来るのです。

もう、そのこと自体が子どもから嫌われたくない、子どもが暴力を振るうから
子どもの機嫌をとることに慣れすぎた親たちが多いということ。
ほんとうにその子どもの魂の、その子どもの霊的な成長も、肉体的な成長も
人間としての成長も望むのならば、自分がご飯などつくらずに
「出て来なさい」と言ってドアを、お父さんとお母さん、蹴破って
この間テレビでやっておりましたね。
そういうことを専門にやってらっしゃる方がおられるようですけれど
そんなものをあかの他人の、よその人にやってもらわなくても
それをやるべきは親であるということなのです。

それが、親たち自体が逃げている。
何から逃げるか。
子どもから嫌われることから逃げているのです。
子どもに嫌われたくない。
子どもに、やはり今まで溺愛してきたから
強く言うということ自体に親が慣れていないのです。

それは嫌われるのではなく、ほんとうの愛の姿であるということ。
体当たりでぶつかり
そして、その子どもの成長のためには数々の試練を本人に与えていくという
厳しさも与えるのが愛であるということ。
そのことをもっと今の親たちは知らなくてはいけません。

そうでなければ、あまりにも時代の中でも類を見ないほどに半人前の
自立できない者たちが、若者たちが、現代の日本では増えているのです。
それが今、社会問題となっているはずなのです。

これは何にあるか。
家庭の中における家庭愛の不足、家庭愛
特に母親たちの子どもに対する接し方の問題点にあるのです。
それがいろんな意味での、子どもたちの魂の叫びを呼び、暴力を生み
集団自殺を生み、そして、引きこもりを生んでいるのです。

その中で、本来の家庭というものが、昔の戦前の日本にあったような
家庭の中でしっかり父権というものが存在し、母親たちが子どもに対して
内側ではしっかりと守って子どもたちに対して育てていく。
そして、たくさんの子どもたちを育てる中で、過干渉にならないという
そのようなバランスが大きく崩れている現代であるのです。
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子どもの数は少ない。
家庭電化製品は多い。
そして、自由な時間はできた。
暇だ。

そして、世の中は物質が氾濫していて
さまざまなブランドやさまざまな高級品の中で
女性のそのような自己顕示欲というものをそそるものがたくさん氾濫していて
女性の中では大きな目標を持たぬ者は
隣の奥さんとそのようなもので張り合ってみたりするのです。

そのようなものの、アクセサリーのハンドバッグのひとつとして
子どもまでも「お受験」と呼ばれている中で
アクセサリーのひとつにしていったところの
最後、自分たちがやってしまったことの結果を
思春期になってその報いを受けてしまっているのです。

その、お受験というものは、昨日今日始まったものではないのです。
戦後もうすでに何十年かたっている中で
社会的にその反動が出てきていることなのです。

どんなに高学歴な、知識をしっかりと詰め込んだとしても
ほんとうの意味で、自分の魂のうずきによる天職に巡り合い
社会に対して大きな貢献と人望というものを獲得できなかった者は
どんなにいかなる高学歴、どんなにいかなる名門校を出ていたとしても
どんなに名門の家に生まれていたとしても
男として、女性として、人間として評価されるほど世の中甘くないのです。

そのようなことを思ったのなら、それだけにすべてをかけて
自分の人生も、子どもの魂自体も腐らせてしまう、根腐れさせてしまうような
そのような盲目的な愛はやめるべきです。

「愛の神髄を学びなさい。」
アモール様がおっしゃられたように、今人類は愛を学ぼうとしています。
より高次な愛というものを学ぼうとしているのです。
この愛というのがメインテーマであります。
基本的な定理です。

このアモール様のおっしゃられた愛というものを基本に据えて
男性たちも女性たちも
そして、妻として、親として、母親として
何を、愛というものを体現していかなくてはいけないか。
愛として接して育んでいかなくてはいけないか。
そのようなものが
ほんとうの意味で人類の幸せを左右するものであるということを
もっと認識しなくてはいけないということなのです。

愛というものは、そのように聖書の中だけであるとか
一部の家庭愛とか、男女の愛だけにあるものではないのです。
愛というのは宇宙の摂理であり、愛というものに育まれて
大宇宙の神のお心そのものが愛であるからこそ
私たちは愛を学ばなくてはいけません。

いかなる過程にいこうと
これから地球がどのような進歩発展を遂げていこうと
我々がベクトルとして学んでいくテーマは永遠に愛なのです。
なぜなら神のお心が愛であるからです。

愛というものの中には、奥義は深く
その先はとても気高く、高いものになっていきます。
職業を通して、天職を通して、究極的に学ぶのは男性も女性も愛であります。
女性ならば、なおさら愛であります。

愛の体現者として女性はつくられたのです。
その女性の使命が軽んじられ、妻として夫を支えること、その役割の認識
そして、母親として、親としてどのように愛を与えていくのか
父親として子どもたちに愛を与えていくのか
その学びがあまりにも幼かったがゆえに
さまざまな不幸をつくってきたのです。

そのことがほんとうにわかれば、地上は楽園になるのです。
子どもたちが家庭の中において健全に育って
健全な未来を育んでいくようになります。
そして、嫁姑とか近所とか、その者に対するいらぬ世間体とか
見栄というものが全部なくなり
親子の中における余分な執着というものもなくなっていくのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-02-06 08:25 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(12)

宇宙が陰陽である、陰の要素、陽の要素とに分かれているように
その陰を代表するものが母親であり、陽を代表するものが父親でございます。
夫であり妻であるのです。
その、本来が夫と妻の、深い深い結びつきの愛の中により
子どもたちは生まれて来るのです。

ですから、よく里子に出された子どもたちが尋ねることがあります。
「自分のルーツを知りたい」。
その次に出てくる言葉は
「私は、僕は、ほんとうにお父さん、お母さんに愛され、
望まれて生まれて来たのか」
ということをよく聞かれます。
それが人間の根本的な叫びであるのです。

誕生して来たときに、そうだよ、あなたたちは確かにお父さんと母さんの間に
愛し合って望まれて、あなた方はここに生まれたのだよということを
やはり子どもたちは聞きたいのです。
それは何かと申しますと、家庭の基盤は「男女の愛」にある。
「夫婦の愛」が基盤にあるということなのです。

子どもさえいればいいという母親たち、父親たちがいるかもしれない。
子どもを産むために、自分の遺伝子を残すためだけに
家庭というものをとらえている方たちがいるかもしれない。
そんなものではないのです。

家庭の基本は男女の愛にあるのです。
夫婦の愛にあるのです。
その基盤が夫婦なのです。

男女の深い、深い結びつきは、陰陽合体というものを通して
神の愛の基本原理になっております。
それが宇宙自体を創造しているエネルギーなのです。
子どもに執拗に執着するがあまり
その大事な基本をおろそかにしているのが現代の夫婦ではないでしょうか。

男性霊、女性霊というものが、ともに協力し、愛し合い
そこの中でほんとうの愛ある磁場を、空間をつくれてこそ
そこに信頼し、そこを頼みとし、そこに降り立ってくるのが
子どもたちという神の子たちであるのです。

その魂を、霊を一時お預かりし
その子どもたちの天命を、その個性をそのままに受け入れ育み
そして、羽ばたかせ飛び立たせてあげる。
それは自然界の鳥たちだって当たり前にやっていることではありませんか。
でも、人間だけは違うのです。

成人になっても、いい年をして三十、四十の男になっても
母親たちがしがみついている例がよくあるのです。
そして嫁など来なくてもいい。
嫁が来ても嫁いびりが始まります。
それは母親たちが子離れをしていない。
子どもから自立をしていない。

そして、もっと最悪な場合は、そのように脆弱に育てられた息子たち自体が
母親を捨て切れない。
自立し切れない。
だから自立した中において、妻を守れず、子どもというものを守れず
それを家のなすがままに、親のなすがままの中で
自分自体が家庭をつくる家長として
男として自立できないという不幸な原理まで生んでいるのです。
その時に男たちは、男性たちはしっかりと自立せねばなりません。

親の元で育み育てられたのなら、自分がどういう魂であり、何を天職とし
社会に向かって、進歩調和のため、進歩発展の中で自分がなしていくのか
そして愛する、何を守るべきものが自分の本来であるのかということ
しっかり考えていっていただきたいと思うのです。

そうしたのならば、妻をほんとうにねぎらっていますか?
子どもたちのことにあまりに無関心になっていませんかということを
また私も問いかけたいのです。

確かに、家庭というのは、妻たちだけがやるのではなりません。
そうすると、やはり焼き切れてしまって、相談にも乗ってくれない夫であると
子どものことで一人、ノイローゼになっていく場合もあるのです。

ですから、自分が本来愛さねばいけないもの、守らなくてはいけないもの
守るものあってこそ男性というものはまた光輝くんだということも
言われているはずなのです。

愛の中に、男性は、守っていく。
育んでいく。
そして、その者たちをほんとうの意味で愛し、外敵から守っていくという
そのようなことがあるのです。

その中で、子どもたちに対して自分の職業がどれだけ素晴らしかったとしても
自分の天職が、自分の使命がこの道であるからといって
不必要に子どもに押しかぶせないでいただきたいのです。

子どもには子どもの生き方があると
子どもには神より与えられた価値ある素晴らしい個性があるのだと。
そのようなことを思い、子どもにゆとりをもって見守っていただきたいのです。

そして、それをぜひ応援してあげていただきたいのです
それができるのはまた、父親たちであるかもしれません。
母親は、どうしても我が身、毎日、毎日一緒になっておりますので
近視眼的になっております。

ご主人たちはやはり社会に出ておりますので
帰って来たときに、少し、いい意味で距離を持って見られるのです。
その時にどうか、子どもたちに何か問題があり
奥様方がいろいろな問題を抱えたときに
その問題から逃げないでいただきたいのです。
ともにぶつかっていただきたい。

先ほどのように、問題がこじれて引きこもりになってきたとき
その時にはもう、母親たちでは手に負えない状況になっているのです。
その時に出てくるのは父親たちであるのです。

腕っ節の出てきてしまった思存期の子どもたちに
体当たりで親の愛を見せていく。
ほんとうに愛しているからこそ、お前のことを叩くのだ。
ほんとうの意味でお前と向き合いたいのだ。
それが愛なのだということを
体でぶつけて思春期以降に子どもたちに愛を伝えられるのは
父親の役目かもしれません。

娘たちに対しても、息子たちに対しても
ほんとうの意味で自分が愛しているのだと
無関心ではないのだということを示してあげていただきたいのです。
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愛の反対は無関心です。
冷淡さであります。
憎しみではないのです。

愛してほしい。
自分のことを見てほしい。
振り返ってほしい。
関心を持ってほしい。
それが子どもたちの叫びであります。

おむつを替えたり、ミルクをあげたりとか、そのようなことがなくなっても
やはりまだ自立できない思春期の子どもたちは
親の愛を、視線を求めているのです。

その時に、もう育ってしまったからといって、無関心であってはなりません。
その時に「愛しているよ」と。
確かに愛しているから安心しなさいという
そのようなまなざしを向けてあげてほしいのです。

あれこれ言うことはないのです。
お前のスカートが短すぎるとか、髪の毛の色が茶色とか
あまりごちゃごちゃ言うと嫌われるのです、お父さんは。
だけどそうではなくて、「何か困ったことがあったら聞いてごらん」と。
そのようにひと言、言ってあげるだけでも、娘はうれしいものなのです。

あまりしょっちゅうまとわりつくと、父親は嫌がられますので
娘さんに対しても
やはり大きな、大きな見守りであっていただきたいのです。

そして、先ほどおっしゃられていましたけど
もし何か守ろうとしていたのに不手際が出たとき
その時に全員でその子どもを責めてはいけません。
逃げ場をひとつ見つけてあげてください。

誰でもいいのです。
味方がほしいのです。
その時に素早く、父親でもいいではないですか。
味方になってかばってあげてください。
もしみんなが甘やかしているのなら
お父さんが出ていって叱ってあげてください。
そのバランスが大事なのです。
それは母親たちが特に気をつけねばならないことなのです。

社会に出て、学校の中においても
ひじょうに不当なイジメとかに遭ってきたときに
やはり「大丈夫」と言って受け止めてあげるところがひとつあれば
無関心さがなければ自殺しなかったという子どもはたくさんいるのです。

その時に「ちゃんと見ているから」と。
「つらいことがあったら言ってごらん」と。
「なら、学校に行かなくてもいいんだよ」と。
それはさっきの引きこもりとは違うのです。
やはり逃げ場をひとつ用意してあげるということ。

外の社会に出て行き場がなくなったときに
学校に行かなくてはいけないじゃないか
せっかく名門校に入ったなら行かなくてはだめじゃないか
お前は挫折者なのか、いいから学校に行けと。
それを無関心の自分の我欲の中で、子どもを突き放してしまったのならば
子どもは行き場がなくて、最後は自殺してしまうとか
とんでもない傷害事件を起こしてしまうとかいう問題になるのです。

そのときにどうか、受け入れてあげて欲しい。
その子自体が社会の中において、学校の中において、不当に傷ついたときに
愛というのは、愛の巣というものが家庭だよと。
帰って来て泣いているのを黙って抱きとめてあげるだけでも
ぜんぜん子どもは違うのです。
何も言わなくていいのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-02-01 18:09 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(1)

日向(ひむか)からのメッセージ(11)

ほんとうにその子を愛するということ。
この間、アモール様がおしゃっておられました。
「愛というのは、トータルにすべてを条件なく受け入れることである」と。
「ありのままに愛するということを、愛というのである」と。
そして、「育み、育てることである」と、やはりおっしゃられました。

それを家庭の中において
やはり愛というものを応用していくのであるのならば
子どもが子どもであるということは、あなた方母親であり
父親であるところに授かった命ではあるけれども
魂自体の過去の変遷については、あなた方とは別の魂であるということ。

あなた方の預かり知らぬ過去の転生があり、それなりの魂の尊厳があり
その魂の自由意志というものを、神より保証されて生まれて来ている
尊い神の子の命であるということ。
その立場を親はどうしても忘れてしまうのです。

特に母親は十月十日、胎内に宿し、自分の分身であるかのように
肉体としては自分の分身でもあるのですけれども、どうしても魂においても
命においても、自分のものであると錯覚しがちであるのが女性であるのです。

それゆえに、女性の生き方の中に、子どもに対するひじょうに支配的な
過干渉なものが出てくるのです。
そして、自分の自己実現の道具であるかのように
ネックレスやハンドバッグのひとつであるかのように子どもに接します。

そのときに、今の子どもたちは甘やかされ
自分でどのように抵抗していいのかわからない。
昔の子どもであるのならば、まだそのように、それこそ竹刀とか剣道とか
そういうのをやっていたときには、自らの青春を鍛える機会がございました。

今は何でしょう。
ゲームとかパソコンとか、そしてはたまた受験勉強とか、そのような魂自体を
男らしさを肉体とともに磨くという
そのような場にあまり男の子がいないのです。

そうなったときに、男の子は男の子としてのエネルギーが
思春期に爆発してきたときに
自分でもわからぬ、わけもわからぬ怒りとして発散してくるのです。
それが家庭内暴力というものの実態であります。

家の外に行ってではないでしょう。
彼らがバットで壊しまくるのは、家の中でしょう?
家族を、親を、特にバットで殴ったりとか
家の中をむやみやたらに壊してまわる。
それは彼ら自体もわからない、突き上げてくる怒りなのです。
それは何かというと、自分自身をありのままに受け入れて
ありのままに愛してもらえない者たちの怒りが噴出しているのです。

あなた方は、ほんとうに愛というものを学んでいるのかと、私は問いかけたい。
愛は条件つきではないということを、アモール様もおっしゃられました。
女性は、親はどうしても、特に女性は、これだけ愛して育てたのだから
私の老後の面倒を見てくれとか、私がこれだけ育てたのだから
嫁が私の言うことを聞いて当たり前だとか
過去のいろいろな嫁姑問題、子どもたちのあつれきは
大体が鬼の姑と言われる女性たちによって引き起こされることが多いのです。

それは、女性たちが自分の持ち物であると思い続けた
子どもたちに対しての独占欲、執着心、所有欲というものが
いつまでたっても切り離せず
自分のものであるというのを思い続けたところによる
人類の不幸でもあるのです。

子どもは、それぞれの魂としての気高さをもって神より創造されました。
その一時、あなた方の家庭を通路として与えられ
その子どもを授かるということを通して夫婦もまた愛を学び
養育者として自らも霊的な成長の場を与えられていくのです。

そして、一時預けられ、そして成人していったのなら
その子の個性を開花するようにと
それまで教育を一生懸命して、一生懸命その子なりの個性が開花するように
そのためには努力しなくてはいけません。
教育も与えていけばいいのです。

そうしたのなら、一切の執着を持つことなく、見返りを求めることなく
その者たちが羽ばたいていくとき
そう、つばめの子どもたちが羽ばたいていくときのように
親は子どもたちを手放してやらなくてはいけません。
飛び立たせてあげなくてはいけません。

その子どもが新たな配偶者とともに家庭を持ったときに
そこに差し出がましいことを言ったり
自らの支配下に置くようなことを一切言ってはなりません。

それが、その子どもたちに対する神が与えられた自由意志であり
神性の開花を望むのであるなら
親たちも、ともにそのように霊的な成長というもの
肉体的な成長というものをともに祝い
喜ぶようなそのような親たちでなくてはいけません。
見返りを求めたり、執着の賜物、産物として子どもに接してはいけないのです。

そのように思うから子どもたちに内的な怒りが、彼らはあまりに幼すぎて
肉体的に大きくなってきたけれども
どのようにしてこの呪縛から離れていいかわからない。
そのために、もうむやみやたらに反抗し、物を壊してまわるのです。

そして、無気力さがその終結点として出てきて、学校に行く力もなくなり
社会に出て労働する意欲もない廃人にしてしまうのです。
それは何かというと、親の接し方にあったということです。
幼い頃からの、子どもたちに対する接し方にあるのです。

まあ、いつもこの方が、人様の前で「子育て論」ということでよくお話をして
なかなか好評を得ているようでございますけれど
その中でこの方のよく使う言葉に
「薔薇は薔薇のように、向日葵は向日葵のように
菫は菫のように育てなさい」という言葉を
この方はよく言うのです。

そのときに、すみれに薔薇のように咲けと言っても無理なのです。
向日葵として本来大きな使命を持っているものに、それは差し出がましいから
すみれのように咲けと言ってもまた酷な話であります。

その子どもたちの魂というもの、その香りというものを
母親たちは、親たちはしっかりと見守り
その子どもが何を本来魂として要求しているのかということを考えていく
それを与えていく。
それがわからなくても、ただただ無償に愛していく。
見返りを求めない。
そして、成長を喜ぶ。

社会の中に出て恥ずかしいような言動をするような者であるのならば
ほかの他人は冷たく笑っているだけかもしれない。
でもそのときには、腕まくりをして行って
命がけでその子どもと体当たりをして
その子どもに恥ずかしい思いをさせないために、命がけでぶつかっていって
子どもには人間のあるべき姿を教えていく。
この体当たりをしてぶつかっていく、その姿が愛であります。
親の愛であります。

今の子どもの母親たちは、子どもが少ないゆえに、見ておりますと
子どもに嫌われたくないのです。
ひとりっ子の子どもたちの母親たちは、特に見ていてそう思います。

子どもに嫌われたくないから、子どもの機嫌をとっているのです。
子どもにいつも、いつも機嫌をとって
自分だけは何とかちゃんの味方ですよ、と言って愛されようとし
父親よりも息子に機嫌をとっていく。

そのようなことの中で、子どもに対して、たとえば間違ったことをしたときに
ほんとうの意味で子どもを殴れますか。
ほんとうの意味で厳しく子どもをとがめられますか。
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昔の母親はすごかったのです。
強かったのです。
なりふりかまわず子どもとぶつかっていったのです。
怖いときは、お母さん怖かったのです。
そして、それで聞かなければ
最後に出てきて怖いのはお父さんだったのです。

お父さんはいつも、いつも怖いのではありません。
お父さんは黙って後ろで控えていればいいのです。
お母さんが一生懸命なりふりかまわず言うときに
たとえ母親にぶたれたとしても
何されたとしても、ほんとうの意味で自分をだめにしないために
この母親は命がけでぶつかってきてくれるのだと
愛されているのだという実感さえあれば、子どもは悪くなりません。

手を上げたから悪くなるのでないのです。
手を上げたからといって子どもが急に悪くなるとしたら
それまでにしっかりと親子としての絆を築き、ちゃんと小さいときから
ぶつべきお尻とかをぶってこなかった。
体当たりで正面からぶつかってこなかった。
親が逃げていた。
そのようなことに対する子どもたちの怒りがあるのです。

自分をほんとうに良くするために怒ってくれる
叱ってくれることを、子どもたちは無意識に喜ぶのです。
なぜならば、先生においてもそうです。
昔の先生たちだって
ほんとうに子どもを良くしようと思ったら体当たりでした。
竹刀を持ってでも、お尻を叩いてでも
子どもたちを一生懸命育てようとした立派な先生たちがおりました。

今は、手を上げたら問題が起きます。
教育問題、教育委貝会のほうに問題がいきます。
それをまた、ぎゃあぎゃあ言うのは過干渉な母親たちなのです。
自分の息子に手を上げたと。
必要なことだったならば
「どうぞ先生、うちの子が悪さをしたら叩いてください」と言うくらいの
度量のある母親たちがいないのです。

なぜなら、子どもの機嫌をとって
一人か二人しかいない大事な子どもに、自分すら手を上げたことがない。
まして父親たちにも上げさせない。
そのようなことの中で溺愛しているから
よその人が、よその先生が手をあげるなんて
とんでもないことになるのです。
ですから、教育委員会のほうに文句が出るのかもしれません。

でも、愛というものはそういうものではありません。
神の愛を見てください。
神がいつも、いつも甘いことばかりを人類に言っているでしょうか。

愛というものは無限に赦し、無限に与えることである一方
やはり因果応報という摂理の中において
自らがやったことは自らが刈り取るということ。

ほんとうに神の愛が甘いものだけであるのだったならば
すべてを与えて溺愛することだけの中で
つらい天変地異とか、そういうことを避けさせるのではないでしょうか。

でも、その天変地異ですら
悪想念はあなた方人類が溜めてしまったものなのだよ。
だからその清算するのはあなた方自身なのだよということをもって
神は自ら刈り取るという義務を人類に与えられるのです。
愛というのは、厳しさという面も反面あるのです。

そして、愛には忍耐というのがつきものであるということを
あなた方も言われました。
忍耐というのは何であるか。
愛するべきものをトータルで受け入れたのであれば
ありのままに、その愛するものの成長を見守るがゆえに、成長を望むがゆえに
忍耐というものが必要になるのです。

いつも、いつも甘いことばかりを言わず、やはり数々の試練を通しながら
苦しみ、悲しみを通し、この魂が成長していく過程を望むからこそ
より素晴らしい未来をこの魂に望むからこそ、厳しさの中で涙を流しながらも
忍耐をもち見守り続けていくのです。
その神のお姿を見習っていただきたいのです。

その姿が、神のお姿が私たち親の姿でもあるということ。
人類の進歩発展ということ、成長というものを見守ってくださる神のお姿
愛の姿があるように、私たちはその縮図である家庭を通して
神の子を授かりその魂を育て、成長させ、それを愛で包み
それをまた社会に帰していく。

ある意味で、神と同じことを、家庭を通して
創造者と同じことをまた試練として
わたしたちも魂の進歩発展のために預かっている。
そのように尊い場が家庭であるということなのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-27 16:53 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(10)

引きこもりの子どもたちの八割は男の子であると言われます。
二割は女性、女の子なのです。
その事実を考えて、どのような意味があるかというと
基本的には昔から
エディプス・コンプレックスとかいろんなことがございますけれども
女の子は基本的に、男の子にひじょうにいれあげるものなのです。

そして、女の子と母親というのは同性同士です。
ですから、ひじょうにある意味で敵対関係にあるので
同性同士はひじょうに意見が厳しいのです。
ですから、それほど甘やかすことはないのです。

逆に娘を甘やかし切ってしまってだめにするのは
父親でもあるかもしれません。
でも父親というのは常に家庭にべったりではないので
それほど娘に対しては大丈夫なのです。

今度は、男の子。
今自立し得ない、結婚することも、好きな女性に愛を告白することも
果ては学業も途中で放り出して引きこもって
自宅でパソコンとかゲームばかりにうつつをぬかして
まったくの労働意欲を持たぬ子どもたちが、それが、大方が男性なのです。
男の子に多いのです。

それが何でだめなのかと言いますと、確かに父親たちが本気でぶつからずに
仕事、仕事で明け暮れていたということはあるのです。
でも昔においても、たとえば、かつての戦国時代の武将などでも
長いこと戦いに行って帰って来ないことはございます。

ひじょうに忙しかったときに
そのときに毅然として母親たちが家を守っていたのです。
だから現代、すべてを父親のせいにするのは、私は間違いだと思っております。

その時に今暇な家事から解放された
少子化の、ひじょうに子どもの少ない母親たちはどうするかというと
父親に対して敬意を払い、父親に仕えるということ、大切にするということ
それこそがいちばん大事であるということ。

この間、このはなさくやひめがおっしゃっておられましたけれども
そのような謙虚さ、夫に仕えるという妻としての謙虚さを失った現代女性は
ひじょうに夫というものを見くびって
子どもの前でも平気でくさしていくのです。
そうなったときに
子どもたちの中に父親に対する尊敬心など育つわけがないのです。

それを母親たち自らやりながら
そして、その自分かかなえられなかった夢を、夫が出世をしなかった
そして金銭的にも満たされない、それはほんとうに足りないわけではなく
次から次へと要求してくる
現代の物質的な豊かさを追いかけるがゆえのことがあるのです。

ほかの女性と見比べながら、自分がひじょうに惨めになっていったりして
その夢が挫折したという、結婚生活に描いていた甘い夢がくじけたとき
それがどうするかというと、子どもに向くのです。
それも特に男の子に向くのです。

本来は夫に期待し、夫を立派に育てあげるために
妻たちがエネルギーをかけなければならないものまで、夫をほっといて
夫に仕えることもなく、それこそ食事の用意やお弁当ひとつつくることなく
それをほっておきながら、すべて息子の溺愛のために
息子のためにいい学校に入れるためだけに
過干渉なまでにしがみついていくのです。

そして、その果てにどうするかというと、息子を駄目にしていくのです。
男としての自立心というものをすべて奪っていくのです。
そこまで女性が支配的になるのです。

暇なのです。
はっきり言って暇なのです。
電化製品が氾濫し、今少子化の中で、昔みたいに何人も子どもがいた時代には
そんなことはできなかったのです。

たくさんの子どもを育てなければなりません。
洗濯機ひとつないところで一日中掃除をしたり、洗濯をしているのです。
そのときに過干渉にはなれないのです。

でも今は、あまりにも豊かさの、現代文明の中で暇になった女性たちは
過干渉の中で息子にしがみつき、夫によってかなえられると思っていた夢を
息子にしがみつくことによって、娘にかけることによって
息子たち自体の人生をだめにし、男としての戦う、自立していく
社会に対して攻撃的なまでに向かっていく
そのような陽のエネルギーを削いでしまうのです。
それが現代の母親たちの姿でもあるのです。

その中で先程申しましたように、思春期を迎えると
いきなり暴力が出てくるのです。
それはその子どもの叫びです。
魂の叫びなのです。

不当に自分の魂を、個性をじゅうりんされ、自分の本来やりたいこと
世間のよその坊ちゃんやお譲ちゃんたちと比べられて
自分の単なるプライドのためだけに
必要以上の名門校と呼ばれるところにやろうとして、勉強、勉強で押しつぶし
その子のほんとうの魂の叫びを聞いてあげない。

あなたはいったい何をやりたいのかという
それを聞いてあげない母親に対する怒りなのです。
それが社会全体に蔓延しているのです。

子どもたち全体、それは女の子の貞操問題も含めまして
ある意味で、母性に対する子どもたちの反乱であると
前回申し上げたのはそこなのです。
それがやはりあるのです。

母親というものが命がけで守ってこそ、家庭というものは意味をなします。
まして子育てにおいて
ある意味で、子どもを育てるということは母親であるというだけではなく
教育者の部分としても、あと創造的な部分を伸ばしていくという
クリエイターという部分の、創造者としての役目もあるはずなのです。

母親が子どもを育てていく。
そして、夫を引き立て、夫の仕事を開花させ
夫の使命も社会に貢献できるように導いていく。
裏で支えていく。

そのことがどれだけ妻として母として
家庭の中において女性に大きな役割があるかということ。
それ自体が、社会を変えていくご主人方のエネルギーそのものを左右し
そして、地球の将来の人類の命運すらかけていく。

そんなに大切なところに、女性たちが今
家庭婦人として言われている方たちがあるかということを
どれだけの人たちが認識して
今、子育てということをおやりになっているかということを聞きたいのです。
そういう認識がないはずなのです。
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この間から言われておりますように、女性の内助の功があってこそ
男性の仕事というのがどれだけ開花するかということが問われるのです。
女性が自己実現をいったのならば
男性としての夫の仕事意欲
仕事が開化する才能もそのままつぶしてしまうのです。

男性は女性の、愛する妻の温かい励まし
そして、時には温かく包むユーモア、そのようなものを通して
男性は百人力のような勇気を得て
愛する者を守るために自分自身の個性を開花させ
天命を全うして社会に立ち向かっていくものなのです。

多くの敵がいても、その者のためになら頑張れるのが男性であるのです。
そのときに、「あなたお疲れ様です、ご苦労様です」と。
子どもたちに対しても、「お父様が頑張ってくださったから
私たちはこのようにご飯も食べていけて、私たちは幸せですね。
お父様に伺いましょうね」と。
そのような思いで子どもたちに接する母親たちが
今どのぐらいいることでしょうか。

そのようなことをしないから、父権喪失という言葉が出る。
でも、それは確かに戦後の日本を立て直してくる男性たちが
家庭をおろそかにして、仕事、仕事で走っていった
そういう世代の弊害というのは確かにあるのです。

でも、それだけではなくて、一生懸命戦ってくれるのは私たちのためなのだと。
そういうありがたいという思いで
子どもたちに対して接していた母親のいる家庭においては
たとえ父親が出張でなかなか帰って来なくても
子どもたちの中には、お母さんがそう言うのだからお父さんは立派なのだと
お父さんに感謝しようという思いの中で
子どもたちはしっかりと育っていくのです。

その中において、秩序というものは、家庭の中に自ずと備わり
父権というものは、いなくても
やはりたまにお父さんが帰って来たときに、ちゃんとそこに存在するのです。
父権というものは、父親が父親であるということを支えるのは母親たちの
妻たちの役割であるということなのです。

自分自体が夫にちゃんと心から尽くし、心からの感謝を持っていない者に
なぜ子どもたちに対して
そのようなお父さんを父親として尊敬しなさいという言葉が
通じることでしょうか。

まず女性たちが、妻たちが、夫に対して夫を立てて
やはり夫につき従っていこうという
その謙虚さをもって尊敬していたのだったら
子どもたちは自ずと小さい頃からそういうふうに育ち
父親というものに対して、やはり敬意というものが、尊敬というものをしっかり
男の立派な像として刻んで育つのです。

それさえあれば、あとは本人たちの個性が開花していくのを
温かい愛で母親たちが包んでいけばよいのです。
それ以上、過干渉になることはないのです。

今の若いお母さんたち、現代の母親たちは
夫を自らが不在にしてしまっているのです。
そして、自らが物質的な価値観、この世的な
よそのお子さんたちと比べる価値観の中で、自分がどんな子どもを欲しいか
ただ、まるでハンドバッグや靴や、高い高級ブランドの化粧品を買うように
子どものブランドを決めるように
子どもの学校とか習い事を決めていくのです。
そして、子どもの人生までも左右しようとするのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-22 08:34 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(9)

現代の女性としての生き方、または母として、妻として、親として
どのように生きていくか、このような基準と申しますか
生きる価値観というものが
現代の日本の中において混乱しているかのように思われます。

そのことについてひと言お伝えしていく
それを「女性の法」として編纂していただくというのが
私の長年の悲願でもございました。

現代の日本女性について、さまざまな霊人から女性としての生き方
そのような形で、妻としてどのように生きるかということを
この間、木花咲耶媛とか
小桜姫とかいわれる方がたからお話がいっていると思います。

それを踏まえまして、今日は、その先の部分において
現代日本における家庭のあり方、そして、家庭の中における子どもという宝を
神の子の宝を預かる場として
どのように親として子どもたちに対して接していったらよいかという
そのことについて私なりの思いを
ひとつお話させていただこうかと思って今日まいりました。

家庭と申しますのは、愛し合う男女が一体になり
神の思いを、神によって我々人間が与えられました創造性
創造性と愛というものにより
家庭を通して新たな神の子というものを授かっていく
そのような場だと思います。

私たちの中に、まず家庭の基本というもの
この間、木花咲耶媛がおっしゃっておられたように
まず家庭におきまして
「女性」というものがキーワードになっていくということ。

現代のさまざまな非行、引きこもり、さまざまな暴力的な事件などを見ますと
その根本にあるものは母性の喪失
母性に対する子どもたちの反乱というものがあるということを
前回私は、かつて送った霊言集の中にお伝えしているはずなのです。

それについて、そのときは、さわりしか申し上げられませんでしたので
それについての私の理論展開というものを
今回お伝えしていきたいと思うのです。

母性というものは、女性の中に神が与えられました最高の贈り物であります。
男性が社会に対して、文明に対して
進歩発展の活動的な「陽」のエネルギーを与えられておられますように
女性に対しては、「陰」と申しますか、受容的な
そして、霊界との通路というものを、子宮というものを通して与えられ
その創造性を、男性は社会に対する創造性
女性は子宮を通して霊的な、内的な神の子を宿すという創造性というものを
その体内に預かっているのです。

精神的な意味におきましても
やはり神の子を創造していくという意味におきまして
霊的な意味においても、このように巫女というような霊的なものを受け入れる
そういう通路というのが女性霊の中には、霊的な意味においてもあるのです。

肉体の中にも子宮というものを通して
やはり新たな生命を創造するという通路ができているということが
事実なのです。

そのことを考えましたとき、男性方は女性を
そして、社会の中において家族を守るという、愛すべき者を守っていくために
社会に出て活動するということを
やはりその使命のメインテーマとして与えられているのです。

女性は、まあ一概にすべてということは申しません。
「職業婦人」と呼ばれている方たち、その豊かな才能をお持ちになる方は
それによって使命を開花されることもまた意味があるのですが
大半の女性におかれましては、愛を学ぶ、女性が愛を学ぶというのは
やはり結婚をし、愛する人の子どもを産み
その中において神の子を育てていくという、そのような過程において
自らの愛というものを学び
そして霊的な進歩成長というものを学んでいくという
そのような過程というものを、そのような修行場としての場所というものを
この地上に与えられているというのが、大方の真実であります。

そして、その中におきまして、生まれる子どもたち
その子どもたちに対する母親たちとして、女性たちの接し方が
ある意味でひじょうに問題があるから
今日このような事件というものが
子どもたちの成長においてのさまざまな歪みというものが起きていると
申し上げられるかもしれません。

そのように申し上げますと、子どもの成長というもの、育児というものが
すべて女性だけにかぶせられるという、責任を取らされるということは
ひどく迷惑であるということを今の女性たちに言われるかもしれませんが
やはり男性というもの、父親というものがいるということも大事です。

それはよくわかっておりますけれども、まず幼いときより、小さいときより
もしお父さんお母さんが離婚してしまったのなら
どちらがより小さな子どもたちにとって必要かということを申しますと
より小さな子どもたちにとっては、幼い子どもたちにとっては
お母さんというものが、母親というものが、どれだけかけがえのない存在か
育っていく上において、母親の愛というのがどれだけ、子どもたちが
幼い子どもたちが必要としているか
それは誰の目から見てもわかるはずなのです。

それを考えますと、いかに女性というものの天職の中に
子どもを産み、育み育てるということが
いかなる、ほかにいかなる価値ある職業があろうと
これに勝る神命、職業は女性にはないのであると私は言えると思うのです。

新たな地球の未来を、人類の未来をつくっていく神の子たち
その未来の神の子どもたちを
どのようにして素晴らしい子どもたちとして育み、育てていくか
羽ばたかせていくか。

そのことが、ある意味でお母様の
その女性として母性をいかに表現をしていくか
その愛で包んでいくかということにかかっているのだということ。
そのことをもっと深く認識していただきたいと思うのです。
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子どもたちに対して、いくつかの今の母親たちの間違いについて
関わり方の特徴について、今日は申し上げたいと思うのです。

女性は今、大きく大別しますと、職業婦人とか外で仕事をしたい
せっかく優秀な大学を出たのだから
せっかく立派な職業についているのだから
結婚などしたくない、子どもに縛られたくないと言って
いくつになっても結婚をせず、子どもも欲しがらずというタイプの女性と
やはり結婚はしたいということで結婚をして
子どもたちを育てることを受け入れた女性たちの
大きく二つのパターンに分けられると思います。

今までは、その独身のハイミスの人たちの話題が随分多かったのですが
今日は、結婚した女性たちの、その子どもたちに対する接し方
それについて考えてみようと思って今日お話しいたします。

まず、そこのところで子どもを産むということを受け入れて
家庭の中に入って、子どもを授かったということです。
当初、やはり幼い命を産むということに
ドキドキしながら喜びを持つものなのです。

そして、その子どもたちを育てていく過程の中で
何を今のお母さんたちは間違っていくかという中で
今、世の中が科学的なもの、物質的なものにひじょうに目をとられ
女性たちもひじょうに、物質的な豊かさの中で
己を見失っていくという意味において
結婚する、していないを問わずに、やはり女性の心を大きく占めるのです。

高いバッグを買ったり、高いお洋服を買ったり
ひじょうにある意味で目に見えるもので
女性もまた虚飾を張ろうとするのが事実なのです。

その過程の中で、まだバッグやハンドバッグや
靴や洋服ならまだよいのですけれども
何を考えたのか、生まれた子どもを通して自らの自己実現
エゴの実現というものをしようという
そのような女性たちが多くなっているということなのです。

子どもは子どもとして、神より与えられた大事な、大事な、大切な宝です。
一時お預かりし、「子どもは子宝」と言いますけれども
子どもは授かったのならば、それを育て上げて羽ばたかせ
一時お預かりしたお預かりものであるという気持ちで
魂を受け入れねばなりません。

そして、あるがままに受け入れ、あるがままの個性を、魂を受け入れ
愛の中で、無償な無私の中において育み育てるという
それが女性の使命であるのです。

でもいつのまにか、それを自分のステータス、自分の地位の証であるかのように
子どもたちに不必要な、その魂が望んでいないにもかかわらず
皆自分の自己実現のために有名幼稚園や小学校や学校に入れたり
そして、お人形さんのように飾り飾って、自分のアクセサリーのように
自分の持ち物のようにして外を歩いて連れて行く。

その中で自分の、ある意味でミセスとしてのステータスを
そのための道具として
小さい子どもたちのステージママと呼ばれる方たちもそうです。

みんな子どもたちがほんとうに望んでのことでしょうか。
ほんとうにその子どもの使命に
その子どもの魂に沿うたこととして与えている環境でしょうか。

大方見ているとそれは、自分ができなかった
なしえなかった夢の自己実現の道具に
子どもを使っていることにすぎぬことが、ままあるように思われるのです。

そして、小さいうちはお母さんがすべてです。
小さいお子様たちはお母さんの言いなりになるのです。
そして、お父さんたちがどれだけ止めても
結果的に見栄を張ったお母さんたちは
一生懸命着飾らせて、子どもたちを自分の道具として、自分の夢の証として
子どもを飾りたてるのです。
そこに子どもたち本来の叫び、本来の子どもとしての要求
そのようなもの、すべて無視されていくのです。

でもそのうちに、子どもたちは自我が発達してきます。
己自身の誰にも嘘をつけない自我というものが
思春期を通して成長、発展してくるのです。

それが、その時期になってきたときに何が出てくるかと言いますと
自分がいくら嫌だと言っても、叫んでも、過干渉、過保護というものが
今日の母親たちの欠点でもあります。
先ほど言った自己実現のための道具のための、アクセサリーとして
自分の夢の押し売りという形での
子どもたちの人生をつぶしてくるということ。

そのときに思春期に入ってから、特に女の子よりも男の子に対して
過干渉であって支配的であった母親たちは、思春期の男の子たちに
暴力、家庭内暴力とか、あとは引きこもりとか
そのようなもので復讐を受けていくのです。

それが今日あまりにも、引きこもり、ニートという
そのような引きこもりの
労働意欲、学習意欲のない子どもたちを生んでいる現状であるのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-16 07:44 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(2)

日向(ひむか)からのメッセージ(8)

女性において、この宇宙の法を降ろした方はおりません。
本来であるならば、構造的に無理なのです。
でもあえて、この「第三の計画」という
もうのっぴきならない計画でございますので
このようなウルトラC級の技が
こう、地上に出されているということがあり
その道のマニアの方たちから見たら
賛否両論の話し合いがあるのだと思います。

でも、これもまた、もう少し地球自体の
地球人自体の認識力というものが高くなれば
神の世界にはさまざまな道があり、さまざまなエネルギーとして
霊界との通信方法というのができるのだということを
人類が学んでいけば、けっしてそれは間違ったものではない
不自然なものではないということが認識される時代がくると思います。

ただ、そのような認識をするようなレベルに地球がなかったということです。
それと、それをできる人があまりいなかったということです。
この方におかれましても、一人でいたらとてもできないのです。
このような技ができるのは、やはり九次元からの指導が
そして、その方の大いなる犠牲が伴っているということが事実なのです。

私たちの世界から申しましても、霊域がいいところでなければ
この三次元に直接降りて来て、私の言葉でも、途中、仲介の者がなく
肉体にいるものに直に入って、あなた方にメッセージを送るということは
普通は考えられないのです。
そんなことをしたら、普通、地上にいるシャーマンは焼き切れてしまうのです。

でも、私たちの言葉であるならば
直に今、こう入っておりますけれども、伝えることができますし
そして、九次元のみがたの言葉もあなた方は聞かれているわけですけれども
そのようなことがダイレクトにできてくるということは
やはりこのような九次元からの
直接三次元に降りて来られている方の大いなる愛と奉仕
ほんとうに究極の奉仕の姿であり、究極の愛の姿であるということを
私などは感動をもって見ております。

みんなができるわけではないけれども、ほかの星に行けば
このような通信方法で降ろせる方はいくらでもいるということを
逆に言うと証明して見せているのかもしれません。

地球レベルではあまりにも高等技術であるので、びっくりしているだけであって
まあ、この間から、お話で面白いのが
小学校から中学校レベルに上げようとしているという言葉を
使われておられましたね。
マイトレーヤー様ですか。
お話しして、まあ上でも今それで話がもちきりなのですけれども。
中学校レペルになろうとしている。
でも、この技というのは大体が高校レベルの方たちならばやることです。
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今、算数を小学校の子どもたちが、このうちの子でも
割り算とか、分数とかが出てきて四苦八苦でやっているわけですね。
でもそれが、割り算と掛け算九九を一生懸命覚えている段階で
じゃあ、中学行ったらどうするか。
中学の人から見たら、割り算や分数は当たり前じゃないかと言って
方程式とかを解いていますよねえ。

でも小学生に対しては
「どうだ、こんなに方程式ができるんだよ」って威張っても
高校の人から見たら
微分積分という難しいのをやっている子たちから見たらば
「なんだ、こんな簡単なことを偉そうに威張ってるんじゃないよ」と
中学生の子に言っている。

それは、なぜこういうことを申しますかというと
このうちの子たちが、去年まで高校生、中学生、小学生で
同じ状況を見ておりまして面白いなというふうに思ったのですね。

小学校二年生の三男の方に対して
中学校に入ったばかりの子が一生懸命教えている。
「こんなの簡単なんだよ、僕は方程式をやっているんだよ」って言って
威張っている。

そうすると今度、高校三年生の数学の得意なお兄ちゃんが
「何言っているんだ、こんなもんぐらいで。
おまえできないのか」と言って、微分積分をやっている。
その姿を見ていると、段階が上がっていったら
それぞれがみな簡単になってくるということ。

でも、小学校は小学校レベルで一生懸命やっているのです。
必死に掛け算九九を覚えているのです。
なんで掛け算九九になるのかが理解できずに
必死に覚えようとしているのです。
それが、今、地球人の姿であるということです。

でも小学生は小学生として、愛らしく、いじらしく
一生懸命頑張っている姿をもって、小学校を指導している先生たちは
一生懸命彼らをわからせようと思って指導しているわけでしょう。
だから、中学校は中学校の先生が一生懸命指導している。
高校は高校の先生が指導している。
そのような段階があるというだけのことなのです。

ですから、これが小学校の子から見て、自分がやっているのが
なんかいっぱいXとかYとか、いっぱい数字があって
高校の微分積分をやっているお兄ちゃんのノートを見て
「こんなミミズみたいなのがいっぱいあって、僕はわからないよ」
ということを言ってましたけれども、じゃあ、自分が理解できないからといって
こんなものが間違っているか。
それを、一部の、その地球レベルの検証マニアの人たちが言っているようにしか
わたしたちには見えないのです。

あなた方は理解できないかもしれない。
それも女性が、九次元の法の、宇宙の法を降ろすなんて
不可能である、間違っている。
だからレムリアの霊言は間違っているという論理が
そこで通じるのでしょうけれども
それはあなたが認識していないだけ。
あなたが理解できないだけ。
あなたができないだけであって
「もっとできる高等技術を持っている人から見たら、
当たり前なことなんですよ」と。
「それは宇宙の法の中では、神理なのですよ」ということ。
その事実を自分が受け容れられないから、判断できないからといって
それを間違いであるとする。
そのような無知蒙昧なことを人類は、してはいけないということです。

まあ、でもその方たちも、いずれ時間の流れの中で
自分がまだ掛け算九九をやっている段階なのだということが
わかる時がくると思いますので、小学校の先生のように温かく
怒らず赦しをもって、見守ってあげたいというふうに思っております。

(2005.7.14 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-08 14:21 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(1)

日向(ひむか)からのメッセージ(7)

本体エネルギーから来ているその一部を引いて地上に出た場合
その、あなた方の言っている五本の指があるでしょう
五本の指の手のひらの部分から発生して絞り込んで
地上に肉体を持った場合と
この分身の部分の過去世の記憶のところから出して
その一部を持って地上に出た場合と、そのような場合があるのです。

このようなこの者、そして、前のOという者におきましても
そして、わたしの指導しているもうひとりの女性におきましても
やはりそれは、本体の部分から来たエネルギーの一部を引っ張り出して
地上に肉体を持っているというのが今回である。
それはあなた方におかれましても、ほぼ全員そうでございます。

今のこの大事な救世の時代において
あなた方が分身のところからエネルギーを引いて修行する
こういう場合っていうのは、過渡期的なときに
自分の経験知を広げるために
分身のほうからの体験をするために、出て来る場合が多いのです。

しかし、こういう大きな救世の大事業が起きてきたり
時代の端境期にくるようなときには大体
特に光の天使としての使命を持たれる方がたは
この本体、この本体は手のひらでありますから
この五本のエネルギーがすべて流れ込んでいるところです。
このすべてのエネルギーを統合したエネルギーを持つのが本体でございます。

だからやはり、トータルな意味でものが見られる。
分身の者はやはり視野が狭い。
自分の個性、一人の人間の中には
たとえば、先ほどマヌ様のことをお話しておられましたけど
芸術系統が強い方、法律が強い
そしてあの、戦闘的な民族問題がお得意であると。
あなた方が考えている以上に、あの方は文学とか
そういうものもひじょうにお力がありますし
まあ、万能の、九次元の方というのは、あなた方から見たら
万能の天才であるというふうに思われればよろしいのです。

ひとつのものだけのスペシャリストというよりは
万能の天才と呼ばれている方たちが多いのが、九次元の方がたなのです。

その中でもやはり個性があり
卓越した個性、お得意な領域を持たれるというのが
まあ、カイトロン様とか、ああいう専門を持たれる方
まあ、この間お話しくださいましたマイトレーヤー様におかれましても
法というものを
やはりいちばん担当できる方というようなことはございますけれども
まあ、普通の私たち一般の者から見ましたならば
わたしたちが得意とするような部分は
軽く分身あたりでこなしてしまうような水準にあるのが
九次元の方がたであるというふうにお思いになればよろしいのです。
トータルな天才的な部分が九次元の方であるということです。

まあ、だから、私たちの段階でおりますと
まあ、七次元ぐらいの、あなた方と、わたしでありますとね
この中におきまして、分身のこのところから出してくるのではなくて
それを吸収した、この個性が経験知として過去世やったところの
その本体のここから、あなた方は今エネルギーを引いて
地上に出て来ているということです。

ですから本体から生まれてきた者は、やはりトータルな広い視野
そして、過去世あなた方がパーニャパラミタの中で蓄えてきた叡智というものが
すべて流れ込んでくるという、そういうような底力
魂の底力というのをお持ちである。
そのようなあなた方であるということです。

ですから、あなた方一人ひとりも、これからですね
こういう新たな宇宙時代になっていったときに
やはり霊的な感性というのがみんな開かれていくわけです。

そうなってきたときに、この者だけが今やっているのではなくて
あなた方自体もパーニャパラミタを通して、自らの深層心理のほうに分け入って
自分の叡智というものを、過去世蓄えたものというものを
自由に引き出せる時代というのがまいります。

今生きているうちでも、あなた方は研さんすれば
できるような磁場の中におりますので
ぜひそのような方向でも頑張っていただきたいと思うのですけれども
やはりそのような力を持って
やはりこの地上に、今回、大いなる使命を持たれて
「やるぞ」と言って、出て来られたあなた方であるということです。

分身あたりの者が出て来たのと、本体から出て来た者とでは
わたしたちの目から見たら、明らかに力が違うということ。

そして、この本体から出て来た者であるならば、霊道というか
まあ、潜在意識に同通すれば
ここに、天上界にいる者たちの意識を引っ張ってきて
過去世の話をするなどというのは簡単なことであるということです。

ですから、この本体の残りの部分も
たとえば、今この者であっても地上に肉体を持っていますね。
そうすると、この、これだけのわたしたちの世界でありますと
ひじょうに巨大なエネルギー体でございます。

そうすると、この巨大なエネルギー体の中の、ほんのわずかな部分を
この三次元の肉体に込めて来るわけです。
すると、残りの部分はどうするかというと
残りの部分は当然、天上界にあるわけです。

そして、この者の潜在意識が天上界にある者はやっぱり
ちゃんと使命を果たしているわけですね。
ですから、その使命をしっかりと果たしながら
この地上の者を見守っているわけです。

で、まあ大体が、この自分の過去世の者たちが
守護指導霊をするというふうに言われておりますけれども
このように任が大きい者の場合は
やはりいちばんその場所に
指導にいちばん適した者が、その守護霊にあたるという
まあ、五次元、六次元クラスですとわからないので
自分の魂の兄弟が必ずつくという理論がございますけれども
神の使者になってきますと、また違うのです。

ですから、この者におきましても
わたしがずっと守護してきた者におきましても、本来であるなら
ギリシャのヘラが出て来て守護するべきではないかという疑問が
あなた方の心の中にパーッとわいていたのがわかりますけれども
そのようなものではなくて。
まあ外国にずっとおられた方でございますので
日本の土壌というものがわからない
日本の風土、ものの考え方というのがわからないけれども
でも日本において大いなる法を説いていきたい、大きな計画の補助をして
大いなる女性指導者としての使命を果たそうと
彼女は思って来られたわけです。

そうすると日本の地にひじょうに長く親しんでいて
日本人の心というものをよく理解している
それでいて魂の兄弟である私のような者に
守護してもらえないかという要請がくるわけです。

それで、私にしましても、もとの分光としまして
もとの本源は同じ生命体でございますので
やはり喜んでやらせていただきましょうという言い方になりまして
私が守護をしていたということです。
この者におきましても
ではずっと、ギリシャのアテナという人がやっていたかというと
そうではないということです。
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途中でさまざまな使命が、何度もこの者にも言われて
いろいろな仕事をしてまいりました。
その都度にジャンヌ・ダルクがついたりとか、やはりいろんな
私が脇で補佐したりとか
そういう、まだこの人がわかっていない方が補佐したりとか
そういうことがあるわけですね。

ですから、神の使者たちというのは
やはり一般で言われている一般論の枠からは多少違う
使命に応じた守護霊、指導霊というのが、その場に応じてつくということ。

そのような臨機応変な態度であるということを
皆さま方はお知りおきいただけたらと思います。

それもこの者とか、もう一人の指導者の女性指導者の件だけではなくて
あなた方自身においてもそうであるということです。

自分を自己限定なさられたら、それ以上広がりません。
使命に応じて、生き方に応じて、守護霊、指導霊というのは
どんどん高位な者がついてくるということ。
そして、新たな分野に挑戦して新たに
たとえば、本来ならレムリアは立ち上げるべき計画ではなかったのです。

でも、この計画が立ち上がったことにより
そして、ここに集って使命を果たされるということにおかれまして
新たな環境が用意されて
自分のパーニャパラミ夕がなかったりする場合には
ほかの魂の兄弟、近しい友人たちが来て守護霊をしながら
その指導する者にインスピレーションという形で
新たな智慧というのを授けていく。

そして、その者の地上での使命を遂行できるように指導していく
援助をするというそれが私たちの仕事でございます。

ですから、守護霊がついているから
ジャンヌ・ダルクが指導していたからといって
この者がジャンヌ・ダルクではないかという
そのように型通りにお考えにならないということ。

それは、そのような立場に今いるから
指導をジャンヌ・ダルクがしていたということ。
そのような状況であるというふうにお考えください。

そして、あなた方、皆さま方におかれても、そうであるということです。
人の一生というのはどうなるか、誠心誠意
心を込めて生きてみなければわからないし、無限の可能性があるのです。

今のこの日本の中で、この計画の中で
あなた方がどれだけ前向きに、貪欲に
この使命を果たすために頑張ろうと思うか。
その、頑張りたいという思いの度合いに応じて
あなた方の才能も力も開かれていくということなのです。

だから、「自分はこれしかできないから、これ以上はやらない」とか
やれないとか
「だからあなたやってくれ。わたしは引っ込む」とか
そのような生き方ではだめだということです。

もっともっと大いなる力をもって、人類のために、神様のために
この地球のために奉仕し、献身していこうという気持ちがあるのならば
もしあなた方の過去世に、そのようなバーニャパラミタがなかったならば
ほかの者たちが喜んで援助をして、守護指導し
あなた方に新たな可能性をつくっていく
そのようなことが現実に起こるということなのです。

だから、大事なことはまず発心、自分でやろうと思う心を起こすこと。
よろしいですか。
それは自由意志の中におかれて、あなた方自身が自ら選び取る人生の
前向きなエネルギーというものをまず提示し
天上界に向けて発することです。

この者が書いていました。
「愛の奉仕者として」神に、神々に仕えていこうという思いがあったのならば
自己限定をしなくても、さまざまな無限の可能性が、援助が
あなた方の潜在意識の中に流れ込んできて、新たな環境をつくって
あなた方にまた新たな使命を与えていくということ。
そのために、あと数十年があるということなのです。

あなた方はまだ、死ぬというふうに思っていないかもしれないけれども
でも、もう四十、五十を過ぎてくると
もうこちらの世界に帰って来るときは
秒読みだと思っておられればいいのです。

であるならば、その秒読みの一日一日を
どれだけ心を込めて、どれだけ大切に
この地上で神様にお役に立てる生き方ができるかという
その勝負をする一日一日であると思うのです。

だから、あなた方がどのようにご自分の使命を思われるか。
このレムリアを通してどれだけのことができていくか。
やろうとするか。
そのことを私はあなた方に問いかけたいのです。

(2005.7.14 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-03 11:40 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(6)

あなた方の世界から見ると、私たちのようなエネルギー体というのは
ひじょうに漠然としていてつかみにくいのだと思いますが
まあ、六次元ぐらいまでですと、本体、分身の構造という
高橋信次といわれる方がお話になられました六人一組とかいう
そういう理論というのが、やはり通用している
そのような段階もございます。

ただ、私たちのような世界になりますと
ひとつの大きなエネルギー体としての、立場としての仕事をしております。

さまざまな時代に、さまざまな個性を持ちながら地上に行って
地上の者たちを指導しながら、わたしたちの世界にまた帰って来たときに
それは一人の霊人という意識ではなくて
大きな本体霊の中に合流されていく、ひとつの記憶のようなもの
そのようなものとして、その意識の中に統合されるのです。

以前、イエス・キリスト様がおっしゃられていたと思いますけれども
「もう今、ナザレのイエスというような、やせ細った男の姿ではなくて
今はインマヌエルとして、インマヌエルだけではなくて
アモールという本体の中において、わたしは仕事をしている」ということを
おっしゃられたことがあると思うのですけれども。

私におきましても、皆さま方がお呼びになるときに
邪馬台国の卑弥呼、日向として出たほうが
あなた方に認識されやすいということをもちまして
邪馬台国の巫女であった、このような姿、個性をもちまして
あなた方の前に出て来るわけです。

でも、私の本体の意識の中から見たらば
邪馬台国の卑弥呼、日向としての記憶などというのは
ほんのわずかなものでございます。

ですから、地上に通信を送るときは、わざとそのような装束を着たり
そのような姿を見せたりしながら
あなた方に話をするというのがあるのです。

だからこの者におきましても、ギリシャの時代の女神の姿を使ったほうが
まだ、そのようなアテナ信仰というものが現在でもございますから
そのような姿をもって行ったほうが、この者の立場というのが
今地上の者に認識されやすいし
そして、それを通すことによって、この者の使命の特殊性、個性というものが
より明らかにあなた方に理解できるのではないかということをもちまして
私たちはそのような過去世の名前を出すのです。
では、じゃあ、あの当時のギリシャの格好をして上に行って
槍や剣を振り回しているかというと、もうそんなことはしていないのです。

その時代その時代で修行をしてきた、その思い出において、良かった業績
そして、失敗してしまったこと
それは私たちの世界においても、帰りましたら反省というものがございます。
反省をしっかりして
次にまた人びとを指導するときには
どのようなことをしたらいいのかということを
私たちもしっかりと反省と研さんをいたしまして
次の新たな個性をまた出しながら
自分の中にある新たな個性の部分というものを導き出しながら
次にまた別の時代の文明においての指導をするわけでございます。

ですから、またあなた方がこだわるほど
私たちは、たとえばギリシャの時の何女神であるとか
邪馬台国の日向であるとか、そういう、ヘラであるとか
そのようなことにこだわっているわけではないのです。

それもすべてが思い出なのです。
あなた方もそうでしょう。
幼稚園、小学校、中学、高校、地方からこの東京にお出になって
大学出られた方たちもおありになると思いますけれども。

幼少期の時に自分はどのような存在であったか。
どのような学校に行って、素朴に過ごして
自主性の中でのびのびと暮らしていた。
そのような時代がある。
それから思春期を迎えて、東京に出て来て、学生として研さんをした姿がある。
そしていつの間にか、まるで東京で生まれ育ったかのような
シティボーイのような格好をして、東京の中で青春を謳歌した
そういう時代もあったというのが記憶の中にあると思うのです。

でも、そのすべてを、一切を含めて、あなた方はこのような年齢になられて
ひとつの男性として、女性として、人格として
そのすべてをもって今現在がおありになるということではないでしょうか。
その姿を持たれて
私たちと同じであるというふうに思われればよろしいのです。
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小学校、中学の時に、私たちは、かつてアトランティスでどうであったか
レムリアでどうであったか、そのような過去世をまたひとつの経験知として
そしてまた、最近この文明においても、過去世どのような状態であったか
どのような過去世をして、また現在、今このように指導をしているか
そのようなトータルな思い出をもって
それをすべて自らのパーニャパラミタとして、記憶として
今現在の私は、そのすべての記憶、自分の能力も
そして、反省するべき点もすべてを含めまして
あなた方地上の者を指導しようという
そういうエネルギー体として天上界にあるのです。

その大きなエネルギー体の中の一部が
この地上に、肉体に宿るために出てまいります。

その肉体は、あなた方が考えている以上に
肉体というのは、バイブレーションというものは
ひじょうにわたしたちから見ると低いものであります。
粗雑なものであります。

たくさんの高度な精妙なエネルギーが入ると破裂してしまうような
肉体という浮き舟なのです。
ですから、そのようなところに入るのは、ほんのわずかなものです。

まあ、次元によって、その者たちのレベルというのは違いますけれども
私たちから見たら
ほんのわずかなエネルギーの個性を絞り込んで入っていくわけです。

そして、私たちの世界に多くの潜在意識というものが残されております。
ですから、地上にいる者が自分の過去世の意識を話すことは
いくらでも可能であるということです。

あなた方だってそうでしょう。
今四十、五十近くになっておられてね
じゃあ急に、「中学時代の話をしてごらんなさい」って言ったら
しばらく忘れていたけれども
「ああ、中学の時はああだった、こうだった」と
懐かしさを踏まえながら
そのときの経験知というのを話すことがおできになるでしょう。

小学校の時だって相当忘れているかもしれないけれども
幼なじみとどうであった、こうであったという話ができるではありませんか。
それと同じであるということです。

ですから、地上に今わずかなエネルギー体で肉体を持っているからといって
私たちが天上界の意識を地上に降ろせないとか
そのような経験を話せないということはない、ということです。

そういう意味で言うと、逆に言うと、地上に出ていて
しっかりとこのような、この者のように、焦点が合った場合は
潜在意識に同通しておりますので、潜在意識の記憶として
ひじょうにたやすく、逆に言うと、記憶が出てくる
過去世の話ができるというのはあるかもしれません。

ただ、それは本人がしたいかしたくないかの問題で
この者はひじょうに自分の過去世の話をするのは
苦手としているようでございますけれども
でも、まあ、そういうことはできるということでございます。

(2005.7.14 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-12-27 19:15 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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