地球を愛の星へ

カテゴリ:小桜姫( 7 )

小桜姫からのメッセージ(7)

菩薩界というのは、いかに多くの方がたを幸せにしたか
いかに一人でも多くの方を神様の愛に気づかせて
神の愛のもとに指導して、引っ張って行くことができたか。

そのような指導能力を問われていくのが
逆に言うと私なぞ、まだ口はばったくて
あまり菩薩界のことは申せないのでございますけれども
菩薩界の本来の意味であると思うのです。

皆さま方なぞは、もうそのような段階はとっくに終わられてるので
私が言うのも恥ずかしいのでございますけれども
私は逆に入り口に入って来たからこそ
菩薩界が何の意味を持つのかということを
今はほんとうに今までの世界とは違って感動させられているのです。

菩薩界というのは、やはり多くの人びとを少しでも幸せにして差しあげたいと
具体的に、じゃあ何かできるかという、行為実践にあるのです。

いわゆる「神界」と呼ばれている六次元の方がたのほうが
プロフェッショナルの専門的な知識においては
たけた方が多いのでございますけれども
それを超えて、そのような知識を
今度実際の人生の行動の中において生きてみせる。
そのような方法手段を自分自らが開拓しながら
自分の人生の中に問いながら生きてみせる。
自分ならではの光というもの、個性というものを発現させて見せるという
それをもって、本来菩薩界の力というもの
魂の底力というものを表現していく。

それでこそ皆さま方が、それがおできになったとき
やはり、向こうにもう一度ふさわしい自分が
ご出身になっていた世界に帰ることができるということなのです。
それを失敗したならば、失敗した程度に応じた世界に行って
もう一度しばらく、反省瞑想、そして修行を行った上で
本来の世界に戻って来るということになってしまうのですね。

だから逆に言うと私たちから見ると、本来目的を立て
修行をしているのは実在界のわたしたちの世界
そしてそれから、一生懸命計画を立てて
まあちょっと長い長期な旅行に出るような気持ちで、地上に出て来るのです。
そして、そこで一発テストを受けるのです。

そしてそれがだめだったら、また次に、また帰って来て
実在界で一生懸命修行をして
そして、また次に出て行って、試験を受けると
まあ、そのような流れと申しますか、そのような形でいったとき
旅行先で病気になるのは困るけれども、でもまあ、旅行なら旅行に行って
ある程度やったらば、まあ、こっち戻って来てから
ゆっくりその病気を治せばいいやとか思うじゃないですか。
病気なんてそんなものなのです。

ああ、ちょっと先に肉体が壊れたから、一年間行こうと思ったんだけれども
十ヶ月で切り上げて帰って来ようかとか
そのような気持ちで病気をもし考えたなら
いたずらに病と闘わないで済むでしょう。

そして、一年間十二ヶ月のものが、十ヶ月で切り上げて来たからといって
でも十ヶ月地上で、旅行のいろんなところを見てこられた。
たとえば、ヨーロッパたったら、ヨーロッパにずっと行ってこられた。
「いろんなとこ周ったね、いろんな思い出をつくったね」って。
「楽しかったね。悲しいときも、いろんなこともあったけど
お財布を落としちゃって苦しくて、パン買えなくて困ったときもあったけど
でもあそこの泉は素敵だったね。あの神殿は素敵だったね」って
こちらに戻って来てから仲間にお話をするじゃないですか。
そんなものが、こちらの肉体を持った世界の
楽しみ方であると思ったのならば
今日の前にあることも、きゅうきゅうなさることないと思うのです。

今確かに見ておりますと、たいへんなこと、あると思いますけれども
まあこの方に関しましても
まあ十分幸せであったでしょっていうことをおっしゃられたと
だから今はもう何もつかむなと言われているとおっしゃっております。

その場合に、たとえば旅行に行かれる期間が一年間であったのならば
あともう残っているのは八ヶ月、もう八ヶ月過ぎてしまったと
残り四ヶ月しかない。
逆に残りの四ヶ月こそ、これからのいちばん大切なことであったときに
「八ヵ月分、もう十分楽しんだでしょ、地上のいろんな日常的なことは」と
そうしたなら、「残りの四ヶ月間、地上にほんとに出た意味を問うて
ご自分の仕事をして帰って来られよ」と。
「そのほうが必ずや旅行の思い出として、素晴らしいものになるから」と。

旅行中に街角で出会った人たちとの幸せな思い出というのはありますよねえ。
いろんな素晴らしいところで、いろんな、やはり思い出をつくるのです。
でもじゃあ、それに、それがすべてそれにしがみついてしまったら
どうなるかということなのです。

旅行先で、いろんな知り得た方たちと写真を撮るでしょう。
肩を叩き合って、一緒にお酒も飲んだり、楽しい時を過ごされても
でもやはり旅行はしょせん、旅行なのです。
やはり自分のホームタウン、故郷に戻って来るものなのです。

そのことを考えますと、やはり地上にいるときに
どんなに愛する妻や子どもたちがいても、夫がいても、兄弟や親がいたとしても
それは地上の、今回修行するために
ご縁を持つために用意して来たものであって
それはその一点の時期にその役割をもって
自分が修行させていただいたというありがたい関係であるけれども
それ以上にしがみついてはいけないということなのです。

それ以上いったら執着になり
本来の魂の自分の使命、目的からは大きく逸脱してしまうということ。
本来の使命はどこであるかということを、神の子としての魂としての修行の
地上の経験知のひとつとして
もし皆さま方がお考えになられるのだったならば
たとえ、どれだけお嬢ちゃまがかわいかろうと、坊やたちがかわいかろうと
どんなに奥様を愛しておられようと、ご主人様を愛しておられようと
そこにしがみつくことは
本来の皆さま方の魂の、本来の意図としては外れているということ。

愛を粗末にするということではないのです。
愛は大切にしなくてはいけない。
いとおしまなければいけない。
ともにその人生を生きてくれた魂、家族に対して
心からの愛と感謝を捧げなくてはなりません。

でも、それが大事だからといって、失うかもしれないという恐怖心にとらわれて
本来の魂がしなければいけないことから目をそらしてしまったならば
人生の大いなる目的からは外れてしまうのではないか。
なぜならば、あなた方は神の子だから。
人間とは、本来が神の子であるから。

そしてそれ以上にあなた方は、今ここにおられる方がたは
神仏の使徒であるということは、自分の幸せ以上に神様の道具となって
より多くの方がたの幸せのために自らの人生を投げ出して、奉仕して生きてこそ
神仏の使徒としての使命を全うしているのであるということ。

そのために仏陀と言われる方は
ご自分の生活も、ご家族も全部捨てて出家なさられたのです。
捨てたからいいとか悪いとかではなくて
やはり、より多くの人類の幸せのために
自分の幸せを、より以上に
神仏の使徒としていかれる道を選ばれたことをもって尊しとされたのです。

捨てられた方にとって見たら、大いなる苦難であったかもしれません。
でもそれによって、時代を超えて、どれだけの魂を
仏陀と言われる方は法を説かれることによって救ってこられたことでしょう。
そのことをもって、神仏の使徒と言うのです。

ですから、地上がもしそうなったら、だから妻を捨てたから
子どもを捨てたからというカルマは残るかもしれない。
でも、大いなる神の使徒として、した仕事の量に匹敵するのならば
そのカルマというのを自ら背負ったとしても
価値のあるカルマであったのかもしれません。
そのように皆さま方もお考えください。
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愛というものは身近な者に対して、ある者にとってみたら
家族とともに、とりあえずつつがなく
愛をもって善人として暮らしていくことをもって
人生の最大の目的とされている方もおられるのです。
そういう方はそういう方で、一生懸命生きられればいいのです。

でも、ここのレムリアにおられるような方がたたちは
ご自分自らが自分で書いた計画書の中に
何をいちばんもって最大の価値であるか
自分がやってきた目的であるか、自分の魂の卒業テストの
まあ全部の卒業ではございませんけど
自分なりの今回の、ひとつの意味のあるテストであるというふうに
ご自分で、ある意味での基準を設けて来ておられますから
そういう意味においては、神仏の使徒として何をして来なかったら
たとえどれだけ妻を愛しても、どれだけ子どもたちを愛してきても
肝心な神の子としての仕事を、神仏の使者としての仕事をして来なかったら
それに落第のはんこを押すかもしれないのは
神ご自身ではなくて、ご自分たち自身であるということ。
なぜならば
その計画書は皆さま方がお書きになったものであるからということなのです。

そういう意味をもちまして
地上の人生の本来の意義というものをお考えいただいたのならば
いたずらに生きる人生の日常生活の中で
不必要に失うことを恐れたりとか、勇気を失うことではなく
地上のただの価値観に流されることではなくて
何をいちばん最優先に自分自らが選び取って生きようとするか
そのことが見えてくると思うのです。

そして、寿命は長いにこしたことはないかもしれませんけれども
私から見れば、ただただご苦労が多いなあと思うだけでございまして
やることやったら、早くこちらの世界にお帰りになったほうが
よろしいんではないかしらと思う場合も
ご苦労が多ければ多いほど思うのでございます。

ですから、そうしますと、病との闘い方
死というものに対する寿命というものに対する闘い方
そのようなことも自ずと変わってくるのだと思うのです。

そして、やるべきことを、神仏の使者として死んでいくときに
「ああ、これだけのことを精一杯やったから
結果としてはわからないけども
精一杯やったから、私は帰って行ける」という満足の思いで
最期の時を迎えて
こちらの世界にお戻りになる人生をもって
ほんとの意味での大往生であると
ほんとうにお幸せな人生であるというふうに、私などは考えるのでございます。

そしてその価値観というのは、天地を貫き、転生輪廻を貫き
永遠の生命の中で脈々と受け継がれていくものなのです。
たかだかこの地上にいたときだけ、そのような価値観で幸せではなくて
この生き通しの永遠の魂の中で
本来魂にとって幸せであることは何であるかということを
地上の皆さま方がほんとに理解されるのなら
地上において、ほんとうの意味での神の子としての生き方を
一人ひとりが自覚なされましたら
地上での苦しい他者とのいがみ合いとか、その悲しい不幸の種と
皆が抱きしめてしまっている不幸というものから
人類というものは解放されていくのではないかと
私のような者は思うのでございます。

今日は一般的な女性論っていうところまでは行きませんでしたけれども
地上における生の意味、そしてこの地上を通しての意味
そして祈りというものの意味
そして、かなう、かなわないということが、本来の大いなる神の愛の中において
祈りというものがかなわないということをもって愛であるということも
意味があるんだということを今日申し上げたと思います。

また私のような者でも、今度は現代女性に対する女性論というものも
また用意してございますので、もしお許しいただけるのでしたら
また次回お呼びいただけましたら幸せに存じます。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-02-02 07:55 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(6)

ぜひともお願いしたいのは
先ほど伺っていてホームページを易しい方向につくり変えてくださる
いい機会だとおっしゃっておられましたけど
まさに小桜はそう思うのでございます。

今申し上げたことをやはり中心に、初心者の方にお書きいただくだけで
多くの方の地上の人生観が変わってくるのでございます。
けっしてそんな難解なことを
今回のこの方がおやりになっている通信方法のウルトラC技なぞを
まあ一部のマニアの方はお聞きになりたいでしょうけれども
霊的な真実というのを明かされていくことは必要でございますけれども。

もうこの間からおっしやられているように
ほかの霊人がおっしゃられておられますように
七割、八割の方の幸せは、今小桜が申し上げた言葉で十分救われていくのです。
そして、この地上の人生の意味が変わってくるのです。

難しいことを言うと、難しい知識に埋没してシンプルな
人生の大事な神理という部分がまた覆われて隠されてしまうのです。
どうかそのような愚になられませぬように。

そして知識というもの、そのようなもので
いたずらな知識、神理、知識というものの中で
ほんとうのシンプルな人生の真実ということが
今ふたたびまた隠されることのないように。

イエス・キリスト様のお言葉のように、愛深く、神理の言葉というものは
とてもシンプルなものであるということ。
そのことをどうか、レムリアのこれからの理念としてわかりやすい形で
まあ、昔で言うならば教典になるのでしょうか
そのようなものをしっかりと打ち出していただくということ。

そのような、誰が聞いてもわかるような言葉で出していく。
それがほんとうの意味で人生の中で根づいていったのならば
やはり多くの人生が変わると思うのです。

私、小桜などが見ておりましても、英国なぞから発生したという
そのスピリチュアリズムですか、この間から皆さま方からお話ししておられて
私も聞いておりましたけど、その神智学とか、ああいうものを見ておりますと
小桜にはちょっと難しすぎます。
あれは難しくて、何をおっしゃっているのかわからないと思います。
私でもまだわかりませんけれども
それは地上の方がたの、多くの方だってわからないと思います。

あのように難解化して、なぜあのように難解化したがというと
ひじょうに高度な神理的な見解というものもございますけれども
やはり霊界のものを未熟な者が解釈いたしますと
やたらと難しいものの言葉に置き換えるのでございます。
そんなものではないのです。

たとえ天上界が私のような者よりはるか上の
たとえば如来界とか、太陽界にお住まいの高級霊人の方がたでありましても
普段あのようなことをしゃべっておられるかというと、とんでもございません。

皆さま方、とっても大らかで
ほんと、ひじょうにわかりやすいお言葉でお話をなさられ
コミュニケーションをしておられるのですね。
言語ではないコミュニケーションの仕方ですけれども、されております。

ひじょうに皆さま方、気さくで、ざっくばらんで、自分のプライドなどよりも
いかにしたら多くの方がたを
幸せにできるかということばかりを考えておられる。
でもそこにおいて、あのような難解なものというのはないのです。
難解にしてしまうのは、やはり地上の受け取り方をする方の意識が
解読能力が不足しているのだと私は思うのです。

思念としては、ひじょうにシンプルなものがきているはずなのですけれども
それを解釈したり、翻訳していく段階に
どうしても硬い言葉、難しい言葉によって解釈してしまっている。
それは最初に天上界からきたその時代の英語の言葉に訳していく段階で
まず硬い言葉でくる。

そしてキリスト教とかの
その神学的ドグマみたいなものにひじょうに影響されながら降ろす。
それをまた、その古い英語を通して日本語に翻訳していく段階で
またそこで、古い形の日本語、いかめしい日本語になっていく。

そういうふうに翻訳されてリレーされていくうちに
ひじょうに難解な難しいもののように権威づけられる。
逆に言うと、一部のそのようなマニアのような学者のような方がたには
そのようなほうが、難解化しているほうが権威づけられて
価値の高いものであるかのように
解釈されながらまた来ているという傾向が多少あるかと思うのです。
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でも、前からおっしゃられているように、この間亡くなられたその
高橋信次と呼ばれている方がお話しになられていましたように
神理というのはひじょうに易しい言葉で
とても親しみを込めて語ることができる。
そのような日常の言葉をもって語ることができる。
それでなければ、ほんとうの神理とは申さないのでございます。
法とは申さないのです。

法というと、いつも箇条書きにして
いつもドグマ的な、教理的なものとして打ち出さなければ
学習対象にならないというふうな、そのようなのりというものを
やはり以前の団体では感じたのでございますけれども
そのようなものは、堅苦しいものは、天上界には本来合わないのです。
少なくとも、女性の悟りの中には、そういうものはあまり入ってこないし
根づかないと思うのですね。

まあ漠然と話だけするのではだめなのですけれども
やはりほんとうに話として意味がある
わかるものは、やはりそんなに学習、学習のようなものではなくて
魂に響く言霊を通して魂が学んだことをもって
法の解釈、法というものの意味があるのであって
まあ「法」というふうに難しく言わなくても
「神様の言葉を学ぶ」と、易しく言い換えてもいいのだと思うのです。

法を学ぼうって言うと、お坊さんかしらって思うけれども、多くの人びとに
「神様の言葉を学びませんか。
神様の言葉を聴きませんか」って言ったら、気持ちを和らげて
「聴きたいわ」とおっしゃられる方が出てこられるのだと思います。

だからそのような易しい言葉を使いながら
私も、以前、神理入門ということを書きましたけども
『神霊界入門』ということを書きましたけれども
今度もまた別な意味で、神霊界、神理世界入門みたいな形で
レムリアも知的な意味で
あまり詳しくない方がたでも読めばわかるというような
そのようなことを出していただきたい。

それがほんとの意味で言うと
衆生大衆に対する大いなる愛の実践行為であるということ。
それがほんとの意味での菩薩行であるということなのです。
一部の難解な、一部の知的エリートの方がたのためだけの言葉であるとか
そのようなものは、衆生大衆に対する愛の実践行為とはあまり関係ないのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-29 07:22 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(5)

この地上において、この修行場の意味ということもそうですし
やはり生が終わるときに、さっきから申し上げているように
ほんとうに素晴らしいのはこちらの世界なんですけれども。

やはり死というものは、それこそまあ
毛虫がさなぎを脱ぎ捨てて蝶々に生まれ変わっていくようなものだと
私たちは思うのですね。

羽を生やして私たちの世界に舞って
天上界に帰って来るだけのことなんですけれども。
さなぎは三次元でしか動けませんので、空を飛べないので
とても怖がるのです。
自分が変わっていくことに。
そこに恐怖心を抱えるのが、私は死であると思うのです。

そのような死というものに、あまり恐怖心とかそのようなものを
どうか地上の皆さま方が抱え込まないということ。

若くして亡くなる方は、若いうちにあまり罪を冒しきらないうちに
清らかな魂のままに、素晴らしいことだけを持って、思い出だけを持って
返すべきものをみんな返したら、早くこの実在界のほうに帰って来ようと。
そう思われて早逝なさられる方も多いのです。

それだから、早く亡くなられたから、若死になさったからこそ不幸であるとか
この家に因縁があるとか、そんなことばかりお思いにならないで
「ほんとうに、逆に、魂が清らかなうちに天上界に帰れてよろしかったですね。
お幸せですね」と。

逆に、心から「お疲れさまでした」と言って送り出して差しあげるような
そのような思いで、天上界に向けて拍手をもって送り出していかれるような
そのような葬儀の仕方があるのならば
多くの人びとの中に、生老病死の中の死というのが苦であるというふうに
思われることもなくなっていくのではないかと思うのです。

そうすると、病に対すること、死を迎えることに対する
根本的な姿勢というのが人間たちの中に
三次元の者たちにとって、変わってくると思うのですね。

そうすると、死というのが一瞬、眠りのようにつきますけれども
覚醒したときの、より自由な感覚をもって
ひじょうに幸せな思いで、わたしたちの世界に戻って来るのです。
逆に申しますと
幸せな思いで天上界に帰って来られる者にとっては、とても幸せなのです。

でも逆に言うと、みんなが、地上の方たちがひじょうに怖がるのは
死して地獄にいくと思うから怖いのでしょう?
そして、何も知らないから怖いのでしょう?
そして、死して地下のものに行ってしまうような生き方をした
その地上の人生そのものに問題があるということではないのでしょうか。

でしたら、死というものは少しも怖くはないんですよ。
三次元の、食べなければ飢えてしまう、食べなければ苦しい
寒かったら、家がなかったならば
いつも地上の生活のためにあくせくしていなかったら
好きなことも神様の仕事すら何にもできないという
そういうあくせくしたような魂の牢獄の中から、好きなことだけをして
そして食べなくても寝なくても、好きにみんなでお互いに、褒め合って
たたえ合って生きていける天上界に帰って来られることをもって
ほんとの幸せであると思ったのならば
地上にいたずらにしがみつこうと思うこともなくなるし
そして地下の世界に行くような
地上での生命の誤った人生の送り方というものから解放されるはずなのです。
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何ゆえ、まあ死んだあとに天国に行きたいから
そのように生きるということではないですけれども
やはり地上において真に価値のあることは、天上界に帰れるような
そのような高い神仏の使者とまではいかないにしても
神の子としての愛の意識に、愛の神様の分け御霊としての
自分の神の子としての神性に誇りをもって生きる。
そのようなことにひとつでも気づいて
人生をささやかに素朴に、正直に生きていったのなら
間違っても地下の世界に帰ることはないのです。

目に見えない世界で、死んだら何もなくなると思うから
平気で人の裏をかいたり、うそをついたり、人のお金をかすめ盗ったり
それから、人殺しなどができるのではないでしょうか。

すべて神様はお見通しで、わたしたちが死したあとには
やはりほんとに生きたものの原因・結果の因果律の中で
素晴らしい人生の種をまいたものが
やはり天上界に、高く清らかな世界に帰って行けると思ったのなら
人びとは一生懸命善なる思いで
地上の人生を送ろうというように努力されるのではないでしょうか。

そうなったら、別に自分が地下に落ちたくはないからではないけれども
やはり地下に落ちたくないから
一生懸命まじめに生きようと思う人たちの中においては
泥棒も、多くの殺人も発生しなくなってくるのです。
自分の魂と同じぐらい他者の魂も大事であるというふうにみんなが思うのならば
人殺しや戦争なぞということはあり得ないのです。

自分とは違う民族であったとしても
そのような方たちだって皆同じ神の子なのです。
皆尊い命なのです。

自分の命が大事なように、ひと様の命も大事であり
我が子がいとおしく、その命が大切であるように
そのほかの民族におかれますそのお国の方のお子さま方も
大事な、大事な尊い神の子の子どもたちの命であるということを思ったのなら
なぜそのような子どもたちがいる村に向かって
ミサイルなぞを打ち込むことができましょうか。
そのような認識が、やはりすべてが連鎖的につながっているのだと思うのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-24 19:22 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(4)

愛があるからこそ、その病を治さないし
愛があるからこそ、その方が今貧乏している状態というものに
天からパラパラと小判をまくような
そのようなお金をまくようなことはなさらないのです。
それが愛の姿であるということ。

愛というのは、ただただ物質的や、精神的にちやほやと甘やかして
その魂をふぬけた
ひじょうに軟弱な状態にすることをもって愛とは申しません。

愛というのは、ほんとの意味で相手の成長を喜ぶ姿であり
ほんとの意味で相手を指導していくには
ときには厳しい環境が必要であるということを知っているのが
知恵の愛でございますから。

私たち守護霊、指導霊というふうに
だんだんなっていく者たちにおきましては
やはりそのようなことをわきまえておりますので
たとえどんな祈りがあったとしても、かなうもの、かなわぬもの
そして今かなえてはいけないもの
それというのは、わたしたちは考えて対処しているのでございます。

ですから、祈りというものがかなえられないから
神仏がいないというふうに思われるのは
あまりにも浅はかな価値観であるということを
どうか皆さま方もお知りおきいただきたいと思うのです。

そして何度も申しますけれども
今天上界でも言われていることは、基本的に大事なことは
地上がどういう意味を持っているのか。
肉体を持っているということが、どういう意味であるのか。
ほんの一時であって、この地上にいるのが
わたしたちが天上界で何百年もかけて修行してきた、学んできたことを
この数十年の、ほんの瞬間の間に問われてしまう。

まあ皆さま方におかれても、国家試験とか、大きな試験がおありでしょう。
五年も六年も一生懸命お勉強を
お医者様になるにはお勉強なさられるのでしょう。

一生懸命お勉強なさられても、でもどうですか。
国家試験と呼ばれている一発試験に受からなかったら
何のために医学部で六年間あんな勉強して、学習してきたのかと申されても
その国家試験というのに落ちてしまったなら
お医者様としての資格がいただけないではございませんか。

同じなのです。
何百年とこちらの世界で修行しているのです。
そして、ほんとうの意味で菩薩界
まあ、私の場合はまだ菩薩界の入り口でございますから
ボサッターと呼ばれているような位ではないのですけれども
ほんとうに菩薩界としての神格を与えられるには
やはりこちらで何百年と修行をして、それがほんとうに地上に出たときに
利他の、愛他行として
実際の地上の方たちをどのぐらいの規模で救っていけたか。
地上の人たちに対して救うべく、理念というものを、愛の言葉というものを
行いというものを通して、地上を浄化せしめることが具体的にできたかという
その評価をもってそれがある意味で、わたしたちから見たならば
五十年、六十年、人生八十年と申しましても
人間が大きくなるまではとても時間がかかります。

そして、まだまだ青年のうちは未熟でございましょう?
ですから、一生懸命学問を受け、自分の特殊技能を身につけ、経験知を磨いて
そして、人類に奉仕ができるなんていうのは
八十年の人生の中でほんの数十年しかないのです。
その数十年の間が、まあ皆さん方で言う、一発国家試験みたいなものなのです。

わたしたちから見たら、ほんとうに二十年、三十年なんていうのは
瞬間的に過ぎていく時期。
あんなにあの方はこちらに来て、七百年も八百年も修行をされて
あそこの世界までいったのに、「ああ今回は、アラハン行けなかったな」とか
「ボサッター、行けなかったな」とか、わたしたちの世界でもあるのですよ。

だから一生懸命見ていて、やはり地上において修行が
具体的に多くの人びとのために生きることができたか
ああ、やっぱり欲に足を引っ張られて落ちてしまったと
「残念だけど、またこちらの世界に帰って来て、修行のやり直しね」と
みんなで見ています。

そのようなことを思ったら、やはり彼らが地上にいるうちに
少しでも自覚をさせて
「あなたはそんなことのために出て来たのではないのでしょう」と
「自分の欲念のためではなくて、相手のために、人を救っていくために
奉仕していくために人生をお使いなさい。
それこそが、ほんとうに価値のあることなのです」と
皆さま方のところにお出になっている
高級諸霊もおっしゃられているはずなのです。

神の子の使命というのはやはり
多くの人びとの幸せのために神の言葉を伝えていって
そのために人生を燃やす人生。
それがほんとうの意味で価値がある。

目の前での日常の生活というのは、しっかりと生きていくことは
とても価値のある大事なことではあるけれども
やはり自分の幸せのためだけに生きていった人生よりも
自分を捨てて自らの幸せ以上に、多くの人びとの幸せを我が幸せとして
神の使者として生き抜いていった人生こそが、ほんとうに魂を光らす。
ほんとうにこの地上に出て行って素晴らしかったと
本人に、のちのちに思い出となるような、転生となるような
そんな生き方ができるのが真の生き方であるのだと
神仏の使者としての生き方であるのだということを
多くの方がたが、繰り返し、繰り返し皆さまを通して皆さまに向けて
レムリアでの高級指導霊の方がおっしゃられているのだと思うのです。
私は、まことにそのように思うのです。
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ですから、祈りということにおきましても
そして地上の意味におきましても、ね。
そうしますと病がどういうふうな立場になるかということもわかります。
ということは逆に言うと、地上に生きるということ、生の意味
生というもののほんとうの意味というのが
霊界と地上の生というものは、コインの裏表であるということ。
裏があれば、表も必ずあるのです。
表があって裏があるのです。
それは離すことはできないのです。

人間の魂が永遠であることを、まず皆さま方に伝えていく。
そして、転生輪廻があるということ。
で、転生輪廻は伝えられておりますけれども
転生輪廻の間に、霊界とこの三次元との行き来をしているということ。
それがコインの裏表なのです。

ですから必ずや、数十年の人生を終えたのならば
ほんとうの実在界と呼ばれている霊界のほうに戻って来る。
そのほうが魂の歴史の中では、はるかに長いのです。
時を、永遠の魂が送る意味においては。

そこにおける修行を、ほんとの意味で地上に具現化していく。
仏国土ユートピアと言うのならば
そのような人生の中に投影していくということ。
それができる試験場であるということ。

そのような魂の修行上の裏表であるということを思ったのならば
やはり魂が永遠の中において、わたしたちが今
地上の生と呼ばれているあなた方の三次元の生の中において何をするべきか。
何を堪え忍ぶべきか。
何を価値基準として、向上心の中において受け入れていくか。

だから、「病と闘うな」とよく言いますね。
闘病というけれども、病と闘うのではない。
病を受け入れて、自分の体質と共存して
それもすべて自分がインプットしてきたことであるということ
すべてを受け入れて、それとともに生きるということ。

なぜならば、それを自分は望んで生まれて来たから。
必ず、偶然ということはないのです。
あなた方の世界から見たら、すべて偶然のように思うかもしれない。
でも事故ひとつにおきましても、偶然はないのです。

それを通してわたしたちは大いなる代償を払いながら
それで自分の今まで知らなかった
魂のさまざまな膿のようなものを
出させていただいているのだというふうに思ってください。

自分からそのようなものを望んでやるのは、愚の骨頂でございますけれども
自然に時の流れの中で浮かびあがってくるものは、やはり魂の中にある
深い、深いところに潜んでいた膿のようのものの
膿出しかもしれないということをお思いになったら
その一時浮かんでくれば、現象化すれば、それは消えていくのです。

それがたまたま現象化していったときに
肉体の病というものを通したりして出てくるかもしれないということは
そのときには、その病をつかまないということ。
出ていけば消えていくのです。

その病と一時共存することによって、大いなる魂の代償を払って
自分の魂を浄化しているのかもしれないのです。

そしたら、「病よ、ありがとうございます」と手を合わせて
「どうか、この病を堪え忍ぶことにより、
私の魂も鍛えられ、清められますように」という
感謝の思いで、その病とともに生きていくのです。

そうすれば、病によって必要以上に悲しみとか
苦しみというのを抱えずに済むと、私は思うのです。

そのように明るく、前向きに生きていくうちに
病はいつかしら、より良い方向に進んで
ときには消滅してしまうこともあるのです。

明るい思いで生きているときには、神の天上界からの光というものは
その方にさんさんと降り注いできて、どのような状況であるにしても
そのような苦しさというものをやわらがせ
そして、それを軽く済ませてもらえるように動くのが神様の光である
愛念であるということをお思いください。
出れば消えていくのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-17 08:35 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(3)

祈りについてですが
それはまだ、小桜には小桜レペルでの悟りの中でのお答えしかできませんけども
それでよろしゅうございますかしら。

私が見ておりますのに、祈りというのは、やはり皆さま方の世界で見たのならば
「目に見えないものなぞは、人の裏で人の幸せというものを
一生懸命祈ったとしてもそんなものはくだらないものだ」と
「目に見えないから、したって、しなくたって同じだよ」と
お思いになられるのかもしれませんけれども
私たちの世界では、祈りはそのまま言霊なのです。
そして、まあ地上においてもそうなのですけど
目に見えるエネルギーとして実際に巡ってくるのです。

愛の祈りをした者は、やはり愛のエネルギーというものが
その方を通して周りに満ち満ちていくのですね。
ですから、祈りの言葉そのものが行動であるということ。
だから、けっして無駄ではないということです。

善念、正しい思いというものは、愛の思いというもの
愛念というものを出されておられる方は、その愛のエネルギーは地球を一周して
またご本人に戻ると言われております。

実際に霊界に来ると、それを目で見ることができるということ。
三次元ではたまたま見ることができないだけであって
やはりその同じ法則というものは、地上においても働いてございますので
ですから人の裏をかいて悪いことを思っていることは
レムリアでも盛んにこの頃おっしゃられておられますように
原因・結果の因果律ということをもちまして、やはり人の裏をかいたり
人に悪意の思いを持ったり、批判や中傷をしていく者というのは
必ずやご本人に戻っていかれますので
皆さま方を根本的に害するということはできないはずなのです。

最後、その結果を刈り取っていくのはご本人であるということ。
その意味において祈りというものは、やはり行為
そのまま行動であるということ。
エネルギーの法則におきましても、まさに愛の思いを
愛念を出すということは
けっして無駄ではないし、徳となっていくということなのです。

ただ、祈りというものの質を考えていったときに
ただ相手のことを、いいこと思ったから、幸せを祝福したから
具体的に地上で何にもやらなくていい
あとは神様任せとか、そのようなことでは、実際に人生の中に
ほんとうの意味での力のある生き方というのはできないのだと私は思うのです。

やはりほんとうに
レムリアだって素晴らしい動きになってほしいと思うのだったら
わたしは祈ってますから
一日百回祈ってますからそれでいいじゃないですかとおっしゃられても
実際三次元で力をお持ちになっている方であったのならば
肉体をお持ちになっておられる方であるならば
では具体的に自分の人生の中で何かできるのかということを
行動の中において実現されていかれてこそ
祈りがそのまま即行為となって、祈りに力が出て
そして現実生活においてこのユートピア化というものを
レムリアの素晴らしさというものを現実に引き寄せていく
大いなる推進力になっていくのだと思うのです。
それがあってこそ、肉体を持った意味があるということなのです。

ですから、祈りというものの中には、自我我欲による物質的な欲
欲念による祈りというものと、それから自分たちではない他者に対する幸せ
愛念というものを込めて神仏に祈る祈りという二種類があると思うのです。

もっと詳しく分ければ別に分けられるのですけれども
大きく分けたときには、欲念から出てくるものと
自分の欲とかそういうものではなくて
自分のそういう欲念から離れたところから大いなるもののために
他者のために幸せを祈るという
大きな意味で二つの祈りになっていくのです。

その欲念から出たもの
それがたとえば念が強ければ確かに引き寄せるという法則はございますけれども
皆さま方がそれを見ていて、その祈りが全部かなえられるかと申しますと
いくら念が強くても、かなえられる祈りと
かなえられぬ祈りというものがあると思うのです。

そしてそれが、神様がいるのならば
どうしてこの苦しい病気を治してくれないのか。
どうしてこのようなひどい状況にわたしたちがおかれているのかとか。
どうしてこのように貧乏なんだとか。
そのようなことを、神も仏もあるものか
という言葉をよく聞かれますでしょう。

でも先ほどから申し上げておりますように、私たちの世界で学んだことを
地上で肉体をもってそれを合格するために
皆さま方は肉体を持たれて地上に出ているのです。

その時にね、たとえば自分の中に課題があるのです。
たとえば、今世出たときには平凡に生きて、幸せに生きたならば
自分は怠け心がまた出てしまうから、絶対に平凡にだけではなくて
より多くのもとに、神仏のもとに貢献して生きてくる人生を
自分自らが計画の中に盛り込んで、それから逃げられないように
自分を設定して出て来る場合というものもあるのです。
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病気においてもそうでしょう。
あと、体の状態においてもそうなのです。
一見その方にとって不幸と思われることが、多々あると思うのですけれども

この間、ヘレン・ケラー様がお出になられておられましたけれども
では、じゃあ三重苦であったから彼女は不幸であったかというと
不幸であるか不幸でないかということは、病気であるとか不具であるとか
お金があるとかないとかということは、根本的に違うということなのです。

もし病気を、「神よ、こんなに苦しい病気があるのですから
わたしの目の前からすべて病気を治してください」と。
そして
「こんな貧乏はいやだから、すべて今、天からお金を降らしてください」と
もし祈って、それが、もし全部神様がお聞き届けになって
その祈りが全部かなったとしたならば
ほんとうにそれがその魂にとって幸せなことであるのかと考えたときに
小桜は絶対にそうではないというふうに
もう今では、はっきり言えるのでございます。

それはなぜかと言うと、小桜は、たとえば次に出て行ったときに
どうやったら七次元として、また次も七次元に戻って来ることができるか。
今六次元から七次元に上がったということにおきまして
霊界ではひじょうにうれしいことなのですけれども
地上に出て、ちゃんとある程度の行動、救済というものができなければ
七次元から出て行ったからといって、七次元に戻ることはかなわないのです。

やっている内容が七次元クラスのことではないのならば
六次元に戻って、もう一度学び直し、ということなのです。
そのために何百年間も一生懸命、霊界では奉仕をしたり勉強をしたりして
魂の成長のためだけに、私たちは生きておりますから
そのような修行をしているのです。

それが地上に出て、より多くの者への奉仕ということを
今回の何百年、ほんとに長い方でしたら千年とか二千年という周期
まあ私たちのような場合におきましては何百年、短い方でありましたら
何十年という周期をもちまして、地上においてテストを受けて
上のクラスに戻って行きたいからこその状況、環境設定というものを
その人生の青写真の中に書いてくるのでございますね。

ですから、そこにおいて逃げられないように、自分自ら病気とか、寿命とか
いろんなものをすべて設定してくるのでございます。
もし、そのためにあるこの病気をなくしていってしまったら
自分はまた安易な生き方をしてしまうであろう。
それからあと、ひじょうにハンディキャップを負うことで
たとえば過去世のカルマの清算を一挙につけてしまいたい。

そして因果律というのがございますから
人間ですから、何事もいろいろな意味で間違ったこととか
悪想念があるのですね。
それを、出たときに一気に解消するためには、昔では業病と申します
今では難病と申すような
原因不明の病気に急にかかったりする場合があるのです。

それはなぜかって言うと、その時期に一挙にカルマの総清算をして
そして十分償いをして、次の世界にまた飛躍して、アップしていこうという
そのような気持ちをもちまして、その時期、苦しむようにできているのです。
それを与えてくださったこと自体が慈悲なのです。
神仏の慈悲なのです。

それを全部、今苦しいからといって、その病気をなくしてしまう。
そして、今貧乏であるということを通して
ひょっとしてその方は、王様で人をこき使いながら
ひじょうに安楽の中で自分を見失った過去世をお持ちの方なのかもしれません。

ですからこそ、今回はなるべく貧しいところに生まれて、貧乏をしながら
魂の強さというものを磨きながら、そしてそういうものにとらわれない
そういう安逸さに流されないような生き方をもって
自分の中で精進していく人生を選ぼうと思って
ある意味で言うと、質素な家庭を選んで来たりもしたかもしれないのです。

そしてその中において、もし一時期、破産したりとか
ひじょうに苦しい状況があったとしても
それはその方の魂を鍛えるためであったりと、ほんとの試練の中を通さねば
魂というのはやはりふやけてしまうのです。

ですから、そのような中に魂を通すことによって
魂を鋼のように鍛え上げて、のちのちにその方が素晴らしい仕事を
生まれて来た本来の仕事をされるために
前半において環境的にひじょうに貧乏な経験を通して
魂を鋼のように鍛えあげるという
そのような意味において、貧しさというもの
貧乏というものを自分たちの人生の前半に持ってきたりとか
それを決められたのは、肉体ひとつひとつまで決められたのは
ご本人自身であるということなのです。

神仏を恨むなどというのは、とんでもないことなのです。
出たいということを自分で希望を出して、自分で人生の計画書をつくり
ご兄弟やら両親まで決めて、守護言にまでお願いをして
自分の魂の飛躍のために、「次、出た時の数十年の人生の中で
これだけのものを、課題を盛り込みたいので、どうか守護霊よ、指導霊よ
この内容が果たされますように
自分の天命が果たされますように
ご指導をいただけますようよろしくお願いいたします」というふうに
そのようにお願いをして、私たちは出てくるのです。
そうやって地上に出ます。

こちらでは、二百年、三百年あっという間にたってしまうのでございますよ。
でも皆さま方が永遠だと思われている肉体の生命なぞは
長く生きられた方でも八十年そこそこでしょ
今の方たちの寿命が長くなったと言われても、そんなものです。
小桜たちの時代では、五十年、六十年。
六十年生きたら長寿だと言われた時代でございます。

そんなようなあっという間の
ほんとに五十年、六十年のあっという間の人生を地上で過ごす中で
ほんとに一年一年が勝負のようにカルマを返すときがあったり
自分で失敗したものを取り返したり
いや逆に自分の魂を鋼のように鍛えるために
このような環境を、あのような環境をというふうに、自分で一生懸命用意をして
その結果が今自分に正しく出てきている。

それを見守り、指導するのが守護霊、指導霊であり
目の前にある苦しみや悲しみや、そのような難儀なことを全部
「その障害を全部どかしたまえ」という祈りを
もし守護霊、指導霊、神様たちが、いくらその人をかわいいと思っても
その目の前にある障害物をどかしてしまったら
その人生そのものが失敗になってしまうということ。
何のためわざわざこの人が苦労をして、地上に肉体を持つ計画を持ったのか。
その根本的な修行の意味まで無駄にしてしまうということなのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-11 16:23 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(2)

私が前回出たときは小桜姫という意味での
日本神道的な着物を着た姫という形で出て行ったのです。
そしてわたしの認識も、まだまだ日本に生まれた小桜姫という
そういう認識力からなかなか抜け出られなかったのですね。

神社で祭られているという最低限の
やはり神としての自覚がいるのではないかというようなことに
縛られていたのです。

ですから、やはり自分自身もそのような着物とか
そういうものから抜け出られなかった。
でも、学んでいくうちに
人間は神の子であって、神の霊体としての意識の中には
そんな着るものだとかそういう装束というのは
人の前に表象的に、シンボリックに人の前に出していくという意味においては
衣装というのは必要であるけれども
それ以外においては、人間は霊体そのもの
エネルギー体、愛のエネルギー体そのものであるというふうに自覚した瞬間に
やはりそのような時代錯誤的な装束というものは、はじけ飛んでいく
そのような段階になっていく。

だから七次元以降におられる方は、昔ながらの友人と会うときには
それなりの衣装というもの、自分の好みの衣装というものを着けますけれども
それ以外は大体、白衣の、よくあの天使の方がた、ありますねえ
簡易服みたいな、そういうストンとしたような
ああいうのにだんだんとらわれがなくなるのです。

そうすると、純白は清らかさ、そして邪心のない聖なるものへの神の光の表れ
それを白い衣装にみんな共通でその清らかさを
天使としての心が清らかで真っ白で何も汚れがないという意味を込めまして
白いあのようなエンジェルたちが着るようなああいう衣装になっていく。
そのような意味において、あのような衣装を着ている。
そのようなこと以外に、普段はそのような衣装を着るのです。

ただ、わたしも役柄上、人前に小桜姫として出て行くとき
そのときにはやはりちゃんと日本神道の正装としての着物、装束
正装というものは着けて出て行くことがございます。
そういう意味において、あまり衣装というものはこだわりがないんです。
ないということを私はこちらに来て学びました。

でも、やはりおうちにいるときは、やはり小桜も女性でございますから
普段いるときは現代の地上の様子を見て、やはりこういうワンピースとか
こういうお洋服がはやっていて
「変なお洋服だな」と思うときもあるんですけれども
「やはりこれは、とても私好みですわ」と思うときには
今の現代の日本の女性たちがお召しになるような
そのようなお洋服というものを私も身にまとって
「なかなか素敵な、現代的な女性だわ」というふうに思いながら
おしゃれを楽しんでおります。

やはり女性であるということは、おしゃれというものは、やはりねえ。
好きなものですわよねえ。
ですから、そのような衣装も着たりとかしますけど。

やはりお仕事として出て行くときには、やはり生徒さんの前に出るときは
お着物を着たりとか、そういうこともございますけれども
実際、七次元の中で、いろいろな集団で仕事をしたりするときには
白い普通のストンとしたお衣装を着て、あまりこだわらない
まあ衣装なぞはこだわらないという、無頓着になってくるということが
やはり昔の小桜から見ると相当進歩したのではないかなと思うとこなのです。

そして、七次元に来て何がいちばん違うかというと
六次元までは神格という意味も出てくるのですけれども
圧倒的に自分が成長するっていうことが
やはり自分以外の他者への愛の奉仕の姿というもの。

だから、自分が学んだことを自分だけの知恵とするのではなくて
喜びとするのではなくて
やはり自分が学ばせていただいたことを一人でも多くの
まだこれから入り口に差し掛かって神様のことを何も知らない方たちに対して
そういう知恵の言葉を分け与えて、ともに成長していきましょうと
それが愛の実践であり、知恵というものの本来の意味であるということを
私は学ばせていただいています。

そのようなことを、実際に愛の実践というものを
もう具体的に行動の中で、行いの中でしていくということ。
そのことをもって
やはり菩薩界の入り口に入って来たなというふうに思うのです。
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でも、何しろこの機会をお与えいただきましたのも
以前の霊界通信というところを通しまして
私が地上に対して
霊人としてさまざまな女性の生き方についてなどを語るチャンスなどというのを
並みいる女性方の中で、この小桜なぞにそのチャンスをいただけましたという
そのようなことをもちまして、神縁をもちまして
私がこのようにあっという間にここまで成長できたのであると
ほんとうに神様に心から感謝をしております。

そして、今回のこの救世の大計画というのがどれだけ
地上だけではなくて霊天上界の者たちの意識も一度に
ひじょうに刺激をしながら
向上するための大きな機会になっているかということ。
そのことを皆さま方にひとつ申し上げておきますね。

ですから先ほどの質問ですが、やはり天上界にいたほうが認識力さえ上がれば
地上にいるとき以上により良く
より高く上っていけるということは事実なのだと思います。

ただ、やはり私たちの場合は、行いにおいて
人びとの、霊人たちのお役に立つとか
このように地上に霊言を送って
少しでもお役にさせていただくという奉仕の姿を
行動に表しておりますけれども

やはり地上には地上の意味がございまして
私たちもこのように一挙に上がっていったのならば
転生輪廻の期間も少しは短くなって
せっかく認識力高くしたのだから早くパスをして次の段階にいくためにも
天上界から地上の転生の時期をちょっと狭めて
早く地上に出て、ほんとうにわかったのかどうなのかを
やはり地上の修行の中で確認してみたいとそのように思うので
次にまた地上に出るということも楽しみになってまいりました。

そこでやはり実際の人生の中で
ほんとうにそのような生きざまを見せられなかったとしたならば
小桜がどんだけ今
「六次元から七次元に上がれて素晴らしい進歩を遂げた」と
皆さま方に褒められていただいていましても
次に生まれたときに、人の手本となるようなことができませんでしたら
やはりもう一度、一から
上に帰ったときに学び直しということになるのですね。

ですからそういう意味においては、地上というのは多くの人びとにとって
霊人にとっての最終的な仕上げのテストを受けていく
そういう場所になっているということなのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-07 07:03 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ

私の、まあ日常について
皆さま方が少しはご興味があるかと思いますので
多少お話しさせていただきますと
私が今おりますのは、ちょうど七次元と呼ばれている
菩薩界の入り口のような場所におります。

少しは出世したのでございます。
やはり先ほどの質問にもございましたけれども
認識度が上がると地上にいるよりも
どんどん上の霊層のことについて学ぶことができる
可能になるということは、やはり理解さえすれば
この世界は認識力の世界ですから
そういう意味においていくと、学びたければいくらでも
また知識を学ばせていただける方が、指導霊がございますから
やはり向上心さえあれば、どんどん上に上がれるということも事実なのです。

ただ、むやみにいちばん下から上のほうに行くのではなくて
ある程度の学習量が済んだのならば、やはり地上に出て行って
それがほんとうにわかったのかということを、地上の体験を通して
私たちが合格するかしないということをもちまして
次の霊層にまた行くということはございます。

でも自分がほんとうに認識力をもって、法話についてとか
神様のお心について知りたいと思うのならば
どれだけでも、逆に言うと地上よりも学べるのが
こちらの世界の良さであると思います。
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そして、善意の天使の方がた
お坊様方がたくさんの機会を与えてくださいまして
神様のお話を伺いますので、私たちは日ごと一生懸命勉強しております。

まあ、この地上に比べますと、善男善女の世界でございますから
人の裏をかこうとか、足元をすくおうとか
今皆さま方がご苦労さなっているようなことは一切ない世界でございますから
善意な気持ちで神様のことを勉強したいと。

それにこの間、まあちょっと前に、その私も通信をさせていただくことで
やはり小桜もこのような内容では収録していただけないと思って
一生懸命勉強して、一生懸命偉いお坊様たちについて
法についてとか、ということを学んでいって
そして今回の大救世計画があるということ
そのことを私もしっかりと認識しましたので
まあ地上に通信を送った霊人としての自覚というのが少しは芽生えまして
私もまあ、神、まあ指導霊の一人として恥ずかしくないように
小桜も頑張って一生懸命知恵を蓄えて
さすがあのとき地上に送った霊人の一人であるなと
言われるだけのものは身につけようと思って
ここ十年ほど頑張ってまいったのでございます。

そのおかげで今では初心者の霊人たちに対して
今地上でどのような救世計画が行われ、どのような形で今
万教帰一という方向に向かって
今、地球の宗教というものが統合されようとしている過渡期にあるかということ
そのようなことを霊人たちに講義するような
先生をやるような立場の仕事をしております。

今までは学ばせていただくばかりでございましたけれども
今は多くの方がたに対して講義をさせていただくような
そのような、まあ簡単に言えば霊界の先生のような
神理入門の先生のような仕事をしているのが現状の仕事でございます。

その上でまたこのように
地上との霊言パイプが開通したということをもちまして
それが女性霊であり、今度は女性の法が完成される
まして男女の法も出てくるというので
みんな小桜たち女性グループはウキウキとしながら、毎日みんなで
「次はどんなことをおっしゃるのかしらね」とか
「次の霊人はどんな方が出られるのかしらね」とか
「わたしたちも女性グループとして、出させていただきましょうよ」とか
そんな話をして、「それにはちゃんとしたお話をできるようにしておかないと
また前みたいにばかにされちゃうようなことになると恥ずかしいから
勉強しましょうね」とか
みんなで言い合いながら、自分たち仲間内でも一生懸命勉強しております。

そして私たちも学ばせていただき
日蓮様たちにご指導をいただいたことをもって
そういうふうに今救世運動ということで
地上がそのような方向に来るということは
霊天上界におきましても、善人界と呼ばれているような五次元あたりで
のどかに平和にだけ暮らしてきた者たちが、地上で起きている様子を見ながら
やはり波動の影響というものを受けますので
やはり神様のことを少しでも知りたい、霊界の構造を少しでも知って
自分も向上進歩していきたいというふうな要求を出される方がたが
多いのですね。

そういう方たちの邑とか
そういう方たちの集まりのところに私たちが降りて行って
皆奉仕をして、一生懸命神様のお話を、わたしたちの言葉でわかる
彼らの言葉でわかるような言葉でお話をさせていただくということ。

ひじょうにそういう意味で申しますと、小桜の講義というものは
まあ今流で言うレクチャーと申しますか
そのようなものがとても人気があるのでございますよ。
とてもわかりやすいと評判なのでございますよ。

ですから、地上におかれる方におかれましても
やはり五次元クラスの方がたくさんお出になられておりますし
その方がたに対して、霊界とは何なのか、神様のお心とは何なのかということ
易しい言葉でお教えするということ。
そのような立場も、女性霊なればこその仕事ではないかと思うのです。

まあ五次元あたりの方たちは、善人な方たちが多いのです。
ひじょうに素朴で素直で、ある意味で言うと
上に霊界におられる方たち以上に
純粋な素直な気持ちというのをお持ちなのです。

ただちょっと向上心が足りないとか
やはり著しく違うのは、知的にものをつめていこうとか
そういうものの考え方がちょっと少ないように思うのです。

ほとんどが感性、良く言えば自然と一体となって生きている。
悪く言えば、知的にひじょうに人生の艱難辛苦に対して
知的に自分から知恵をもって打破していって
そしてもっと次の向上心ある次の段階を築いていこうとか
そのような、そうですねえ、知的な思考力
そのようなものが大体ない方が多いのです。

そういう場合ですと、私のような者が行ってお話をする
そのようなことがたいへん喜ばれるのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-03 07:34 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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