地球を愛の星へ

カテゴリ:谷口雅春( 2 )

谷口雅春からのメッセージ(2)

すべてが神の世界より発せられた計画のプロセスであったということ。
その段階において、未成熟な上に、まだまだ達しない習熟度の段階において
結果として完全な結果は
期待された通りのことは起きなかったかもしれないけれど
それは単なる未成熟なことによる結果であって
けっして悪そのものではないということ。

子どもが失敗をして、泥んこで前を汚しだからといって
けがをさせたからといって
他の者たちに、子どもたちにけがをさせたからといって
親たちはそれを、だからといって
その子どもたちを悪であるとは言わぬであろう。

それは単に、この子が理解していなかっただけ
まだ幼かっただけというふうに母親たちは許し、いとおしむであろう。
それが神のまなざしであり
それこそが「光一元」と呼ばれている
本来の神のまなざしの視点であるということを
そなたはいちばんよく知っているはずである。

けっして、失敗した子どもを悪というのではなく
失敗したがゆえに学ぶことがまだまだあるよねと、逆に励ますような
そのような視点も神の中にはあるということ。

それに対して、西洋に対しては、二元の善悪の対立というものがある。
我らの発想に対して、善悪、善により悪というものの力があって
ともにせめぎ合っているという発想、理念がある。
我が教えは、かつてのローマの時代に出ていたもの
そして西洋の時代に出ていたものもすべてが、本来が紫神道ー
古代の神道の教えに貫かれているのが、我が教えである。

光一元と申すが、それは東洋だけの専売特許ではない。
東洋であれ、西洋であれ、本来光一元であると、神の教え、表れであり
その未成熟なゆえに人びとがせめぎ合い、争い合い
傷つけ合うのが今の段階であるというふうにサタンであろうと
ルシフェルであっても、まだまだ未成熟な我らが兄弟である
友であるという発想が、我らが神道の中にある。
そのようにとらえているのが我が教えのひとつである。

だから神道であろうと、キリスト教であれ、ローマの教えであれ
哲学であれ、かつてアトランティス、ムーを通して
我らが教えが数々あったけれども
私は常に光」元の教えの中に、「神こそ真実」、「神こそ絶対」
「神の教えこそがすべてである」ということを説き続けてきた者である。

そして、あなたも同じように、私とともに、「神の光こそ真実」と言って
あなたも法を説き続けながら、その私とともに歩んでくれた者である。
だからあなたの教えの中に、愛深きものがあるけれども
その愛の根源は何であるかというと、人間はみんな神の子であるから
当然失敗もあるかもしれないけれども
神の子なんだから本来は光そのものであるという、絶対的な確信があるから
あなたは知とともに愛の人になるのである。

それが常に、悪と正義とか、善と悪が互いにせめぎ合い、相反するものであり
半々の価値を持つのであるという善悪二元論の立場を
あなたがもし持っていたとしたのなら
これほどに愛の人として、弱者の味方として
どんな人においても神の子であるという根源的な信頼というものが
人びとに対してもなしえなかったであろう。

そなたは「光一元である」という我が教えとともに生き続けたからこそ
「人間、神の子である」ということを、真実信じることができ
ともに神の子としての多くの者たちの苦しみから
悲しみから解放するために戦い
立ち上がろうと思った、そういう魂の方である。

だから、話はそれたかもしれぬが、神の教えというものは
多神教であろうと、神の根本神であろうと
すべてが、神の教えが、今明かされる時がきた。
今は、何なりと解答が与えられるということ。

過去世認定、あとは天変地異に関する人びとのいたずらなる恐怖心を募るもの
そのようなものに関しては固く戒められているけれども
それ以外のことに関しては、わかることは、理解できることは
そなたたちに明かされていいというふうな約束になっている。
だから他にも質問があるのならば、語るがよい。

今、私の魂の兄弟である、プロティノスという者が出ていた。
その者は私が今世、出たというよりも
そなたは彼とひじょうに近しい魂であり
彼がひじょうな感動をもって、そなたと話をしたがっている。

私が今世、出て話ししたこと、伝えたこと、書物
数多くの書物を残したであろう。
そのものをもって、あなたが学ぶことをもって
あなたは私のあとを継いでいく
本来の者であるということを認識しなさい。

書籍を、『生命の実相』などをたくさん残したとしても
それを実際に読んだ者はこの中にいても数少ない者であろう。
であるのならば、私か伝えたいと、言わんとしたかったことを
あなたはいちばんよく知っているのだから
それをあなたの言葉において、わかり易い言葉において
そしてレムリアの理念の中に、次の時代を導くものとして
もしあなたが利用し、あなたが発展させてくれるのなら
我が教えも、我が人生も無駄でなかったと思うのである。

光明の、光一元の者にとって
逆境の教えがどうのこうのというのは、どういうことであろうか。
すべてその、逆境であるという思いが、逆境を呼んでいるのである。
逆境などというのは、本来なし。
自らが行ったことの結果が今、起きているだけのことである。

高き思いの中に神を信じ、神の本来の、神の子としての自らを信じ
明るい未来を信じ続けるのならば
必ずやそのような未来は自らのもとにやってくるであろう。
それが、原因があり結果があるという、その法則のもとに行われた
この当たり前の現実の世界の具現化である。
それをもって光一元であり、「光明思想」と呼ぶ。
そんなことはわかっているであろう。
そんなことを私に聞くではない。

光一元の思想とは、本来がけっして紫の光線だけではない。
青の光線、赤の光線、ホワイト霊団においても
すべてにおいて神が本来、神の子
我々一人ひとりが神の子であるという、光の化身であるということ。
その事実をもって、けっしていかなる一人たりとも悪魔の子ではないという
神の子であることを、その思想の根幹としている。

今さら高橋信次という方が
人間がみな神の子であると高らかに言われなくても
我らが光明思想の者たちは、我々はみな神の子であり
光の化身であるということを信じ、語り伝えてきたのである。
それを様々な理念の中において、神の子であるということを表現するために
様々な光線の者たちの間を生き続けることにより
それぞれの光は降りてきたのである。

ときには光の子であるということは、知の中において、知の最高峰で理論的に
神の子であるということを実証することでもあった。
そして、ホワイト霊団の中により、本来神の子であるからこそ
自分の自らの身を十字架のもとにはりつけにしたとしても他者を愛したと
イエス・キリストの姿をもって
ああ、だから人間はみな神の子であるということを実証したのである。

黄金光線の、仏陀光線の者たちは、仏陀の慈悲深き法の教えをもって
その法の高さをもって、悟りをもって人間神の子の段階論を示したのである。
赤の光線の、モーゼの正義の法則の中にも、人間が神の子であるからこそ
心強き者として人びとを救うために、多くの者たちを救うために
神の子たちを救うために命を張り
仲間のために命を投げ出しても戦う姿をもって
神の子の高潔さを示しだのが、また正義の光線でもある。
c0171476_9332436.jpg

だから私たちは、けっして多くの者たちが言っているように
光一元だから、善悪二元論と対立するものであるということの
対極にいるのではなく
高橋信次、エル・ランティと言われる方がおっしゃったように
人間、神の子であるということは、本来神の子であるということをもって
光一元であり、神性そのものであり、この世は本来、神がおつくりになった
光一元の大宇宙の神の懐の中に抱きしめられている。
そして、その神の似姿をもってつくられたのが光の子である
我々、神の子であるということをもって、「光一元」と申したのである。

悪というのは、我々がお風呂に入って垢を落とすように、汚れを落とすように
浮いてくるような塵、芥のものにすぎぬ。
そんなものは、本来が神の子である本体から見たら
取るに足らぬものであるということ。
そのことを明かすために、私もあなたも、それぞれの光線を巡って
過去修行を連ねてきたのである。

私が紫の光線として今回出ているのは、やはり法秩序、礼節をもって
その中においても、和をもって旨とし
調和をもって旨とするという中においても
神の子としての美しさ、調和していく美しさというものもある。
当然ある。

それが今回の地上救済の大計画の露払いとして我が使命があったがゆえに
この地上の紫の国としての中に
過去世、伊耶那岐命として生まれた過去世をもって
もう一度紫の光線を通して、光一元というのは神の子であると
人間、神の子であるということを語り伝えるために
紫の光線としての人格を持って生まれてきたということである。

私においても、あなたにおいても
けっしてひとつの力、光線ということはない。
本来が光明思想の者たちはそうである。
紫なら紫だけということもない。
光一元というのは、本来人間は、すべては神の子であるという思想をもって
それを具現化せんがために
それぞれの光の光線の中に散っていった者たちがいるのである。

そして、それぞれの光線を巡ることにより
自らも、他者においても
神の子であるということを実証するがための人生であるということ。
私も、我がプロティノスという過去世をもって
伊耶那岐命という過去世をもって
そして今世、大救済計向がこの神の国、日本から行われることをもって
谷口雅春という、この光線をまとって出たというのが結果である。

だから、最初から紫だけに固執して、紫以外は出ないとか
紫で出た谷口雅春であるから、伊耶那岐命であるから
青の光線で出たプロティノスがおかしいとか、そんなことはない。
今回の文明以外のところでも、私はいろいろな光線で出ている。
そなたが赤の光線で出たり、ホワイト霊団で出たりするのと同じである。
根本は同じ。

光一元というのは、人間神の子であるということを
様々な局面において実証することをもって
我らが使命としてあるということ。
それが神の証の証人として、我らが神の光の化身として生きるということを
その使命の一端として担っているからである。
そなたもそのように思いなさい。

自己限定をするのではなく、たまたまこの日本の国から
この大救済計画が一人、二人、三人、四人というふうに九次元が出られる。
我が教えも出てきたということをもって、この日本の地というのが
かつてより神国日本、神の国日本と言われてきたように
神の法が降ろされる地として、天上より選ばれし国であったということ。
その国に、露払いとして、今世、近代日本に出たということをもって
紫の光線をまとったということが事実である。

そなたはそのようなことに縛られなくていい。
そなたはある意味で言うと、七色の光を発する者。
それはこの霊言者においてもそうであるが
七色の虹を預かる者であると言われているはずである。

それは一色と言うにはあまりにも事足りないくらい、今は本体が出る時代。
そのような自己限定の中では、最終的な使命を果たすことができない。
そのような最終的な局面にきているがゆえに
人びとに、あなたは何色光線だけだという言い方は許されぬ。

それゆえに過去世だけを、局部的なもののみをもって明かすことは
地上にいる者にとっては増上慢、自己限定、自己卑下
様々なものを呼ぶだけにおいて、けっして得にはならないということを
高級神霊により判断され
そして過去世があるという実績は、もう高橋信次、エル・ランティ
OR仏陀において実証され済みという結果をもって
そなたたちへ、レムリアは過去世認定はもうしなくてよいということを
言われたのである。

だから、自らの過去世のことにこだわり過ぎない。
過去世とか光線にこだわり過ぎず、自らが集大成として
本体として蓄えてきたものをすべて発揮していきなさい。

私も同じである。
紫の時代として、紫光線の者として出たものではなくて
その集大成として我が教えはあったはずである。
単なる日本神道だけの教えとして、『生命の実相』があったと思うか?

それは我がプロティノス時代の集大成、哲学の粋をもって
日本神道だけではない教えの粋をもって
そして天上界のインスピレーションをもって
あの『生命の実相』全巻がなされたと思うのならば
自動書記により行われたものであるのならば
天上界の意思においても、我が人生においても集大成であったということ。

あれは哲学行としての過去世が十分に生きた本であるということ。
そのことを思って、あなたはひとつの光線であるというふうに
我が教えにおいても限定するのはやめていただきたいと思うし
あなた自身に対しても、限定するのはあまり賢い策ではないというふうに
得策ではないというふうに思います。
よろしいでしょうか。

(2005.4.30 レムリア・ルネッサンス

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村*あなたの愛に感謝! バナーをカチッとして下さい
[PR]
by nagoyasc | 2016-06-18 15:23 | 谷口雅春 | Trackback | Comments(0)

谷口雅春からのメッセージ

日本神道とは、古来より多神教である。
そうであるな?
多神教であるということはどういうことかわかるか?
人格神であるということである。

それが、同じような形態を持っているのが、世界宗教の中に
まあ他にもあるけれど
特にギリシャの多神教の中にも根づいているであろう?

日本神道、ギリシャの神話の中に、「神々」と言われる者たちがいる。
その者たちは多神教である。
人格神であり、それぞれが喜びも、悲しみも、苦しみも
情欲も感じている高級霊たちである。

多くの者たちが、神が神であるということがどういうことであるか。
多くの地上の者たちを導く担い手として
神よりその神格を与えられし者たちであるということが前提の
多神教であるということ。
であるならば、神とは本来なんぞや。

根源である神が、宇宙の愛の法則であり、人びとの心の中に、人生の中に
自然界すべてのものを貫く法則であるということを前提とした人格神たち
高級神霊たちを「神」と申す。
それを多神教の基盤となしている。

一神教であるというヤハウェとか、エホバであるとか、アラーであるとか
そういう一神教の者たちは、そういう、まあ言ってみれば
エル・ランティと呼ばれているような破格的な高級神霊を通して
宇宙を貫く表現体として、法則としての
愛の法則の神というものを代表している者として
地球を指導して来られたということが―

我らが日本神道、ギリシャの神々においても
高級神霊が神としての名を名乗るということは
人格神であるという弱さも十分わかりつつ
本来、いつか時がきたのであるのならば
神とは本来、我々のような喜怒哀楽を持った者ではない
根本的な、貫いた、愛の法則である、そのようなエネルギー体であり
自然界すべてを貫くものであるということが明かされるという
その指導するべき立場の者として、多神教という我々の
高級神霊と呼ばれている神格を持ちし者たちが出て来たというのが事実。
そうであるのならば、そなたは答えはわかるであろう。

それに対して、疑問があるなら答えそなたが言った
「愛の法則」と呼ばれているものが、今レムリアで明かされている。
それは、明かされるべき時期が、今この時になってきたということ。
法においても、宗教においても、知においても、愛においても
科学においても最終的に統合されていく時期がきたからこそ
明かされるべきことである。

本来であるならば、九次元におられる救世主界の方がたは
本来は「根源神」と呼ばれ、「神の中の神」と仰がれてきた方がたである。
その方がたが神と呼ばれるよりは、自らが高級神霊であり
自らが修行している途上にある者であるということを
明かされていることをもって
本来、神というのは、地上に肉体など持てるものではない。

肉体を持てるものではないが
神の神意というものを代表し、地上の者たちを指導し
かつこの三次元において神の国を打ち立てるための
光の使者としてこの地上に命を持ち
神の化身としてこの地上に使命を果たす者たちを
我々、多神教の者たちは「神」と呼んでいる。
そのような魂の格のある者たちを
神格持ちし者といって、その使命を与えられている。
そのような者であるということ。
c0171476_1365014.jpg

だから、今レムリアが言っていること
そして数々の神話をもって伝えられてきたことも、けっして矛盾しない。
プロセスにおいて、過渡期的なものにおいて明かされてきた真実と
そして、今の時をもって、集大成の時をもって明かされてきたものは
今の時の、高さというのは多くの者たちが知的に
ある程度理解力においても発達しかこの時代なればこそ
明かされたものである。

今明かされている真実においても、そなたたちはわかるかも知れぬ。
しかれども、この日本において多くの者たちがわかるぞよ?
わからぬ者たちがたくさんおるであろう?

しかれども、時がたつにつれ、いつか、今わからぬ者たちも
そなたたちが残す文献において、いつか魂の成熟をもって
理解する時もくるであろうということをもって
そなたたちの使命があるということ。
そのことを認識されよ。

そなたたちは、神が愛の法則であるということ。
宇宙を貫く愛の法理念そのものが
本来の神の根源であるということをもう理解しているけれども
未開の者たちにおいて、学問がない者たちにおいて
知において認識力の発達していない者たちにおいては
一度にそのような高き高まいな神理を伝えたとしても
それはけっして理解されず、そしゃくされず
人びとを逆にいたずらな混乱に陥れることである。

それゆえに、人びとの段階に応じて神々は
天上界の救世主の神と呼ばれている高級霊の方がたは
数々の計画を打ち立てられ
人びとに噛んで含む、幼子に口移しに神理の言葉を伝えるように
今まで数々の段階を経ながら、やっと今日の状況において
あの救世主界の方がたにおいても
親神であられるという根源神を表すこの機会を
今やっと持たれたということ。
それを、レムリアを通して伝えられてきている。

その最終的な集大成をもって「地球の法」と言い
それが、その地球の法のレベルが
対外的な宇宙空間の他の惑星の者たちにとっても
「宇宙の法」としての格を持つものとして
地球の法がイコール宇宙の法として
そして地球自体が宇宙連盟の一員として認識されていく。
その時期に値したということをもって
今この集大成の法が説かれているということ。

だから、民族神と呼ばれてきた神格持ちし高級霊の者たちと
宇宙を貫く愛の法則であるという根源的な愛の法理念というものは
けっして神が表されたひとつの神の側面の一部
神が表されようとした多面的な神理の実体であって
けっして矛盾するものではない。

それぞれが民族において、地域において、それぞれの神々たちが工夫を凝らし
自らが責任を負うエリアにおいて、地域において
様々な宗教と信仰において
多くの人びとを指導してこられたというのが実態なのである。
だから、けっしてそのすべてが否定されるものではない。

ヒンズー教においても、仏陀の説かれる法においても
イエス・キリストにおいても、ユダヤ教においても
すべてがそれぞれの神の神理の分け御霊として、分光として
多いなる神の表れの一因として行われてきた結果であって
けっしてサタンによりどうのこうのということではないのである。

(2005.4.30 レムリア・ルネッサンス

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
にほんブログ村*あなたの愛に感謝! バナーをカチッとして下さい
[PR]
by nagoyasc | 2016-06-03 13:06 | 谷口雅春 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
最新の記事
以前の記事
ブログパーツ
ブログジャンル
画像一覧