地球を愛の星へ

カテゴリ:老子( 7 )

老子からのメッセージ(7)

あのサタンと呼ばれている連中も
そういう意味で自らが何を一番欲しているか
もう訳がわからなくなっている。

でも、そういう者に言われて同調するところが、もし自分の中にあったのなら
そういう自分をね、反省もいいけど
そういうものに惹かれたっていう自分の人生そのものを受け入れて
自分を許してやってほしいんじゃ。

わしは常にそう言っている。
あんたたちの世界は、ほとんどが二元論の相対論というものの中できている。
どっちかが正しきや、どっちかが間違っている。
どっちか右を選んだら左が絶対にいけない。
違うよ。

この地上はね、あんたたち、私たち神の子が修行してる限り
彼らサタンたちともいっしょに生きていくもの。
彼らが拡大しているのは私たちの心の表れ。

ならば、今この時期、ともに学び合おうという気持ちがあってこそ
彼らが受け入れられて
そして、彼らもともに向上し、上がって行く道が開かれる。

みーんなサタンのせいにする。
違うと思う。
サタンだけが悪いんじゃないと思う。

彼らを呼び寄せる、我々の気持ちにも原因があるんじゃないかい?
彼らだけに悪いとこ押しつけて、自分たちだけは被害者のような顔をする。
そんな姿の中に、大調和の原理はないんだよ。

相対的なものの中ではなくて、みんなを受け入れて、すべてを受け入れていく。
すべてを融合させていく。

よく言うだろ、「愛というのは、いいとこも悪いとこもすべてを受け入れて
受け止め合って、愛し合っていくものである」と
「それが愛の根源である」と。

都合のいいところだけ愛し合って
都合の悪いところは「違う」と言い合う、せめぎ合う
そんなものは愛の本質ではないということ。
であるのならば、あんたたちの気持ちの中にも、地獄をつくったのは
地上を混乱させているのはサタンだけが、サタンたちだけが悪いのだと
そのような思いを持たないでほしい。

あんたたちが、サタンや地獄のエネルギーを供給してるからこそ
彼らも暴れるのだと。
あんたたちが欲してるからこそ、彼らもやって来るのだと思ったのなら
自分もサタンもあんまり変わらんだろう。

みんな弱いところを持って、道を見失って、どっち行ったらいいかわかんなくて
右往左往している神の子たちがいるだけなんだよ。

みーんな神の子たちだ。
彼らを裁く権利は誰にもない。

いっしょに上がっていこうよ。
いっしょに成長していこうよ。
いっしょに許し合っていこうよ。

それが神の御心だよ。
あんたたちは、すごく間違ってると思うよ。

愛というものをひとつの規範に当てはめて、自分だけが絶対的に正しくなって
ほかの者たちが火の中で焼かれていっても
自分だけは安全に上がって行く道だけを
悟りという名のもとに求めていくのなら
そんなものはエゴイズム以外の何ものでもないと、わしは思う。

ほんとうに必要なものは、そんなものではない。
神の子の本源というものの中に、ともに認め合って、手を取り合うということ。
そして生かし合うということ。
その思いを忘れては誰も幸せにはなれないということ。
誰もだよ。

そんなもので人を踏みつけにして
立身出世してった者たちが、ほんとうに幸せになれたかい?
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あのナポレオンと呼ばれた者だって
最後は孤独で寂しく死んでいったじゃないか。
どんだけ成功したと思われてる者たちだって
それが幸せだというふうに思っていった者は数少ないんだ。

ほんとうに人びとの喜びも苦しみも弱さも受け止め合い
受け止め合うことが自分の弱さも落ち度も、ねっ
いいところも相手に受け止めてもらい、認めてもらえることにつながるんだよ。

それが愛の連鎖。「愛の循環」と呼ばれている神の御心なんだ。
そこに裁きの心は一切ない。

そして、最後は神の御心の中に、すべてが神の子である、サタンだってみんな
私たちみんな神の子、最後はみんなで一体となって
神の御心の中に飛び込んでいく。

神の表れの姿の多様な違いがあるだけ
表現型としての違いがあるだけのことであって
みーんなそれぞれ個性を持った神の表現型であるということ。

ならば、違いをともに認め合って、そして今、ともに成長する段階であるのなら
ともにみんなで成長していこうね、という赦し合いの気持ちを持つこと。
自分だけが抜けがけしようなんて思わないこと。

それが神の子として、使者としての悟りの道であると
もし、あんたたちが誤解してるのなら、それは間違いであると、わしは思う。

上の世界の中でサタンを裁いたり、地獄の者たちを裁く者はいないよ。
そんな差別意識を持っているのは
あんたたちでいう、もうちょっと認識度がない者たち。

みーんなボサッター以上の者たちは、地獄の者、あの者たちだって
かつてみーんな自分たちの仲間だよ、光の天使であったとー。

ましてや九次元の方たちなぞは、早くサタンたちが戻って来て
あのかつての光の天使たちが戻って来て、抱きしめてやろうと
みーんな構えて待っておられる。

みーんなともに神の子として仲間として戻って来る日を待っているがゆえに
この大救世計画というものを立てておられる。
誰ひとりとして裁いておられるような九次元の方がた
八次元の方がたはおられない。

地上の者たちだけが裁いている。
地上の者たちだけが一番ある意味で、そのエネルギーを供給して
弱さを持っているにもかかわらず、自分の弱さ間違いを棚に上げて
彼らを「魔」だと言って忌み嫌い、裁いている。

ともに成長しようという大調和の原理の中で
あなた方はもう少し認識を変えていかなくてはいけない。

どうか、どうかどうか、あなた方の気持ちの中で
神の子として何ひとつつかまない
何ひとつ自分自身を美しく、よく見せようという
まあ、見栄っ張りな気持ちを持って自分を必要以上に飾りたてないことじゃ。

そんなものはのう、わしらの世界から見たらぜーんぶ余分なもの
通用しないものなんだよ。

あんた方の中にある魂の純粋性、マリア様がおっしゃった、幼子のようなねえ
邪心のないねえ、きれいな、きれいな神の子としてのまあるい心
そして、そこを通して人を愛していこうという思い、感謝の思い
まあ、全部それが愛の思いなんだけど
その愛がどれだけその魂から光輝いているか。
己自身の光を発してるか。

己自身の光を発してるということは
己自身の命を、魂を大切に生きてるかということなんだよ。

大切に生きようとするその思いが、あんたたちのそのピカピカの無邪気な
純粋な魂の、さく裂するような光を放ちだした時に
愛のキヤンドルサービスと呼ばれている、愛の点火は行われていく。
そこに余分なものはいらないよ。

それ以外のものは、それ以外のものをどれだけ
どれだけ世界の大富豪だと呼ばれていようと
どれだけノーベル賞を取ってると言われようと
そんなものでほかの者たちの、神の子たちに
愛のキャンドルの点火なんかできないということ。

むき出しの、むき出しの、あなた方の魂の光をもって、愛の光をもってしか
あなたの隣人たちの、神の子、仲間たちのハートに火をともすことはできない。

その大事なことを見失っちゃいけないよ、ってことを
この老いぼれは伝えたくて、今日来ました。
わかっていただけたかな?

ただのこじき坊主ではないかもしれないということを
あんたたちに認めてもらいたい。
認めてもらいたいというよりは、この場に呼んでいただいた以上は
何かしらお話ししなければいけないけど、少しお役に立てたじゃろうか?

また、この老子としてのシリーズをもしやりたければ
ほかの者が来た時に、どうかお呼びください。
また喜んで来ましょう。

(2005.8.6 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-09-01 08:05 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(6)

自分の気持ちに正直に生きて、魂を解放することだよ。
魂を解放していったら、そこに苦しみはないから。
どれだけつらい道のりであったとしても、人から見たらつらいのであって
本人から見たら楽しい道なんだよ。
それが自分に対しても、結果的には周りの人に対しても
そして人類に対しても、神様に対しても、愛深い姿になるんだよ。

そして、そこに至るには
自らを偉しとして、人の上に立ちたいという思い上がった気持ちはだめ。
謙虚に生きること。

謙虚に、自分に正直に生きた者は、最終的に人を幸せにし、愛深くし
そして楽しい人生が待っているんだよ、ということ。
そうでなければ、どれだけ周りのために生きようとしても
自らの魂を偽った姿は、だれも幸せにはしないということ。

表面だけの幸福論は何も生まない。
ほんとうの意味で、自分の魂に正直に生きること。
その意味では、自分を解放することに勇気を持つこと。

偽った姿、そんなものは、どこも人を幸せにすることにはならない。
人類を幸せにすることにはならない。
なぜなら、自分自身も救い得ない者が、幸せにできぬ者が
どうやって全人類を幸せにするのかい?

目先だけで言ってもだめだよ。
あんたが不幸なのは、誰の目から見てもわかってしまうこと。
あなたが幸せでないということ。
それは、みんなが見ててわかること。

そういう者が、いくら言葉だけで愛を唱えても、それは誰も幸せにはしない。
誰もついて来ない。

さっき、おっしゃられていた、聖母マリア様がおっしゃっていた
「愛のキャンドルサービス」、その点火は起きないんだよ。
その言葉は、ほかの人の魂に、ハートに火はつけられないんだよ。
そのことを学びなさい。

正直であるということ。
ありのままの神からつくられた自分の姿に正直に
そして感謝をして生きること。

何を努力するわけでなく、もし勇気を持ち努力するのなら
「むき出しの自分として人の前に出るということを、
勇気を持って踏み出しなさい」ということを、私は言いたい。

裸の自分で、名もなく、「老いぼれ」と呼ばれても
それでも自分は神の子であると
毅然とした思いで生きることができてこそ
この老いぼれになれるということ。

それは、神の子であるという自分に最大限の価値を
誇りを持っている姿があるからこそ
どんなに見てくれが肉体がおそまつであろうとも
着ているものがぼろきれであろうとも、髪の毛が薄かろうと
わしは自らの姿に誇りを持っている。

それが、神が期待なさられ、わしに与えられた使命であり
自らの存在そのものの価値であると、わしは思っているから
立身出世しなくても、立派なうちに住まなくとも、うまいもん食わなくても
ただただ、この与えられた人生の中で自らの命を光輝かせ、愛しているという
その自分の誇りを持ってこの魂を生きていく。

その意味において何ひとつ、私にかせはないということ。
私を縛るものはないということ。
なぜなら、私は何も望んでいないからー
何も望んでいない。
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如来なんか、どこの世界の話だい?
ボサッターって、何だい?

え?階層が勝手に分かれてるのは
たぶん体重が軽いもんが上に行くんじゃないかい?

あんたらちょっと食べすぎて肥えとるよ。
だから下にいるんじゃないの?ねっ。

女性は、なんか見てると
いつも「ダイエット、ダイエット」って言っているようじゃのう。
ならば、魂の欲のダイエットをしなさい。
ほんとうに大事な栄養だけを摂って、魂にほんとうに大事な栄養だけを摂って
余分なコレステロールがたまるような、つまらないものを捨てていきなさい。

そしたらのう、上の世界に行きたいなんて思わなくても
そこらへんで転がって昼寝したいと思っても
フワーッと、なにやら浮き上がって浮き上がって
ポカーッと、神さんの上の世界のほうで雲の上から
こうやって周りを見とるんじゃ。

「もちっと下に沈みたいがのう」と思っても
「だめじゃ、あんたは体重が肥えとらんから」と言われて
上のほうに浮いてしまう。
そんな悟り方、そういう道もあるんじゃよということ。
それをわしはあなたたちに伝えたい。

坊さんたちが滝に打たれて、難行苦行してる姿を見て
それはそれでその者たちが今必要な段階だと思って
わしは十分わかって敬意を持っている。

それもまた、その方たちの人生であり、今の魂のうずきが欲していること。
だからそれは否定なんかしないよ。
彼らみんなにとって必要であり、自分の人生として選んでる道なんだから。

でもね、幸せって、そんなふうにあくせくしなくてもあるんだよ。
気づけるんだよ。
いちばん魂にとって必要なこと、それがそれだけが
ほんとうに人間を神の子たちを幸せに導くものなんだよ。

そこの大事なところを抜いて、他のいかなるものを
「この地球すべてをくれる」と言っても
よくサタンが惑わす時に使うねえ
「この地上すべての土地をおまえにくれてやるから、
その魂を私に譲り渡さないか」
まあ、彼らはよく好きで言うセリフだよ。

それにまたふらふらーっとする連中も連中だと、わしは思うんじゃが
あんなもんもらってどうする。

わしなんかいらんぞ。
草むしりだけでもたいへんだと思ってしまう。
あんなもんいらん。
そんなもんが欲しいと思うから、そこのところに隙入られるんじゃ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2014-08-28 17:46 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(5)

「あの老いぼれは何をつかんでいるんだろう。何なんだろう」と言って
集まって来る者は、集まって来た。

わしは弟子なんておらん。
弟子なんか、取ると思うか?

でもあの時代、そういう時代だからこそ
わしの周りに、やはり人びとが集まって来た。
それが「どうやらあそこに、変わり者のもうろくじじいが
勝手なことを言っているようだ」
という話が広がり、けっこう評判になっておった。

若かった頃の孔子というのも、その噂を聞きつけて
会いに来たという事実がある。
まあ、向こうから見たら
「こじきおやじが、老いぼれが、何を言ってんのか、いったい」と
まあ、孔子と呼ばれている方はねえ、あの方はあの方で素晴らしい方です。
その彼のやる仕事があればこそ
この老いぼれの仕事もあったということなんじゃ。

で、若かりし彼とお互いに会った時、わしらは大した言葉を言わなかった。
話さなかったけれども
お互いがお互いとして存在を認め合った瞬間というのがある。

そこに言葉はいらない。
むき出しで、神の子として確かに生きてるという
鮮烈なエネルギーを発してる者同士が
互いに無言で認め合い、互いに礼を尽くし、敬意を持ち合うもの。
そのようなことを記憶しているように思います。

まだ若かりし孔子は、たぶん優等生であろうという
その姿をいでたちをしていたし
考え方においてもそうだった。
でも、彼を祝福する気持ちにおいて、彼を見送った気もする。

彼は彼で、自分にはない私の存在
エネルギーを通して彼なりに考えるきっかけを持ったかもしれない。
でも、別に若かりし孔子が老いぼれになる、老子になることはない。

わしはわしとして正直に
神より与えられた個性を
個性というのはその中に使命が含まれている。

わしは「多くの人びとを自由にしなさい」と
「多くの人びとを自由の中で解放することで、喜びを与えていきなさい。
喜びに気づく道を与えていきなさい」と。

大自然の中における神の声を聞くことによって
人びとにそのようなことを語りかけていく、知らしめていく。
それが緑の光線の、緑の光線のものは調和というもの
大自然を通した調和というもの。

それは、大自然の中という神の懐の中において創造された神の子たち
それが、みんなが調和して生きていく道。
それは「神の子としてつくられたという存在に気づき、神の子としての存在
一人ひとりの違いに気づき、ともに認め合うことによって
手をつなぎ合うことによって
調和をして生きていきなさい」と
それを知らしめていくのが、緑の光線の者たちの使命であるのです。

ですから、わしはそれを生きざまによって示した。
その調和の原理という中には、けっして人を押さえこみ、人の上に立ち
人の個性というもの
大命というものを踏み散らかして自分自身の我を通すということは
大調和の原理にはない。

大宇宙の神の御心の中に、大調和というのは一つの法則として入っている。
それは愛というものがすべてを受け入れ、すべての存在を生かし
すべてのものを大調和という懐の中で包み込んでいく。

それが神の御心であるから。
それが大宇宙の摂理であり、法であるから。

それゆえに、大調和の中の調和というものを
神の現れいでた自然界のその姿を通して人びとに
ある者は音楽を、ある者は思想を
文化というものがやはり多く出てくるのですけど
音色を通したりしながら、調和の原理というものを人びとに示していく。
思想を通して示していく。
それが、緑の光線の者たちが担っている使命であるということなのです。

大調和の中には、常に自らを
自らの人生というものを卑下することはありません。
自分自らの、自らでなくてはやれないことの力というもの、可能性というもの
人生を大切にするということ、いとおしむということ、楽しむということ。

それを、すべてをわかった者であればこそ、他者の命の尊さというもの
他者の者たちが持つ価値観を尊重しなくてはいけないということ。
そして、ほかの者たちの命をけっして踏みにじってはいけない。
人生を押さえ込んではいけない。

ともに尊重し合い、ともに切磋琢磨し、ともに生かしむる
そういう力というのが湧くのが、大調和の原理でもあるのです。

それに気づかないから、余分なものの中で
社会が、その人にとってほんとうに幸せな目標ではないのに
あなた方は自分の頭で、自分の魂で判断することを怠って、怠けて
人が社会が与えた、安易な価値基準の中で、自分の幸せというもの
努力目標というものを勝手に決めて
合わないにもかかわらず、そこに向けてしゃにむにやるから
「難行だ、苦行だ、修行だ
そして、「不幸だ」と、魂を追い詰めて道がわからなくなるのだと
わしは思うよ。
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一度そういうものから解き放なたれてみなさい。
ものが人の知識や、知恵の深さに結びつくということではないということ。
神の子の叡智というのはね
あんたたちはこの時代では最高峰の学問を受けてるかもしれない。
皆さんそうでしょう。

でも、そんなものは、あとねえ、わしらの時代に最高学府と呼ばれたとこで
頑張ってた人たちが
おそまつな、おかしな知識ばっか頭に詰めこんでた。

でものう、あんたたちですら、あと百年、二百年後の未来に行ってごらん。
飛躍的に科学が発達して
それこそほかの惑星なんかガンガン行っちゃってる時に
「そんな時代遅れの物理の法則しか知らんのか」と言って
ばかにされるだろ。

だから、知識というのはそういうものだということ。
ただその知識を通してその時代にどれだけ貢献できるか
どれだけの使命を果たすために役立つことができるかということをもって
その時代の知識というのは意味があるということ。

でも、ほんとうに大事なのはのう
あんたたちみんなの中にもうすでに蓄えられた過去世の
パーニャパラミタと呼ばれている叡智がたくさん詰まっている
そして神に創造された時より与えられた神ご自身の分光
分けた光があんたたちの体の中に入っておるんじゃ。

この光に出会うことだよ。
その魂の外に求めることはない。
外に行って一生懸命勉強するとか、知識を、ガラクタを詰めこむなら
知識を捨て、脇に置いて
「自分の中にあるほんとうの宝物の声に耳を澄ましてごらん」と
わしはそう言いたい。
そしたらそこから
湧きあがるような素晴らしい宇宙の根源からの神の声が聞こえてくる。

人を愛するとはどういうことか。
幸せに生きるとはどういうことか。
ともに生かし合って生きるとはどういうことか。

それに気づくには外を向くことはない。
内に、自分の中にもう蓄えられた、自らの命に出会っていけば
魂の中にちゃんとそれは書かれてるということ。

それを、人生をどうやって生きようかと
幼少期から青年期に向かって生きる時に
ちゃんと魂のうずきという指導が入って
どっちの方向に行きたいかということがわかってくる。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-25 09:29 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(4)

修行をしなければアラハンに行けないとか
修行しなければ、ここまで行かなきゃ
ボサッターという位になれないとか、それはおかしいよ。

そんな目的のために、そのように考えることは、わしに言わせりゃあ
魂が悟りを開くという美名に隠れて、魂の世界の立身出世のために
人のことより自分のこと、自我のためだけに、エゴのためだけに
神さんという道具を使って自己実現していきたいと
そのように醜く我を張ってる人間の姿にしか、わしには見えない。

いいじゃないか、別にボサッターにならなくたって
アラハンにならなくたって、如来にならなくたって。
どうでもよいわな、幸せに生きていけるのなら。

この神様よりつくられた我が神性、神の子という部分を味わって
その光を自然に発散して、世を照らす、そのような祝福するような思いで
幼きもの、小さきもの、弱いもの
そして自然界におけるセミやチョウチョウや
野の草花を通していとおしみながら
「ともに神の子として、この地上に現れてよかったねえ」と
「なんとこの四季が美しいんだろう。
お前たちのおかげでこんなに美しい四季を見せてもらうことができるよ
ありがとうよー」と
虫に語りかけ、花に語りかけ、川面に語りかけ、月に語りかけ
星に語りかけていく。

そのような心を持っておるとなあ、別にほかの人たち
まあ、ほかの霊人からも
「なんでこの老いぼれがこんなところにいるんじゃ」と、よく言われて
もっと別のところでいいのになあと思うんだけども
わしはなーんもつかみたくないから
どーでも立身出世なんて思わないから
悟りなんてしたくもないし、どうじゃ、「修行なんか大っ嫌いだ」。

なーんもつかんどらんとなあ
この老いぽれはフワフワ、フワフワ、フワフワ浮いて
なんかプカーっと、気づいたら八次元とやらの
その世界まで浮かんで上がってきちゃったんだよ。

そしたら、「なんでこの老いぼれがここにいるんだ」と
周りからは多少けげんな目で見られるが
それが神の子としてどういう意味があるかということ。

また、別な意味で、あくせくあくせく
「悟りたい、悟りたい、ボサッターになりたい」
知ってるかい?

ボサッターっていうのはね、自分の命捨てて
ほかの人の幸せのために生きる人たちのことをボサッターっていうんだよ。

でも、「ボサッターになりたい、ボサッターになりたい。
だから、ボサッターになるためにアラハンに行かなくっちゃ」。
みんな、あくせくあくせく、欲にまみれてる。
わしから見たら、欲にまみれてる。

この地上的に出世することには
とても後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。
でも、神さんの世界で、また別な意味で立身出世したくて
坊さんたちは一生懸命、難行苦行、修行とやらで、自分を縛り
一生懸命努力してると勘違いしてる。
自己実現、自我だぞ、エゴだぞ、そんなものは。

神さんが求めていることは、自分を捨てて無心になって
人の幸せのために神の子たち、同胞の幸せのために世を照らせ」と
そのようにおっしゃられているだけだ。

それ以外の知識なぞは大していらないのに
それ以外の、自分を箔づけするために一生懸命知識を詰め込み
一生懸命魂の世界で立身出世したくて、修行ばかりしている。

そういう人たちを見ていると、「そんなものは捨てておしまい」と
「そんな自分にかかわりあうんじゃない」とー。
ありのままで、わしたちはみんな神の子じゃぞ。

みーんな神の子じゃぞ。
あんたは、ちょっとぽっかり偉いかもしれんが
わしは老いぼれで学問もない。
昔でいう小学校も出ておらんがのう。

関係ないぞ。
神さんが見たら、知識じゃないぞ。

いかにわしらが神さんに、天の神さんにつくられた
ありのままの神の子としての存在に
正直に自らの人生の中で生きようとしているか
神の子を生きようとしているか。
それだけを神さんはご覧になっちょるんだぞ。

それ以外の高給取り、今でいうと何だ
お医者さんとか、まあいろんな立派な仕事がたくさんあるじゃろ。
そういうのになるために、みんなあくせくする。

それがおかしいということを坊さんたちは百歩譲ってわかって
精神世界にもってきたとしても
彼らがほんとうに神の子として人を幸せにしたくて
なりたいという坊さんはどれだけいると思う?

今の時代、どれだけいると思う?

坊主という袈裟を着けて
この地上での生きやすさの道具にしようと商売の道具にしようと思っている
そんな者たちが多い。

そうでなくても、あの世でも間違っているのは
魂の世界としての立身出世を求めるための一つの手がかりとして
ボサッターになりたい、如来になりたい
果ては九次元だか十次元だかになって、惑星意識になってみたい。
だから、神理の運動を頑張るんじゃ。
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わしゃ、ごめんだね。
わしゃ、ごめんだね。
セミやコオロギといっしょに仲良く生きてるほうがどれだけ楽しいかのう。
わしや、ごめんだ。

「でも、そんなのは全部自分の欲にかられた、
神の子から明らかに離れた道じゃよ」と
それをわしは言っとるんじゃ。

簡単な言葉で言うとる。
難しい言葉は何もいらない。
神の子語るのに、難しい言葉はいらないぞ。

神の子というのは、ありとあらゆるものの中に
神の子としての神様の愛がぎっしりつまれて、つくられたということを
ともに認め合い、尊敬し合い、感謝し合って、尊重し合って
手を握って生きること。
そこに尽きてるんだよ。

そこの中に、自らを偉しとしようとする気持ち
ほかの者を押さえこんででも、自分が出世してやろう
上に立ってやりたい、ねっ
自分こそ上に立ってやりたい、そういう思いじゃないかい?

そんな思いで、努力をしてみたところで
ほんとうの意味で希望が持てるわけがない。
いつかむなしさを抱えて、そこに努力をしていっても
そこに幸せというものを、まあ、一時は思うかもしれないけど
いずれ、ほんとうにこれが自分の幸せかという疑いがでてくる。
幸せではないというとこで苦しむ。

わしは「みんなで幸せになろう」と言っている。
「神の子として生きよう。
いっしょに手をつないで生きよう」って言ってる。

「神さんにつくられたこのかけがえのない命を喜んで
みんなで踊りながらいっしょに生きよう」って言ってる。
難しいことはいらんだろう。

そこにいる小さなわらべたちと手をつないで踊って
かくれんぼしたり、いろんな遊びをする。
それだって幸せだよ。

「その姿にこそ幸せの原点はあるんじゃよ」と、わしはそう言った。
立身出世であくせくあくせくして、戦いがあった時代だからこそ
わしはそれをより言ったんだ。
それに向かって、世間は非難ごうごうのことを言った。
でも、そんなものは関係ない。

わしはわしとして、無名の老いぼれとして、人の上に立つでもなく
特別な存在でもなく
ただただ神につくられた、最初はだれでも無名ではないか
個性は与えられたけど、名前なぞというのは、どうだい
あんたたちはたとえばイエス・キリスト、インマヌエルっていう言葉
モーゼとかあんたたちは孔子とか言うんだろ?

その名前が永遠不変だと思うかい?

わしらは天上界では別の名前で呼んでるよ、彼らのこと。
誰も「イエス・キリスト様」なんて言わない。
誰も言わない。
あの方のことを「アモール」と呼ぶ。

その中の一つの過去の意識体の中として
「ナザレのイエス」と言われている方の記憶がある。
その部分が出てきて仕事をすることはあるけれども
本体エネルギーとしてはアモールという方がいる。
でも、アモールという方にしても、モーリヤと呼ばれている方
セラビムと呼ばれている方にしても、名前なぞはどうでもいいことなんだよ。

我々の世界は名前ではない。
その方の特殊なエネルギーを思いの中で浮かべただけで
その方と言葉が通じる。
それが我々の世界のコミュニケーションというか接触のしかた。

みんな、自分に名前があり、たとえばアレキサンダー大王であるとか
そのような肩書きがみんな欲しい。

何とか、何とか、何世だとか、みんな名前が欲しいから
皇帝になりたかったりして
人びとを犠牲にして、国を拡げて、戦いやって、下克上をやって
不幸の種を、苦しみの種をまいていく。

「そんなもの、捨ててしまいなさい」と。
「無名の老いぼれでわしは幸せじゃ」と。

無名の老いぼれであったとしても
わしは神さんからつくられた確かに神の子として
その祝福されたこの魂を、人生を昧わって神さんに感謝しながら
踊りを踊りながら生きている。

ボサッター:菩薩のこと。無私なる思いで、愛他・利他を実践する者。
       他人の幸せのために命をかける者をいう。
      七次元のレベルまで霊的進化を遂げた魂のこと。

アラハン:阿羅漢のこと。反省行を行い、心の曇りを取り除いて、
     心に神の光を受けることができるような状態となった人のこと。
     菩薩の境地の一歩手前段階。
     彼らの境地は六次元上段階に相当している。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-22 05:50 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(3)

努力というのは、自分がやりたい夢や希望をかなえるためにするのなら
その多さ少なさなぞというのは苦の原因にはならないということ。

自分がなりたいと思う努力は高くても難しくても
そこに向かって努力してるということは喜びでもあるということ。
そこに、ほんとうに自分の魂の中で、人生の中の希望の思いがあるのならね。

でも、そこに価値を見いだせなかったのなら
それが
「多くの人がそこへ行って、大半の人がそこで幸せになる」と言われても
「そこにあんたたち自体の幸せはないんだよ、別の道を選びなさいよ」と。

そこから外れることがみんな怖い。
ひとつの同じような規範
ある程度幸せだといわれた紋切りのパターンの中から
人は外れるのがとっても怖いんじゃ。

そこで、たくさんのたくさんの鎖を自分の魂に縛りつけてのう
神様がせっかくこんなに自由に
幸せにこの地上に送り出してくださったのに
自分たちで自分たちの社会の中でつくったその鎖で
また自分自らいっぱい鎖をはめて
「苦しい、苦しい」と魂が悲鳴をあげ
自殺者が多くなり、中学や高校とか
まだまだ集団で学ばなきゃいけない時期にも自分でやめてしまったり
大学をやめ、国立大学の立派なところを出てもじゃ。

見とったんじや
この者といっしょに昨日。
ニートというのを見て、「ほう、現代もこんな者たちがおるのか」と。
みんなニートの連中は国立大学の有名なところを出ていた。

それなのに、挫折がなくて親に言われた価値観のままできたから
就職活動の時になって初めて挫折感を知って、ふられまくって
なんで自分が落とされたのかがわからない。

「教えてほしい」と言っても、向こうの面接官教えてくれなかったと
そこでガラガラと価値観が崩れて
九年間もひきこもりになっておる三十代の男がおったが
そんなのばっかだったなあ、昨日見ていたのはなあ。

だから、学問をしたから、世間の立身出世の道と同じことの努力をしたから
必ずしもその者が幸せになれる、そんなわけではないということ。
そうじゃなくて、もっともっと多様な価値観の中で
自分の人生の可能性というもの
やりたい夢というものを探して
その上で自分がその夢に向かって頑張るのならば
それは努力だとかつらい修行だとか、そのような苦に満ちたような
そんなすこしも楽しくないような人生の時のすごし方をすることはないと思う。

自分がやりたい夢は、誰がどう評価しようと、その結果じゃあない。
結果のために、目的のために
自分の人生を修行という名のもとに縛り上げて
「苦しい、苦しい、苦しい」と言って、努力をする人生なぞは
人生をほんとうの意味で味わってることにはならんよ。
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あんたたちは幸せになりたくて、この地上に出て来たんだろ?

地上に出て来たということはな
自分の魂の中にある、あんたたちで言う「うずき」
「自分ならではの光」、「やるべきこと」
それに忠実に、夢を目的を見つけた時に
人というのは莫大なエネルギーが出てくるということ。

あんたたちもどうじや?

このレムリアの仕事、本業の仕事があってみんな忙しい
ほんとうに忙しい生活をしてくれてる。
それはそうでしょう。
家の中のことも家庭のことも主婦の人たちはあるし
それ以外の人たちは立派な仕事を持って、世間でひじょうに頑張っている。

それもよくみんな知ってる。
でも、それを脇に置いてでも
レムリアの仕事のために一生懸命みんな仕事をしてくれてる。

そこに、「苦しい、苦行だ、修行だ」って、あんたたち思ってるかい?
魂が喜びを持ってやってる人たちだけが、今残っているように思うよ。

ならば、どれだけ寝てなくても、どれだけ徹夜で仕事をしていても
どれだけこの者にしても体に負担があって
「霊言とるのが嫌だ」と言いつつも
それでもやはり喜んで、霊言をとったり仕事をしている。

それがほんとうの意味での魂のするべき仕事であり
神の子としての本業であるということを魂自体が知っているから
そのためにならどれだけでも人間というのはね
エネルギーが出てくるもんなんだよ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-18 06:03 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(2)

その時代は、学者というのはひじょうに百花僚乱、あちらでもこちらでも
それぞれの先生について、みんな一生懸命勉強しておった。
出世したくて、一生懸命役人になりたくて、勉強しておった。
みんな頑張ってやっておった。

その時に「知恵者」と呼ばれた者たちは
その時代の最高と呼ばれた知識を頭にぎっしり詰め込んで
自分たちこそは当代随一の知識者であると、競い合ったものよ。

でも、その時にいた者たちを、今この時代に出て来て
その時に学んでぎっしり入れた知識を
今日の日本で、世界で通用するかと、問うてみたいわ。
そんなことあの時代では最高の知識でも
今じゃどれも使いものにならんであろうが。
「そんなものが知識だ」と、わしはそう言い放っただけよ。

「知識が悪い」とは言わない。
知識を通して数々の判断をしていく。
そして、知識をもってより多くの視野、判断力の限界を広げていくということ。
論理的にものを考えていくということ。
認識力を拡大していくということ。

それはとても大事なことだから知識が全部いらないとは
わしはひと言も言ってはおらん。
でも、知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちの大ばか者が
あの時代にはあふれておった。

人生の大半を勉強、勉強で生きて
それが、その勉強をして知識を詰め込んだから出世できる
詰め込んだから学者への道が開かれる、それが最高の人間としての道であると
そういうふうに皆言い放っていた時代だからこそ
その中の時代のバランスとして
思想のバランスとして、彼らを解き放つ意味の
まあ、あなたたちの仏教の中の「一転語」と言うのか
まあそのような存在として
彼らにわしのような者が、そういう言い方をしたのだ。

まあ、それはあの時代から見ると、「勉強するなんて大ばか者だ」と
「愚者である」という言い方をしたのは
ひじょうに彼らにとってみると、ショックな話であったと思うよ。
たいへんショックな話であったと思う。

でも、学識だけを詰め込んだ大ばか者たちが
ほんとうの意味での人生がわからずに、せめぎ合い、下克上し合い
国と国とがぶつかり合って、戦乱の世の中をつくり
学問においても数々の宗派の者たちが出てきて
「自分たちこそが最高の知恵者である」と言って、ぶつかり合っていた。

それがまあ、ひとつの時代の文化という意味では、花が開いたという意味では
百花僚乱の時代ではあったけれども、でもそこの中においてほんとうに
その彼らの唱えたものが人民を底辺の者たちまで含めて
みんなを幸せにすることができたかというと、学問のない民百姓たち
学問がなくてほんとうにそういうものからうとかった者たちは
常に見捨てられていたという現実があった。
彼らを救うためのものではなかった。

王道論にしても、君主をもっていかに人びとを幸せにするかという道
人倫の道というものを説いてはいたけれども
でもそれがほんとうのいい意味で
学問のない者たちを幸せにする道かといったら
それはやはり選ばれていた者たちがより機能的に出世していく道を
人生をより豊かな、豊かといっても心の豊かさではない
ある意味でいうと生きやすくさせるための立身出世の道を
その方法論のようなものをお互いに説き合っていた。
そのようなことが、まあ時代の中にまん延していた時代かもしれない。

ほんとうに弱き者たちの心を幸せにしたいと願うのであるのなら
あんなに次から次へと戦争を起こさない。
わしはそう思う。

彼らの素朴な幸せ、さっきも言ったけど、隣の嬢ちゃんが大きくなって
「ベつぴんさんになったなあ、嫁にいって幸せになれよ」と
思うような気持ち。
「はあ、四季が移りいって、美しくなって、
今年も豊作になってよかったねえ」と
そのように互いに喜び合う、そのような素朴に生きる者たちの幸せ。

そういうものというものを、みんなが立身出世でカツカツカツカツして
国と国とがいかに大国になるかだけを、みんながせめぎ合っていたか。
そういう意味での幸福論というのが置き去りにされていたということ。

それをわしは、「素朴な人生の中にこそしあわせがあるんだよ」と
それを言い続けること
「立身出世欲を持ち、それがほんとうの意味での向上心につながると
それは見当違いな道なんだよ」と、それをわしは言っていたという
そういう存在だったように思う。
それは逆に言うと、現代に当てはめてみても
同じことが言えるんじゃないのかなあと、思うんだよ。
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あなたたちの今のこの時代を見ると、学歴主義というようなものがまん延して
学歴の中でいい大学を出ていけば、ある程度人生の保障は得られる
そういう時代じゃろ。

その中で生きやすさというもの、生活の安定というものが得られる。
それがね、「悪い」とは言わんよ、わしは。
それもまたいいことじゃ。
神の自由意志もある。

「神より与えられた自由意志の中で
あんたたちが一人ひとり生きるのなら、それもよかろ
でも、それと幸せというものはまた違うよ」ということを言っている。

生きやすさを求めていくこと
まあ自分の魂の実現というもののための手段として
一生懸命、努力精進するために自分が選んだ道であるのならば
それはどんなに苦しかろうと困難な道であろうと
夢がある限り楽しい道じゃあないかね。

どんなにつらいことがあろうとも
自らが選んだ夢をかなえさせるための道ならば
いかなるつらい勉強でも学問でも、それはつらいものではなかろ。
苦しいものではなかろ。
それを楽しむのが人生の喜びであり、醍醐味だとわしは思っている。

でも一番いけないのは
その努力を越えたあとに素晴らしい安定された未来があるからということだけで
その、いい大学に入ろうとか、いい仕事に就くということが
自らの夢となっていない
自らの自分の魂がほんとうに納得していない。

それだけど、生きやすさを求めるがために世間の流れに流されて
それを惰性の中で、目的意識もなく歩むのだとしたら
これほどつらい人生もなかろうということ。
これほどつらい努力もなかろうということ。

でもそれをね
あんたたちはほんとうの意味で
何のために努力をしようとしているのか、それを考える力がない。

今、少子化じゃろ、子どもも少ない中で親に期待されて
期待されてかわいがられて
「何とかちゃんや、いい大学に行って立身出世して、
母さん父さんを安心させておくれ」
と言って、手間暇かけられ、金かけられ、育てられた子たちが
ほんとうの人生の目的、夢というものを見つけられず
しゃにむに受験戦争と呼ばれているようなハードな中に投げ込まれていく。

その結果、何を自分がやりたいのかがわからなくて、努力ができなくて
途中で学校をやめてしまう子たちが多かったり
入って出たとしても、結果的にそのあとに社会に適応できなくて
その先の仕事とかに自分の夢というもの、希望というものが見つけられなくて
そこから、ひきこもりというような「ニート」と呼ばれているような
まあ一見ニートと呼ばれてる連中は
わしに似ているようにも言われるかもしれないが
そこは大きく違うんじゃ。

わしはいつも人生を楽しんで、釣りをしようと、空を眺めていようと
一生懸命眺めて、一生懸命幸せだと感じている人生だよ。

彼らはどんなに、それで立派な大学を出たとしても
そこに希望が見いだせなかった。
そのための努力を継続することがもうできなくなった。
そこが、彼らの不幸の原因、苦しさの原因じゃ。

でも、逆にいうと、学校なんか出なくたって
明るく元気に生き生きと、幸せに生きている連中はまたおるじゃろ。

そういう連中を見たときに
たとえ立身出世なんていうこと考えなくても元気よく
元気よく光に向かって生きている
そういう者のほうがよっぽど幸せであろうとそういうことをわしは思う。

「ひとつの流れの中で立身出世していくことだけが
人間の努力目標であるような
押しつけたような道、それはどこも幸せを生まないんじゃよ」ということを
わしはかつての時代も言ったけど
今世の現代の人びとに対しても同じメッセージを伝えたいと思う。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-14 20:14 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ

「修行」
わしがいちばん嫌いな言葉だよ。

修行なんかしなくたってそのままありのままの自分で
自分自身がどんな生き方をしたらいいかなんて考えなくたって
ありのままの神の子の姿で生きていれば
それで十分幸せなのが神の子なんだよ。

それを気づくか気づかないか
自分の人生を味わえるか味わえないか、それだけが問題だ。

多くのものを望まず、多くを欲せず、自分自身に正直に
神様からつくられた自分の人生を、魂を味わいながら
ゆったりと自然の懐の、神の懐の中に抱かれながら
踊りながら生きていく、味わいながら生きていく
それが私が言っていた境地、「無為自然の境地」っていうものなんだ。

こんにちは。
老いぼれです。
老子です。

あんたたちの中では「老子」という言葉で呼ばれてるけど
それはわしの本名じゃないんだよ。
わしは自分の本名もなんも言わなかったし
「ただの老いぼれさ」と言ってたのが
そのあと人の口から口へ伝えられて、老子という言葉で伝えられている。
そういうのがわしのこと。

わしは自分の氏素性、父親が誰だったとか、母親が誰だったとか
どの階級の出だったとか、自分の名前だとか
そんなものまったく人にも語らなかったし
それにあまり弟子とかいうのも好きではなかったし、本も書かなかったし
まあいってみりゃ、「気楽な怠け者だ」と言われても
ミカエル大天使あたりに、ああ言われてもしかたないような老いぽれです。

「こっちの世界に来てまで老いぼれやってることもなかろうに」と
言われるんだけどそのほうが気楽なんです。
だから、こっちに来ては相変わらずこういう姿でフラフラ、フラフラ
あっち行ったり、こっち行ったりしながら
みんなの間をちょっと邪魔してまわってるかもしれん。

あんたたちの生き方を見てると
まあわしが何か言うというのもお門違いかもしれないけど
なんでこういうふうに今日出て来たかというとね
どうもあんたたちが一生懸命やってくれること
とっても意味のあることだっていうのはよくわかっているんだけど
どうも、そろそろまた苦しくなってきたなあと、思って出て来たんだよねえ。

わしの考え、思想というのはね、考え方というのは、何もやらなくていい
人間は努力しなくてもいいという教えじゃない。
そんなんじゃない。

ただ立身出世のためにとか
何がなんでもこの地上に自分自身の地位とか名誉とかを築くために
ああしなければいかん、こうしなきゃいかんという
処世術のようなものが横行した時代が
わしのいた時代にもすごくはやってねえ。
もう一大勢力というか
もうあっちこっちでいろんな思想の華が咲いていたわけだ。

その中であまりにもみんなが立身出世というものを求めて、処世術を
そして、どの諸侯に取り入れられていくかというようなそんなことに
みんながきゅうきゅうとしていた時代でもあったので
わしがちょっと出て行って、そんなこともなかろうと。

みんな幸せになるのに、どの殿様に召し抱えられたとか
どのように学問をして勉強していったから出世をして
官吏登用の道が聞かれたとか
金が欲しい、女が欲しいといって戦って
領土が欲しい、あの国も欲しいといっては
みんな戦争を繰り返していた時代だ。

そんなときにね、「そんな欲みたいなものは全部捨ててしまいなさい」と
「そんなものなくたって幸せになるということは簡単なことだよ」と
それをある意味でアンチテーゼのような意味で、わしはみんなに伝えた。
そういう役割があったということも事実。
それが、その考え方が残って今日
「老子の思想」と呼ばれているのかもしれない。
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まあ、わしが言ったことは
あの時代で研究者がいろいろ言っているかもしれないけど
まあ今日の言葉で言うのなら
無為自然の自然というのは神の御心ということだ。
大宇宙を貫く、そのあんたたちではもう習ったと思うけど
この大宇宙の中においても、自然の摂理においてものう
神の愛というものは法則というものは、どこまでもいきわたっている。

小さな虫けらにおいても、小さな水のひとしずくの中にも
神の法則と神の愛はぎっしり詰まっているということ。
そのことをね、あんたたちはもっと味わいなさい。

そして、あんたたちもその神様の光からつくられた
個性ある命として、魂として、かけがえのないものとして
その中にたっぷりと神様からいただいた愛というもの
光というもの、かけがえのない個性というもの
その命のきらめきというもの、美しさというもの
それをぎっしりといただいてあんたたちの身体はあるんだよ。

その人生があるんだよ。
それに気づいてごらん。
そしたら幸せになるのに多くのものはいらないんだよ。

多くのものを欲しがるから、あんたたちはそうやって戦争する。
多くの余分なものを欲しいからといってあくせくあくせく努力して
立身出世しようとして、苦しみの種をつくっている。

そんなものから解放されなさい。
そんな価値観から解放されなさい。
ありのままで、あるがままの姿で、大自然の神様の懐に抱かれていくこと。
そこにたどり着いたのなら
人生は実に楽しく美しく、かけがえのないものだということがわかるよ。
ほら、気づいてごらんと、わしはそういうことを言っておったんじゃ。
ただただそれだけじゃ。

幸せというのは、欲にかられ自我にかられ何かを獲得し
何かを所有するものじゃない。
そんなものじゃない。
幸せというのは心の中で、魂の中で幸せをかみしめること。
幸せを感じること。
それを幸せというんじゃ。

幸せを、何かを所有しようと、得ようとしようとするから
そこに立身出世の方法とか
その何かを得るための目標とかそういうくだらない
まあ、わしから見たらつまらない理由において
人生をあくせくあくせくとして不幸の種を、それが得られないからといって
結果的に人間は不幸だと愚痴り合うようになる。
「なら最初から、そんな目標なぞ持たねばいい。」
極論かもしれないけど、わしはそう言ったんじゃ。

「そんなものを持たなくても、魂を自由に解放していったのなら
自らの神の子としての部分がこんなにあふれて出てきて、
こんなに幸せなんじゃよ」と
わしはそういうふうにみんなに言っていた。

「頭のいかれた気違いジジイがまた、今日もあんなところでほえているわ」と
言われたかもしれん。
でもそんなものは誰が何と言おうと、わしには何も関係のないことだった。

ちょびっとばっかのお酒と、ちょっとばっかの釣りの道具を持って
それこそ自然の中で、山や川や月の美しさや、潮の満ち干や
川の流れに光が当たって、キラキラ反射するその光の美しさや
季節の中で自然の、緑が萌えあがるような若葉の美しさや、紅葉の時や
花々の四季の移り変わり、近くにいる子どもたちの笑顔
かわいく美しく育っていく近所の娘さんたちのかわいらしい顔、おしゃべり
人びとのさざめき合い、そういうものを脇でニコニコと見守っている。
それを幸せな風景として味わう。

「そんな人生でも、十分人生は幸せになれるんだよ」と
そういうことをわしは言いたかったんじゃ。
けっして努力目標を持たず、「努力をすることはバカげている」とか
「向上心を捨てろ」とか、「知識はくだらない」とか
そんなことを言った覚えはない。

「知識は持つなら持ってもいいけれども
知識というのは、たくさんの知識のとりこになってしまうと
自由な発想というものから縛られてしまって
魂がとっても不自由になってしまう。
そういうことがあるよ」と、わしは言っただけだ。

知識をつきつめて、ほんとうの意味で智慧となさず
「自らの神の子としての部分、神の子としての光、
神の子としてどういうふうに生きたらいいかというか、
素朴な純真な部分というものを、
純真な魂というものを失ってまでそんなものを詰め込む必要はあるのかね」と
わしは言ったんじゃ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-12 07:27 | 老子 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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