地球を愛の星へ

カテゴリ:墨子( 6 )

墨子からのメッセージ(6)

神理知識もしっかりと積め込んだあなた方に必要なのは
感性を通した、理屈を超えた、あなた方の人生の実践の姿の中に
あなた方の神の子としての、本来ある姿を現していく姿であるのだということ。
そのために神はあなた方の前に、女性エネルギーを与えられたのです。

女性エネルギーの中に包まれなさい。
一切、理屈を超えて、弱さを超えて
すべてをこの母性の中に受け止めてもらいなさい。

あなた方男性たちは
自己の優劣関係を競うがために、へとへとにくたびれているのです。
そんなくだらないこと、お母さんの目から見たら
とてもつまらないことなのです。

悪いことをしていたのならば
お尻を出してピシャピシャ打つのがお母さんでしょう。
お母さんが本気で涙を溜めながら、その子どものお尻を叩く。
それは、ほんとうに子どもが憎くて叩くのではないのです。
愛の中に、子どもをほんとうの意味で、本来の姿に戻すために
愛しているからこそ叩いていく。
それが母の愛であり、それが母性であるのです。
そこに優劣はない。
男性はすぐに優劣を知で考えます。

女性の愛の原理の中には、ただただ、圧倒的な受容性というのがあります。
どれだけ違おうと、何十人、何百人、何千人、何十億子どもがいようと
その子どもたちがどれだけ違おうと、どれだけ優劣があろうと
そのすべてをいとおしさの中で包んでいく、受け止めていく。

愛の中で、彼らすべての天命を果たさせるように励まし、激励し
そして、夢を、本人たちに夢を持たせるために
本人たち、一人ひとりの天命のために、よみがえっていくために
母の愛というものは、ときには厳しく、ときには優しく
子どもたちを包むのです。

これが女性原理なのです。
地球を貫く大地の中における、母親としての母性の原理なのです。
この原理が、この地球意識の中にもあるのです。

今の、この母としての母性の原理の中に、傷つき挫折し
もう万事休すの状態になった人類たちよ。
一度、この女性原理の中に自らを素直な形で投げ込んで
受け止めてもらいなさい。
そして、疲れを癒しなさい。
そして、あなた方自身の素晴らしい力を、もう一度よみがえった力で
母の愛の後押しの中でよみがえり
神の子としての本来の使命を果たすのです。

あなた方は素晴らしいエネルギーを持っている。
素晴らしい力を持っている。
でも、これは一度、母の愛により清められなくてはなりません。

無私な思いということ。
他者と自分を比べるのではなく
最大級の、受け入れていく受容性という中において
愛の中において清められていくということ。
神の前に、ただただ謙虚に、自らを投げ出していく姿ということ。
理屈を超えて、この女性の原理の中で
女性の姿の中で、学んでいきなさい。

知識というものが、いかに必要ではあったとしても
究極的には人を救い得ないのであるか。
自分はほんとうに知識は学んだけど、智慧ある者であるのかということ。
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何度でも言いましょう。
知識を、もう一度智慧にするには、愛ある実践行為の積み重ねなのです。
他者の痛みを分かち合う、ひとりでも自分の人生があるのならば
他者ひとりでもいいから、ひとりでもいいから幸せにしていきたいと願う
その心そのものが愛なのです。
自分を捨てる姿なのです。

自分を守って、自分だけが高みにいて、自分だけが傷つかず
自分だけは悪いことをしないで、他者に対して愛を説いても
誰もついて来ないということなのです。
自らの身を犠牲にし、自らの人生を投げ出し
あと先考えずに、それでも人類を愛する。

その究極の姿は、イエス・キリストのゴルゴタの丘にはりつけになった
その姿にあるのかもしれません。
けっして、みんなに十字架にかかる姿などはお勧めしないけれども
でも、十字架についたイエス・キリスト、ナザレのイエスの姿の中には
究極の愛の姿が現れているのです。

愛というものの中に自らを捨てて、人類すべてを愛していこうとする。
自分自身のすべてをさらけ出し、投げ出す姿をもって
神の愛というものを表現していこうとする。
そこまで究極的にいかなくては、愛というのは実践できないのかもしれない。
それを常に、アモールという生命体は、ご自分の人生の繰り返しの中で
愛というものを説く、その表現形としてこられたのです。

あなた方が別に、ゴルゴタの丘につけとは言いません。
でも、自己保身の中に愛はないということ。
愛というものが分かち合いであり、弱き者の痛みを感ずることであり
ひとりでも多くの人びとを幸せにする行為につながらなければ
愛というものをどれだけ説いてみたところでだめなのです。

神の愛というものが、宇宙の中で、多くの人びとを幸せにせんがために
太陽も無償の愛で光を捧げ尽くしてくれているのと同じで
わたくしたちは誰に評価されなくても、自らの内にある神性に報いるために
自ら神の子として、神の子であるということを実証するために
愛ある人生を生き抜いていきましょう。

理屈を超えて、愛というものを心の中にわき上がる情熱として、弱き者たちの
そして地球を生きる、生きとし生ける神の子、仲間たちとともに
この時代を共有し、分かち合い、ひとつの時代としての素晴らしき思い出として
この、これからくるユートピアを建設するために
愛というものを人類は学んでいきましょう。

そのために、あなた方がいるということ。
その一番の場所に、レムリアの方がたがおられるということ。
その中において、もう、ご自分たちの枠というもの
鎖というもの、かせというもの
自分が何宗の何であったというようなことも捨てて
多くの人びととともに、もう、地球教の中における愛の実践の使者であると
使徒であるというふうに思われ
あなた方の心に、人びとの心を自分の心として生きるような
分かち合いの愛ある姿が根づきますように。

それを、わたくしは
アモールと呼ばれている方の愛の根本理念を補足する意味ももちまして
今日、説明させていただきました。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-08-26 12:30 | 墨子 | Trackback | Comments(0)

墨子からのメッセージ(5)

まあ、世の中には結婚したくない人もいるでしょう。
だから、結婚をみんなしろというのではないのです。
マヌ様もおっしゃるように、お勧めであるということだけなのです。

結婚しないとしても、子どもがいないとしても
そこでいくらでも愛を学ぶ姿はあるのです。
日本ではあまりないかもしれないけれども
外国では結婚しなかった人が、結婚しても子どもがいなかった方たちが
たとえばベトナム戦争で孤児になった子どもたちを
ひじょうに多く引き取ったりしています。

「愛というのは基本的に分かち合いである」ということを
最初に申しました。
愛というのは、あふれんばかりの愛を他者に
ほかの者たちに、弱き者たちに
そして、待っている者たちに分け与えてこそ
愛というのは循環していくのです。
愛というものの本義が、分かち合い、ともに喜び合い
命を流し合うことが愛であるのならば
ともに神の子である命を分かち合って、共有し合って
ともに生きることを愛というのであるのならば
愛に閉塞感はないのです。
そして、あなた方ができることは
人生の中でいくらでもあるはずなのです。

考えてみてください。
いくらでもあるはずなのです。
やれるべき努力をしていますか。
愛を分かち合っていますか。
そして、自分の家族が、もし幸せであるのなら
自分の家族以外の者たちに幸せを分けてください。

仲間たちに、そして、まだ見ぬ戦地で苦しんでいる子どもたちに
その愛というものが流れ出ていったときに
あなた方は、ほんとうに神の愛が何であるかということを
学ぶことができるのです。

愛に実践はつきものなのです。
ひとり孤高の中において、愛の理念の中において
実践なき者に愛というものは語れないのです。
人びとはついて来ないのです。
そのことを学んでいただきたいと思います。

人びとの心の中で今、愛が明かされる時がきました。
神が愛の摂理であり、根本原理であるということを今、今回の人生の中で
今回の文明の終局の中で明かされる、恵まれた時代がきたのです。
その中において、あなた方は根本的な愛の摂理の中で
具体的にどう地上の中に生かしていくべきか。
そして、それはもっと言うのならば
個人個人の修行の総集編であるということなのです。

あなた方が仏教に、神道にそして、キリスト教に
数々の知を求めて神の道を求めて努力されてきた方がたも多いでしょう。
でも、それをすべての仏智というもの、パーニャパラミタを統合しながら
あなた方が、じゃあ、具体的に何をなせるか。
あなた方の隣人たちに、弱き者たちに
そして、感謝する同胞たちに対して何かできるかということ。
この肉体の身は、だてにあるのではないのです。

霊界にいるわたしたちとは違い
この物質界に肉体の手足というものを与えられて
この中において、愛の循環のひとつの中において
この地球を最終ユートピアにしていくために
あなた方は何がなせるだろうか。
そのことをほんとうの意味で
あなた方の人生の中で、真剣に向き合って生きていただきたいのです。

けっして自分自ら逃げてはなりません。
あなた方の人生の一コマーコマの中で、どのような時代の風を吹かせ
どのような愛の原理の中で、あなた方の身の回りから始まり
この時代を生きる多くの人びと、ひとりでも多くの者たちに
この神の愛の教えを伝えることができるか。
そのために、あなた方の人生は存在しているのだということ。
そのことを学んでいただきたいのです。

愛というのは、高度な理念だけで終わるのではないのです。
高度な理念が打ち出される必要はあるのです。
高度な理念が出る、やっと時代がきたということを
わたくしは先ほども申しました。
でも、高度な理念が降ろされた中で
まず、地に足をつけた生きざまの中で
愛というものを具体的にどう生きるべきか。
選択肢の連続が人生であるのです。

結婚する、しない、どうでもいいことかもしれない。
それは、その人が決めることであるかもしれない。
でも今世、過去世聖職者であった者たちが地上に出る時
我々は天上界で言い渡してあるはずなのです。
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「今世は在家の法である」と。
「今世地上に出て、できる限りの経験を積んでいらっしゃい」と
「愛を学んでいらっしゃい」と
「愛を表現するすべてを学んでいらっしゃい」と、言っていたはずなのです。

ですから、それは完璧にすべてを学ぶということではない。
一人ひとりに応じた学び方でよいのです。
学びながら、そこで学んだ愛というものを、経験というものを通して
神の使者としての愛の表現の
愛の循環の中にその身を置いていただきたいということなのです。

愛というのは、最も小さき者の心の痛みを分かち合うことかもしれません。
どれだけ立派な理論を言っていても、脇で苦しんで、心の傷と
そして、飢えて死にそうになっている者を見捨てて
あなた方はほんとうにその人が愛ある人だと言えるでしょうか。

身近にいる隣人たちに愛を分かち合ってこそ
あなた方はほんとうに愛というものを語る資格がある。
愛には、実践が常につきものであるということ。
そのことを学ぶ時代がきたのなら
もう、頭の中にいっぱい積め込んだ知識を
愛という教えの中で
せっかく学んだ神理知識を学問にしてはなりません。

知識が学問になっていったときに、信仰は死ぬのです。
哲学にしてはなりません。
知識にしてはなりません。
神が求めるものは、難しい難解な神理知識や、学問や哲学ではないのです。

仏教は、仏教哲学になったときに、仏陀の心は死にました。
インマヌエル、イエス・キリストの
ナザレのイエスの言葉は、易しいものであったのです。
それが、中世のスコラ哲学を通して哲学になっていったとき
中世の、暗黒の闇の時代が訪れていったのです。
イエスの心が見失われたのです。
それを学ばなくてはいけません。

今、天上界からの智慧の、神の愛と
その愛ある教えの根本理念が降りているときに
それを学問化し、哲学化し、知の塊に、権化にしてはなりません。
神が望んでおられることは、愛にもとづく信仰心なのです。
信仰心に理屈はいらない。
正しい知識は必要なのです。

ありとあらゆる知識、正しい認識力が大事だから、知識を与えられている。
認識力のもとに、あなた方が正しい愛を実践できるものにするために
あなた方に神理の知識が与えられたのです。
その神理知識を使って学問にしたり
神理知識を使って哲学にしてしまうのであるのならば
神は、そんなことしなければよかったと、後悔なさられることでしょう。

あなた方は、自らの内側にある、愛の本源のエネルギーに出会うのです。
その愛というものは、けっして難解なものではなく
ささやかな、何度でも言います
ささやかな日常の積み重ねの中に見いだせる
愛の摂理、愛の根本原理を発見する旅であるのです。

それは実践の中で、経験の中で見いだされていくものであって
けっして書物の中に見いだされるものではない。
人生をかけて、体を張って、体全体で学ぶものなのです。
そのことを今、あなた方は問われているということ。

十分、知性は学びました。
十分、科学的なものは学んできたのです。
最後、統合するには感性というものが必要なのです。
それが、愛の中において必要不可欠なものであり
愛の中における寛容さというものを生んでいくのです。

自分と違うものを認め合うという姿。
けっして、自分と同じである必要は
みんなが同じである必要はどこもないということ。
その寛容さの中で
人びとはほんとうの意味での愛の本義に出会っていくのです。
そうでなければ、知で描いただけの愛の原理など
何の意味があるでしょうか。
現に、再誕した仏陀すら、救い得なかったということなのです。
知に偏りすぎたことが失敗の原因でもありました。
そうであるのならば、あなた方はどうか悟ってほしい。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-07-25 09:16 | 墨子 | Trackback | Comments(0)

墨子からのメッセージ(4)

今回は知というもの、知性というものを通して神理の究極を学び
そして科学の水準の究極をもって、信仰と知性というもの
科学技術というものが統合され、次の段階に行くという
そのようなひじょうに高度な課題を持った文明でありました。

でも、あなた方に理解してほしいのは
何よりも知と知性から入ってきたことにより
あなた方の魂の中において、頭でっかちになり
あなた方の人生の中で、知でしか判断できないような
通路がつくられてしまっているということ。
そのようなものを埋め合わすには
もう一度豊かな感受性というものを呼び戻さなくてはなりません。

その時に、男性原理の中に
知性、理性というものから悟りたいという衝動があり
そして、それが第一、第二の計画を挫折させていった原因でもあるのです。
その時に今、あなた方の目の前に現わされ
そして、与えられたのが何であるかというと
知性とか、理性とかいうことを超えた中で
女性原理における母性というものを通したものがあなた方に与えられたのです。

あなた方は、この意味がわかるだろうか。
母性というものは、理屈を超えているのです。
人類すべてに対して、どれだけ正しいとか正しくないとか
どれだけ我が子が優秀であるとか優秀でないとか
そんなものにこだわって母親が子どもを愛するでしょうか。

たとえ、どんなに障害を持っていたとしても
どんなに才能がなかったとしても、どれだけ非行に走ったとしても
そのすべてをくるんで、その胸の中で包むのが母性であり
母親の思いなのです。

あなた方は、知性で今回の文明をつくり、おおかた失敗してきているのです。
知だけで法を取ろうとして、愛が法の大事な
愛が神の根本原理であるということを聞きながらも
まだ魂の中で愛というものを理解できていない。

その時に一度、そのようにガチガチに積み上げてしまった
ヘルメットのような知の鎧を外しなさい。
知のヘルメットを外しなさい。
そして、この母なる者の胸に抱かれてみよと、抱きしめられてみよと

母性は、母親は何も裁かない。
何もランクづけしない。
すべてを超えて、その愛の中で、いとおしさの中で
すべての者たちを抱き、育み
そして、励まして、それぞれの魂の本来の姿に戻し
夢をもう一度見させるために
励まして送り出すのが母親たちの姿なのです。

その愛の姿というもの、そこにもう一度、あなた方は学びなさいということ。
それがゆえに、今回、女性原理の意味で
女性の指導者が立つたという意味があるのです。

ここまでくるには、やはり男性が本来、指導者として悟れるのなら
それは問題ないことだったのです。
でも、やはり男性原理優先で、知で凝り固まり
それがゆえに、我こそが、我こそがと思い
男性同士がせめぎ合う中で裁き合い
自らこそが正しいと思い合う中で失敗していったのが
数々の人類の、歴史上の悲劇を生んでいるのです。

以前にも申しました。
サタンをサタンと言って裁くのはたやすいこと。
でも、それをサタンとして裁き、魔として裁くその心は
それは、けっして神の本来の姿ではないということ。

神の心の中には、菩薩界、如来界の行たちの中には
あのミカエル大天使の気持ちの中にも、彼ら、魔と戦いながらも
魔であると言いつつ、魔と思っていない。
自分の最もいとおしい者が帰って来るときを待っている。
自分の仲間たちが帰って来るときを
ひたすら抱きしめるときを待っているという
そこには、彼らの中には裁きの気持ちはないのです。

魔であるというのは
地下の者たちが天上界の天使たちのことを言う時に、「魔だ」と言うのです。
あなた方も「魔だ」と言われて、随分嫌なことを言われているかもしれない。
あなた方は言ってはなりません。
彼らを裁いてはなりません。
彼らを受け入れていく、寛容な広い、広い愛ある姿こそ
その姿勢こそが、あなた方が神の使徒であるということを
唯一証明するものなのです。

魔は、常に光の天使を魔と言うのです。
でも、光の天使は、けっして魔のことを魔とは言いません。
「我が友」と言います。
「我が友よ、早く帰って来てくれ」と言うのです。

あなた方の心の姿を見て
人びとはどちらが神の使者であるかを学んでいくのです。
愛とは何であるか。
それは、実践する姿を通して愛というものは表現されるのです。
いかに頭でっかちの知識を、いくら詰め込んだとしても
九次元の知識を一生懸命、勉強したとしても、知識はしょせん知識なのです。
知識というのは、本来が愛ある実践を通してしか智慧にはなりません。
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なぜ、この人が智慧の女神と言われるのですか。
なぜ、この人が智慧ある者と言われているのですか。
一見、知識だけで見たら
お坊さんたちのほうがたくさん知っているかもしれない。
でもそこに、愛ある経験知が足りていないということ。
実践を通して、その知識をどう使ったら愛に結びつくか
愛に結びつくとは、神のみ心に近づくかということを
実践の理念の中で学んでいない者たちが多いから
神は智慧の女神をあなた方に授けられたのです。

智慧というのは、やたらと知識を知っていることではありません。
神のみ心をほんとうに体現する、その知識と
その実践方法を知っている者のみが「智慧ある者」と言われるのです。

知識ある者と言われていくのは、六次元神界の者たちです。
智慧ある者と言われるのは七次元。
七次元は愛ある者です。
八次元以降の者たちが
ほんとうの意味で知識と愛というものを合体させていった姿であるのです。
ちゃんと神はそのように考えて、修行の過程を与えられているのです。

七次元の菩薩界、八次元の如来界と呼ばれているところに
自らが高い世界に行きたいと、自分が菩薩になりたい
如来になりたいと思って精進している者はいないのです。

そこにはもう、ただただ、あふれんばかりの神に対する感謝の思いと
少しでも我が愛する仲間たちに、神の子たちに、いかにしたら役に立てるか
どのようにしたら愛を分かち合うことができるか
我が友の苦しみを、涙をどのようにしたら少しでも減らすことができるか
我が人生の中において、ひとつの言葉でも、ひとつの行動においても
何か我が仲間たちのためになすことができぬかと、体を張って
そのように苦しみや、思い悩み、自らの人生の中で
そのような工夫努力をした者たちこそが、その上に上がっていくものなのです。

そこに、我こそはもっと上に上がりたい、我こそは菩薩界に行きたい
我こそは如来界に行きたい、などと思っている者たちの中には
けっして菩薩界、如来界には行けないのです。
我こそは上に上がりたいという思いが
他者を救いたいという思いより勝るから
狭い世界に入りながら自らを偉しとし
知というもので鎧武装していくのです。

たとえ、それが愛を語ろうとも、自らの心の内を見るのならば
自分が傷ついても、多くの人びとのために踏み出ていきましたか。
自分が、たとえどんなに不利なことがあろうと、時間を取られようと
お金をなくそうと、肉体が疲弊しようと
自分の同胞のために汗水たらしましたか。
どれだけのことができましたか。

夢や希望はあったとしても、今世、レムリアが抱えているほどの
大きな、大きな神の理想はないのです。
夢はないのです。
大計画であるのです。

その中で、自分の人生、過去世を通し、過去世、幾転生の中を通して
どれだけのものを学び、どれだけのものを実証し、どれだけのものをもって
今世、多くの人びとを救い得る
そのような、ひとつのよすがをこの地上に呈示することができたか。
そのことだけをもって、今世、あなた方自身が問われているのです。

地上の中で、しっかりと地に足をつけながら、でも、それでいながら
心は愛ある神の子としての実践をどれだけすることができたか。
愛というものが、けっして絵に描いた餅ではなくて
棚ぼた式に人から与えられるものでもなく、与えられることより
与えることの中に愛というものの本来の意味があるということを
生きざまを通して、ささやかな人生の中で、当たり前の人生の積み重ねの中で
実践してみせた者だけが、愛というものを語る資格があるのです。
神の使者なのです。

マザー・テレサの生涯を
マザー・テレサがノーベル平和賞を取ったあとの姿を
ハンセン病というものを、患者たちを救ったとか
そういうものだけを取り上げて美辞麗句で飾ってはなりません。
彼女がそこに至るまでどれだけ無名の中で、お金がない中で必死で生きて
弱き者たちの味方になって、神の代弁者として、神とともにあるという中で
インドの人びとたちの中に神の姿を、キリストの姿を見ながら
彼女がどんな思いで誰にも認められず、いろいろな物を投げつけられながら
彼女が努力をしていた姿を知っているだろうか。

今日、成功して、無心であったが評価を求めない
ほんとうに弱者の味方として
命がけで生涯を駆け抜けた彼女の姿があったからこそ
結果的に晩年になって、それがノーベル平和賞に結びついただけなのです。

彼女はひとつも自分に対する評価を
自分に対する物質的な豊かさも、美辞麗句も求めなかったのです。
それがゆえに、彼女は最終的に、そのような称賛の中に包まれたのです。

でも、称賛に包まれた彼女の姿を見て、愛とはああいうものだと
型通りのことをするのであるのならば
それは間違った姿であるということなのです。
今、たとえ誰からも認められないとしても
自分の人生をかけて、地に足のついた姿として愛を学び
そして、学んだものを実践することをもって
神の使徒の第一歩が始まるのだということなのです。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-07-17 12:18 | 墨子 | Trackback(1) | Comments(0)

墨子からのメッセージ(3)

あなた方の中に、寛容さというと、びっくりされる方がおられるかもしれない。
でも、「こうあるべし」という
ひとつの中に凝り固まったものは、寛容さを失うのです。

今、世界の宗教を見てご覧なさい。
キリスト教圏であるならばキリスト教圏として、イスラムの者たちに対して
魔である、悪であると、自分たちこそ正義であると思う。

イスラムはイスラムで
自分たちこそアラーの名のもとに、自分たちこそ正義であると思う。
キリスト教圏の者たちを悪だと思う。

そのようなことのせめぎ合い。
キリスト教とユダヤ教のぶつかり合い。
それも、やはり自分たちこそが正義であるということのぶつかり合い。
そのように、自分こそが正しいと思い他者を裁く姿、他者を悪だと思う心
そこに愛がほんとうにあるであろうか。

宗教というものをあれだけ学んで、信仰というものを学んでいる者たちにとって
なぜ、あのような見苦しい戦いが、普通の一般の者たちよりあるのかというと
そこには寛容さというものが欠けているからなのです。

自分の理解できないものを受け入れていく。
それが、ほんとうの愛ある姿であると、成長していく。
そして、この人類の最終ユートピアをつくる、統合されるべき時代に
今までの自分では考えられないようなことが
すべて明かされてくる時代であるということをもう学んでいるはずなのに
自分がやはり理解できないものに対しては不寛容になり
そして魔であるという安直な結論をつけていくという
そのような浅い理解でもって、どうしてユートピアなど建設できようか。
愛というものをこの地上に実践していくことがかなうだろうか。

まず日常の中において、仲間を、自分の愛する家族を、友人を
そして、地域にいる者たちを
そこにほんとうの意味で根ざした愛の中で生活を生きることによって
最終的に地球をユートピアにすることができるのです。
人類を愛することができるのです。

ほんとうの意味で愛というものが
逆に言うと自分の知らない者たち、自分の周りにいる者たちにより
自分の欠点を赦していただく、そのような関係、そのような旅路が
ほんとうの愛ある人生航路の大事な道しるべであるということを
ほんとうに学んだのならば
人びとは自分の価値観以外の者に対しても
寛容であることができるはずなのです。

でも、自分でこうあるべしと決めてしまった
イスラムならイスラムの教え、キリスト教圏ならキリスト教圏の教え
ユダヤ教ならユダヤ教の教えの中で
皆がそこから、不寛容さの中から出てこないから、人びとは傷つけ合っている。
これが最終的な、今のこの地球の現状であるのです。

それは今の、あなた方のグループの中においても
過去のグループの中に、救世の運動の団体においても同じなのです。
正しいと思うからこそ命がけなのはわかります。
でも、自分の理解を超えたものに対しては謙虚になるという寛容さがあれば
自分のわからない者たちに対して一歩引いて、その者を受け入れるという
愛ある寛容さを示すことができるはずなのです。

キリスト教が間違っているわけではありません。
キリスト教の者たちは、キリスト教の者たちで素晴らしいのです。
イスラムの者たちは、イスラムの者たちで素晴らしいのです。
仏教系の者たちは、仏教系の者たちで素晴らしいのです。
ユダヤ教の者たちは、ユダヤ教の者たちで
それなりに素晴らしい教えを生きているのです。

そして、それ以外の数々の日本神道にしても、いろいろな宗教があります。
そして、信仰というものを謳ってない者たちもおります。
でも、その者たちもすべてをくるんで、神の子であるということ。
神の表現体の一部であるということ。
その多様性を受け入れるということ。
その多様性が今、最終的に地球の上ですべてが明かされ
人びとの中に呈示された時代であるということ。
すべてを統合していく時代であるということ。
そのことをもって、今世の文明の終局を迎えているのです。

それを、我々が人類皆家族であるということ。
多様性を、違いをお互いに認め合い、赦し合い、受け入れ合い
逆に受け入れ合うことにより
自らの進歩発展を促すような、お互いに刺激としていく。
お互いに愛ある成長の過程として、お互いに受け入れ合っていくということ。
その姿があってこそ、一歩、高等な
次のステップにいける人類となれることができるのです。
その寛容さがないから、「謙虚さ、謙虚さ」と口で言いながら
ほんとうの意味で謙虚さのない者たちが多い。

遂に言うと、今まで神職にあった者たちのほうが
実生活の実践というものを通していないから
あなた方の中に、愛というものがどれだけ互いに赦し合って
そして、その中で逃げ出すことなく、互いにいつまでもその襖の中で時を重ねる
責任を持ち合うということ、守り合うということ。
愛というものがそういうものである、情愛を込めているものであるということを
基本的に学んでいないから
あなた方はそういう、人びとに対する愛というものを通した寛容さというものを
学べなかったのかもしれない。

自分たちが常に神の代弁者であり、法の権威者であるというような
そのような裁くような立場でいたのならば
いつまでたっても宗教を超えた愛ある統合というものが
地球レベルで行われるなどということはできないのである。
あなた方が愛というものを語れば語るほど、信仰というものを語れば語るほど
その言葉はうつろな響きを漂わせる。

愛という中には、けっして見捨てぬこと
お互いに、お互いの命を受け止め合うこと
つらい時に逃げ出さないこと、相手が苦しんでいるときに
励まし合い、慰め合い、受け止め合い、分かち合うこと
それが愛の根本であるということ。
それを学んでいない。
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家族はどうであろうか。
たとえば、夫婦はどうであろうか。
どれだけ少々、相性が悪かろうと、どのような問題があっても
夫婦というのは手と手を取り合いながら乗り越えていくもの。
ひょっとしたら、ほかにもいい異性がいるかもしれないと思ったとしても
そこに子どもなどがいれば
この相手といっしょになんとか乗り切っていかなくてはいけないと思って
そこから逃げ出せない環境の中で
二人で必死に悲しい思い出を共有しながら、つらい思い出を乗り越えながら
ともに思い出として、人生の素晴らしい瞬間として、二人して時を重ねていく。
そのようなものが、愛ある実践の姿であるということ。

そして、そこに生まれた希望を通して
次の世代に夢をつないでいくということ。
励まし合い、慰め合い
そして、お互いに人類の将来に、未来に対して希望をつないでいく。
そのような基本的な、基本的なこと。
そして、愛する者を守るという責任感。
愛されることの喜び。
守られることの幸せ。
そういうことを学ぶのが結婚生活なのです。

そこから逃げないということ。
受け止め合うということ。
責任を持つということ。
そこに、ほんとうの意味での愛の尊さがあるということ。
そして、自分でこうあるべしと思った姿に
相手がない場合が多いのが結婚生活なのです。

わたくしもそう思いました。
そして、パートナーだけではなくて、配偶者だけではなく
子どもたちにおいても数々いれば
自分とは全く違う個性体が出てくるということ。
それを受け止め合い、ともに生活をしながら、彼らを守っていきたい
いとおしいと理屈を超えて学んでいく。
その生活の積み重ねの中で、自分がまた、そこの彼らの存在を通して
未来に対する希望を、夢を見ていったということ。
それがまた、子どもを持つ素晴らしさでもあるのではないかと
わたくしは思うのです。

そこの事実、その絶え間ない、当たり前の生活の積み重ね。
けっして、特別なことだけが愛ある生活ではない。
けっして、特別なことをすることが、愛の理念の中で
「素晴らしい聖者」と呼ばれるものではない。
日常に密着した当たり前の生活の繰り返し、特別なことではない
当たり前の生活の行為の積み重ねの中で、責任を持ち、いたわり合い
ともにひとつの時の中で、同じ時を、同じ場を共有し合って、励まし合って
夢を持ち合って、ひとつのグループの中で、ひとつの理念の中で
ともにその永遠の時の流れの中の一瞬を共有し合うという
その素晴らしさの中で、ひとつの共通の思い出をつくった。
その喜び、感謝、それが家庭生活の原点であるのです。

他人であるのならば、嫌なら逃げ出せばいいのです。
関わり合わなければいいのです。
ちょっとトラブルがあれば、逃げ出せばいいのです。
でも、そういうわけにはいかないのが家族なのです。
そこの中で向きあい、ひとりの男と女が、とことん愛というものを学ぶために
逃げ出さない中で、お互いを磨き合い、受け止め合い
愛の本質というものを学ぶのです。

この間、マヌ様がおっしゃられていたように、愛の究極の中には
自分の魂のパートナーと出会うということをおっしゃられていました。
でも、そこに至るには
まず究極の悟りの中で、神の子としての自らの修行があり
愛というもの、男性原理、女性原理として、しっかり神の子として
どういうふうに愛というものを生きるべきかという悟りがなくして
最終的なパートナーに巡り会えないということを
神はちゃんと摂理の中でおつくりになっておられるのです。

まず、進歩発展せよ。
成長せよ。
自己を研鐙せよ。
今、地球はその段階にあります。

永遠のパートナーに巡り会う者は、ほとんどわずかな者なのです。
でも、永遠のパートナーでなかったとしても
この大きな大きな永遠の大河という時間の流れの中で
ほんの一瞬の、数十年の肉体を待ったこのドラマの中で
ともに同じ空間を、同じ時を生きて、自分という者を受け止め、赦して
分かち合って生きてくれるという相手に対して
絶対的な感謝といとおしさを感じる。
それをほんとうの意味で、自分の中で学ぶことができる。
そのような体験を積み重ねるために、この地上の生はあるのだということ。

愛というものは、頭だけで、理念だけで学ぶのであるのならば
我々の世界にいても、天上界にいても学ぶことはできるのです。
でもこれを、愛ある実践の姿
生きざまの一コマ一コマの中で生きてみせるという
生き抜いてみせるということをもって
その者にとってほんとうに愛というものを理解していたのか
実践していたのかという、実践できるのかという、そこが問われるのです。

そして、人びとは、ほんとうの意味で愛ある実践を伴った者に
そういう者にしか人はついてこないのです。
それは、その者の言霊、生きざまを通して
ほんとうにこの者が指導者として
この者のあとをついて行っていいものなのか
人びとはちゃんとハートで見抜いているのです。
そして、指導者になりたいと言って指導者になれるものではなく
指導者の資格を持った者でなければ指導者にはなれないということ。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-07-10 12:52 | 墨子 | Trackback | Comments(0)

墨子からのメッセージ(2)

愛の中には寛容さというものがあります。
己自身がほんとうに謙虚であるのならば
100%完璧な人などこの宇宙どこを探してもいないのです。

でも、良いところも悪いところも含めて、宇宙を統べる神に赦されている。
そうやって、お互いに神の子同士も赦し合って
大いなる神に赦されて生きていく。
向上していく。
進歩していく。
発展していく。
そこに愛の希望があるのです。

あなた方はそのように、自分自身の欠点も、長所も
悪いところも、良いところも、すべてをさらけ出して
互いに赦し合って時を重ねて生きていくということが
ほんとうに理解するために、理念だけではないということを理解するために
この地上に肉体を持つのです。

永遠の時の流れから見たのならば、この肉体を持つ時などは
ほんとうにトータルしてもわずかな時なのです。
あなた方の大半は、天上界にいることのほうが長いのです。
でも、この地上で肉体を持っているということ、そのことを思ったのならば
あなた方はこの地上での経験を無駄にしてはなりません。
地上は、自分の全人生をかけて愛を体現するところです。
愛が何であるかということを、体を張って学ぶべきところなのです。

でもね、理念だけを学ぶのなら天上界でもできるということです。
愛は理屈ではない。
いとおしいものを、いとおしいと思うときに、あなた方の中で
いとおしいものを全面的に受け入れていくという
そのような受け入れ体制というもの、あなた方の中の受容性というもの
寛容さというものを、あなた方が真に学び得たかということを
この地上体験の中で、あなた方が積み重ねるその経験というものを得るために
今世、肉体を持っているということ。

あなた方は、勘違いしてはなりません。
あなた方は六次元神界というところがあるのを
お坊さんたちはご存じでしょう。
知でもって悟りを求めるのです。
確かに、知というものがなければ、神理の知識の最低限のものがなければ
この永遠の魂というもの、転生輪廻というもの、神に抱かれ赦されている
我々の魂が進歩発展していく構造というものはわからないのです。

それを学ぶがために、各界のエキスパートと呼ばれている人たちが
自分たちの知をもって自らを精進する。
それが六次元神界と呼ばれているところなのです。

そして、その上にあるのが、六次元神界から阿羅漢という境地を通して
そのあとに七次元菩薩界というところにきます。
七次元菩薩界は愛を実践する場なのです。
理屈で学んだものを、一度、理屈を捨てて、愛というものを実践、体験の中で
あなた方が学ぶべき、そのような次元のことを七次元菩薩界といいます。

その時には理屈ではない、ただただ汗水を流し、愛というものを実践したこと
それによって体現し学んだもの、体を通して魂に刻んだもの
それだけが人びとの心の中に財産として蓄積される。
それが七次元の菩薩界というものなのです。

そして、それを超えて、そういうものを統合し、そういうものから自由になって
大いなる愛の中に自らの人生というものを、神理知識というものも含めて
大いなる人びとのために、神の子たちのために
自分の人生をどれだけ役立てることができるだろうかという悟りの中で
極めていったときに、如来界というのが出てくるのです。

多くの者たちが如来界を夢みます。
でも、多くの者たちがその悟りを、仏陀がおっしゃられた方法論により
精進して魂を発展させてきました。

でもね、わたくしが見ている限り
今回の文明においても、知から入っていったお坊さんたちは
どうしても自らを知というもので縛り、頭でっかちになり
自分たちは愛行、菩薩行をしているから
次は如来界だと思っておられるのかしれない。
でも、わたくしたちから見たのなら
いつまでたっても神界六次元から出られない状態にいるのかもしれない。

理念で人を救えるわけではないのです。
愛ある姿、愛ある寛容さ、愛ある思い、ささやかな思い
他者の痛みを我が痛みとして感じ、他者とともに汗を流す姿
そこには孤高なものはないのです。
こうあるべし、というものはないのです。

六次元でまず神理を学び、七次元で汗水をとことん流すこと。
人の犠牲となって生涯を捧げ尽くすことを神は要求されていたのです。
理屈が通らないということを、七次元を通った者たちはわかるのです。

ハンセン病患者のもとで一生懸命、汗水流して苦労して
人びとを救い続けた者たち
マザー・テレサにしても、昭憲皇太后のような方がたにおかれても
この地上を菩薩行で満たして、多くの人びとを救ってこられた方たちは
愛ある実践の姿の中に
理念だけの遊戯は何にも役に立たないということをすでに学ぶのです。
とことん学ぶのが七次元なのです。

でも、こうあるべし、仏陀こうあるべし。
イエス・キリストはこうおっしゃられた。
ユダヤ教でモーゼはこうおっしゃられた。
アラーは、マホメットはこうおっしゃられた。
そういう狭い神理知識の中で、我こうあるべしという
がんじがらめの知識に縛られているうちは
あなた方は七次元に真に上がっていないということ。
七次元の、その菩薩行の極致まで行っていないということ。

でも、今世見ていても、あなた方でなくても
その前にいろいろな団体を見ていても
まるで仏陀から、エル・ランティから聞いたから
まるで自らが九次元に上がっていけるかのような
錯覚をおこしている者たちが多い。
でも、それは違う。
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自らの心の悟りを見ていったときに
あなた方は自分の心がいかにお粗末なものであったか
そして、悟りというものはどれだけ素晴らしい先生から
素晴らしい知識を聞いたからといって、借り受けたからといって
それが少しも自分の魂の実力とは無縁のものであるということを知りなさい。

知識だけを自分の体の中に入れて、そして、ほんとうの意味で
体の中で愛による寛容さというものを学んでいないのならば
愛を実践することができないのであるのならば
その先の如来界ヘ上っていくなどということは
とてもとても無理であるということ。
そのことを学ばねばなりません。

特に今回、墨衣を着た人たちの中に
あなた方ほどの方がたであったとしても、こうあるべしというものに
まだまだ縛られているということ。
それをミカエル、エリヤ様は、そしてマヌ様も、あなた方のその鎖を取ろうと
なるべく魂を自由にされようとしておられたのです。

その問いかけがわからず、自分たちの判断がつかないと
今度、自分たちの判断がつかないものをもって
安直に魔であるという、そのような表現が出てくるということからして
愛が基本的に寛容さにあるという
赦しというもの、自分の理解のできないものに対して
謙虚になり寛容さを持つという、そのような柔軟性がないということ。

自分たちは今まで間違いなくきたのだから
仏陀がこうおっしゃられたのだから
イエスがこうおっしゃられたのだから間違いないはずであると
またそこに縛られてしまう。
「そのような魂であっては、今世の法の極みを
この世に呈示することはできないのである」ということを
神はおっしゃられているのであると思う。

愛という中には理不尽な要素がある。
それは、知だけですべてを、物事を見ようとするから
あなた方は理不尽であると思うのです。

今回の文明が知から入ってきている、理性から入り過ぎている
いや、知性に、頭でっかちなところから入ってきているからこそ
数々の挫折があったということを学んでいるはずであるのに
やはり知でしか判断できない。
感性というもの、悟性というもの、そのようなものを通して
魂で見分けるという愛行ができなくてはなりません。

理屈を超えて
ほんとうにこれが自分を生かし、他者を生かす智慧になるのではないか。
そのように考えるような謙虚さというもの
縛りのない柔軟さというものがなければ
とてもとても、このレムリアに居続けることはできないのです。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-07-04 07:53 | 墨子 | Trackback | Comments(0)

墨子からのメッセージ

あなた方に、申し上げておきたいことがあります。
今回、アモールから愛の根本理念について
そして、マヌ神より前回、男女の法についての、愛の表れの根本原理について
あなた方は学ばれたわけです。

あの方がたは九次元と呼ばれる方がたでありますので
神の摂理について、根本理念について話すのが、その役割であるのです。
逆に申しますと、根本理念を聞ける時代が、今、やっと到来したということ
そういう時代にあなた方は生きておられるのだということを
かみしめていただきたいということです。

わたくしは、アモールと呼ばれる
あなた方でいちばんよく知っておられるのなら
ナザレのイエスという者と同じ生命体なのです。
そこは、愛の霊団と申しまして、愛を通して人びとに法を語る
そういうグループであります。
その中から今、レムリアにもそのメンバーが行っているようなので
わたくしはその者を指導霊として見守りながら、今まできていたのです。

あなた方の中で、愛というと
ナザレのイエスの愛がすべてと思われるかもしれない。
でも、わたくしはナザレのイエスの生命体でありながら
九次元のナザレのイエスがなし得ない、愛の具体論について
民衆とともに生き、民衆の中で
愛というものがいかに実践されるべきであるかということを伝えたいがために
このような役割を持ち、出ていった魂であるのです。

あなた方の中に、どうしても、学んだ魂の本体分身論というものがあって
五人一組とかそういうものがあるかもしれないけれども
エネルギー体としては、もとはひとつであるということ。
上に行けば行くほど
エネルギー体はいくらにでも分解していくのであるということ。

逆に言うと、アモール、イエス・キリストという者
アガシャーと呼ばれている者
それは、わたくしにしても同じ生命体であって、エネルギー体であって
その中において愛を表現する上で、自分の立場を離れて
別の立場で愛を説きたいと思うときに
自分の中からエネルギーを分化させて
ひとつの個性体を生み出す。
それが、わたくしのような者であるということなのです。

春秋戦国時代という戦乱の時代に、わたくしはあの時代に
ひじょうに多くの人びとに、戦乱の中で傷つきながらも
愛というものが人びとの心をどう潤していけるのかという
彼らとともに汗をかき、涙を流し、ともに戦いながら
愛というものが具体的にどのように地上に表されるべきかということを
ひとつの思想と実践というものを通して
あの中国時代に表した、そういう魂であったのです。

あの時代は、多くの人びとが、多くの思想が花を開き
ひとつの文化圏をつくっておりました。
思想の高みをつくっていたのです。
ある意味で言うと、以前も申しましたけれども
今日的な大ルネッサンス、精神的な革命を起こす
思想的な極みが多々出た、そういう思想の
中国文明における思想の頂点に立つような、そのような時代であったのです。

孔子、孟子、荘子、老子、わたくし、いろいろな者たちが出て
諸氏百家というあの時代における文化の頂点を、思想の頂点をつくり
それが今日まで流れてきているのです。

その中において、社会の具体的な改革論として
孔子はこの地上天国をつくる政治機構を含めた上での改革というものを
常に考えられる方でありました。
その中でわたくしは、そのようなものを補うためにも
人びとの心に安らぎといたわりという、寛容さという
愛というものを伝える
そのような霊系団から、人びとを戦乱の時代に潤すために
弱き者の味方となってともに生きるために
わたくしはあの時代に命を持ったのです。

それがわたくしの生涯でした。
そして今、時代は移り、今の日本を迎えているのです。

あなた方は、どういうふうにとらえておられるか知らないけれども
今の時代は、わたくしたちのあの中国の時代、思想的な極み、大転換期
中世で言うイタリア・ルネッサンス、ギリシャの時代、かつての時代
繁栄していた時代にも匹敵するような思想の極みが
天上界の思想とともに流れ込んで、ひとつの人類の思想の
大文化圏の切り換え時期になっているということ。
その時代をあなた方は生きておられるのだという認識を
持たれなくてはいけないのです。

前回もそのことを申し上げたはずなのですが
ほんとうの意味で肺に落ちておられる方は少なかった。
あなた方は、愛というものを、イエス・キリストが説いた愛というものから
イエス・キリスト、ナザレのイエス・キリストが説いた愛を発展させたのが
前回、聞いたアモールという
わたくしたちの本体エネルギーからきた愛の摂理
宇宙の摂理を明かした愛の理念であったのです。

わたくしたちの時代、今から二千数百年前の中国の時代
そして、ナザレのイエスが出た二千年前の時代からみたのなら
はるかに進んだ認識の中で今、初めてアモールが法を説く
愛の理念を説ける段階にきたということ。
そのことをもって
それが聞ける人類になったということに感謝を持たねばなりません。

そして、それが理解できるあなた方であるからこそ、次に愛の中における
先日、聞いていたマヌと呼ばれている方の
愛の理論という、男女の法というものが明かされたのです。

あれは、以前の時代に明かすならば
いたずらな退廃的な文化を生み、誤解され
宗教の分裂を起こすだけにすぎなかったものが
今や、やっとそれを受け入れられる高度な認識力の中で
あなた方に明かされる。

そして、新しいようでありながら、いにしえの時より宇宙を貫いている
根本原理であったということ。
陰陽における根本的な理念。
それが今、人類に呈示された。
そういう時代であるということなのです。

それをあなた方が受け入れようと受け入れまいと
それは事実として、永遠不変の久遠の神理として
この宇宙を貫いているものであるのです。
それを明かされたのです。

九次元と呼ばれている、あのおふた方から出された根本法というもの
それは人類に対する恵みであり
そして、それを人類は時をかけながら理解していくのでありましょう。

わたくしの役目と申しますのは、あのような根本理念としての
アモールやマヌ神が説かれたものを、具体的な日常の中において
愛というものは何であるかということを、それを説明することにあります。

ナザレのイエスが語ったときにおいても
彼は根本的な愛の理念については説きましたけれども
やはり具体的な日常に密着した
生活に密着した愛というものを説くというのには
あまりにも時は短く
そして、彼の役割ではなかったということをもって説かれていないのです。
それをわたくしは、今回、明かすために、今日、参りました。
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愛というのは宗教の中において普遍的な神理であり
もっとも、神の存在そのものが愛のエネルギーであるということを
あなた方は学んでおられるはずなのです。
でも、愛というものは何でしょうか。

神の摂理そのものであり、神の子の、わたしたちの胸の中に流れ込んでくる
脈々としたその思いであり、エネルギーでもあります。
それを、いざ日常の中に降ろしたときに
あなた方はどのように愛というものをとらえられるか。

それは高橋信次といわれる方が、いや、ほかの方がたが
いろいろ語られておられることでしょうが
わたくしが、今回、あなた方に申し上げたいのは
愛というものは基本的には分かち合いであるということ。
分かち合いという開かれた心を持たねば、愛というものは流れ出ないし
他者からの愛も流れ込まないものであるということ。
その基本的なことを押さえてほしいと思うのです。

愛というのは、どれだけ高まいな理論のもとで固めたとしても
愛というのはささやかな当たり前の人生の中の、愛する人たちとの出会いの
ほんとうにささやかなことの積み重ねの中にある
ささやかな、ささやかな分かち合いの連続であるということなのです。
喜びも、悲しみも、苦しみも、それをお互いに分かち合っていく中で
愛というものを学ぶのです。

そこを学ぶときに、多くの出家者、宗教家という者たちは
今までの流れの中で、マヌ様がおっしゃられておりましたけれども
どうしても独身というものを通してくる中で、自分が神に近き者であり
神の代弁者として真実を説かねばならぬという懸命な思いの中で
家庭生活というもの、男女の出会いというものを拒否してきたがゆえに
ひじょうに頭でっかちな愛の理論というのが
宗教界の大半を占めてしまったということなのです。

でも、愛の基本は何であるか。
けっして難しい知識を頭に詰め込むことでもないし
けっしてそんなに高い悟りを求めるがために
自己中心的に生きることを悟りとは言わないのです。

弱き者、苦しむ者、脇にいる者
そして、最も愛する者、自分が守りたいと思う者
その、いとおしさを込めて、その者たちと人生をともに生きること。
その、悲しみも、喜びも、苦しみも込めて互いに分かち合って
愛を交換し合って生きていくこと。
そのことが、愛ある人生そのものなのです。

ささやかなことの積み重ね。
身近にいる者たちに対するいたわり。
寛容さ。
それの積み重ねが、ほんとうの愛ある人生なのです。

根本理念としての愛であると、それは宇宙のエネルギー体であると
神の子としてそうなのであると
我々は神の子であり愛の子であるということを
頭で知っていても、日常の中にあるものをほんとうの意味で愛せない
日常の中における分かち合いのないところに
ほんとうの意味での愛というものは、信仰というものは
究極にいうなら神というものは理解できないということなのです。

以前にわたくしは、結婚して子どもを生み
そして、守るべきものを持たなければ究極的に神はわからぬ
信仰はわからぬということを、まあ、極論ではありますが
申し上げたことがあったはずなのです。

それは何かと言うと、愛というものの中に
理屈を超えたドロドロとしたものがあるかもしれないけど
不条理なものがあるかもしれないけれども
それでも、いとおしさを込めて
愛という魔法の中で、その相手の存在すべてを
良きこと悪きことすべてを含めて受け入れ合い
そして、自分の欠点も長所もすべて相手に向けてさらけ出すことの中で
赦しを請いながら相手の前に立つ自分の姿というのがあります。

そのエネルギーの交換、そうやって真正面から向き合い
生きてお互いを受け止め合い、赦され合い、赦し合い生きる姿
そのことを愛というのです。
愛ある人生というのです。
それが肉体を持った者の姿であるのです。

存在の愛とか、永遠の愛とか、宇宙の根本の愛であると
そのようなことを頭で知って
そのようなものだけを自分の中で愛の姿であると思い
高みの中で、自分がけっして汗水流すことなく
愛というものを語ったとしても
それは少しも愛を実践したことにはならないのです。

わたくしは、アモールという本体エネルギーの中で
役割上、どうしても根本理念として
愛というものを語らねばならぬ立場にいる者でありました。
その中で、愛というものの特殊性から考えたときに
難しい高まいな理念や、哲学や、学問になってしまっては
愛の本義というものは少しも語ることはできない
人びとに愛の、愛するハートというものを、心から湧き上がるような愛の思い
それを伝えることができないと
中国の時代にあえてその時代をもって思想家として、ひとつの戦士として
人民とともに歩む者としての姿をもって生きたということなのです。

(2005.9.3 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-03-24 13:46 | 墨子 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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