地球を愛の星へ

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高橋信次からのメッセージ(41)

宇宙のエネルギーを引いてくる方法論ですか?

ああ、これもね、もう一歩いけば、さっきあなた方が話していたように
その大きな船団を率いて来たねえ、船長さんたちのように
宇宙エネルギーを操作して
宇宙の根源エネルギーと一体化するということができるようになるんですけど
今の地球人の段階において、やはり我々がね
今地球ルネッサンスを興すために
「まず神の子として、自らの心の中に神の子だということを自覚して
愛に満ちて生きていこう」ということを、まず言ってますよね。
これが入り口なんですよ。

宇宙の本質、大宇宙は圧倒的な愛に満ちたエネルギーがあるんですね。
そして、わたしたちはみんな、神の子でしょ?
だからそれは個別のエネルギー、個別の個性を与えられてはいるけれども
同じように個性あるエネルギー体が神の子として、自分たち自体が本来はね
みんな一体であるということを学んでいくんですよ。

ほかの人の痛み、悲しみ、苦しみがね
ほんとうは自分の痛みであるということ。
それこそマザー・テレサが言っていたように
「ほかの者たちの痛みが痛みとしてあるのではなく、わたしの痛みでもある」と
キリストが言っていたように。
そのような愛の境地にいったときにね、神の子というのは
ほんとうはみんなひとつにつながった神のお体の一部であるということ。
だから、みんなが一体化していったときに、その思いが持てたときに
私たちは自然に神の御心につながっていくんです。

そのキーワードは「愛」です。
それをまず、小学校レベルの地球人は学ぶために
今回のあなた方のね、仕事も、わたしの仕事もあるの。

そこのところをしっかりわきまえたのならば
自分のこと、自分のエゴのために欲のためにね、ほかの人たちを殺してもいい
戦争をしてもいいというそのような境地から、みんな同じ神の子なんだと。

宗教が違えど、民族が違えど、この地球の中において
いや、地球だけではない、宇宙においてもみんな同じ神の子で
ともに助け合うべき存在なのだということを
神のもとにひとつになっていく存在なんだということが
ほんとうに学べたのならば
その気持ちの中において、その思いの中において
「つながりたくない」と言ってもね
神の本質、神の子として神の本質的な愛のエネルギーに
我々はね、同質なものとして結びついていく。
昇華していく。
そういう境地が出るんです。

そうすると、今あなた方がね、たとえば、何度も何度も言われているけども
みんなこの人みたいに、霊言とりたいと思うでしょ。ねっ。
神の声が聞こえたらいいとか、みんな思うんでしょ。

でも、そんなテレパシーみたいなことが、一部の人だけに与えられてるとか
そんなんではなくて、そこのところのキーワードを超えたらね
みんな宇宙の友たちの声にしても、動植物にしても
霊天上界の我々の思いとかいうのも、自然にもっと体の中に入ってきて
受け止められるような状態になってくるんですよ。

だから、次の変化っていうのは
ひじょうに魂レベルにおいても、肉体レベルにおいても
ひじょうな大変化、激変をするという状態は
地球レベルにも起きてくるのね。
だから、そうなってきたらば
結びつきたくないといっても、思いにおいて神と同調できる。

知ってるでしょ?
波長同通の思いっていうの。
「神の思いにまず同通しなさい。
そうしたらば、波長同通の宇宙の法則において
あなた自身のエネルギーは神の根源の愛のエネルギーに同通し
直結していくんですよ」ということを
わたしたちは今易しい言葉で教えてるんです。
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どうしたら、わたしたちは神の根源的なエネルギーに同通できるでしょうか?

これについては、ひじょうに、こう、なんかサイキックなね
ものすごく超能力的なことの、なんかエネルギーのように思うけれども
まず地道な、我々が教えてきている
心を浄化して澄まして、神の子として、愛のエネルギーとして生きようと
他者の痛みのわかるような、そういう愛のエネルギーとして生きようという
その思いそのものが神に同調するエネルギーなの。

そうすると波長同通の理論で、大宇宙の神のエネルギーに同通していく。
そしたら、無限の叡智というもの、エネルギーというもの
可能性というものがね、大宇宙の神の叡智から、父なる神の叡智から
自分自らの叡智として引き寄せていくことができる。
そういうことなんだ。

だから、何か特別な修行がいるとか、特別な瞑想法をしなければダメとか
そういうことではないということ。
我々がしっかり、九次元が今回降ろしている地球レベルとして
地球の正法としてのね、教えというのは、ひじょうに易しい言葉に
わたしなんかが言うと特に
「なんだ、そんなことか」と言われてしまうかもしれないけど
地球人の今の精神状態にわかるように、ひじょうにわかりやすい言葉で
今これから宇宙時代の入り口に立っていこうとするその心境を
法としてわかりやすい言葉で説明をしてきている。
それが我々の法でもあるということなんです。

よろしいですか。
わかったかな?
はい、じゃあ失礼します。
もし何か、わたしに質問があれば、ほかの皆さんもどうぞ聞いてください。
みんな聞いていますからね、この場は。
モーゼも
「なんだったら出番がほしい」と言っているくらいかもしれないけど。
誰でもどうぞ聞いてください。
じゃあ、ちょっとひとたび失礼します。

(2006.3.11 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-30 11:29 | 高橋信次 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(6)

自分の気持ちに正直に生きて、魂を解放することだよ。
魂を解放していったら、そこに苦しみはないから。
どれだけつらい道のりであったとしても、人から見たらつらいのであって
本人から見たら楽しい道なんだよ。
それが自分に対しても、結果的には周りの人に対しても
そして人類に対しても、神様に対しても、愛深い姿になるんだよ。

そして、そこに至るには
自らを偉しとして、人の上に立ちたいという思い上がった気持ちはだめ。
謙虚に生きること。

謙虚に、自分に正直に生きた者は、最終的に人を幸せにし、愛深くし
そして楽しい人生が待っているんだよ、ということ。
そうでなければ、どれだけ周りのために生きようとしても
自らの魂を偽った姿は、だれも幸せにはしないということ。

表面だけの幸福論は何も生まない。
ほんとうの意味で、自分の魂に正直に生きること。
その意味では、自分を解放することに勇気を持つこと。

偽った姿、そんなものは、どこも人を幸せにすることにはならない。
人類を幸せにすることにはならない。
なぜなら、自分自身も救い得ない者が、幸せにできぬ者が
どうやって全人類を幸せにするのかい?

目先だけで言ってもだめだよ。
あんたが不幸なのは、誰の目から見てもわかってしまうこと。
あなたが幸せでないということ。
それは、みんなが見ててわかること。

そういう者が、いくら言葉だけで愛を唱えても、それは誰も幸せにはしない。
誰もついて来ない。

さっき、おっしゃられていた、聖母マリア様がおっしゃっていた
「愛のキャンドルサービス」、その点火は起きないんだよ。
その言葉は、ほかの人の魂に、ハートに火はつけられないんだよ。
そのことを学びなさい。

正直であるということ。
ありのままの神からつくられた自分の姿に正直に
そして感謝をして生きること。

何を努力するわけでなく、もし勇気を持ち努力するのなら
「むき出しの自分として人の前に出るということを、
勇気を持って踏み出しなさい」ということを、私は言いたい。

裸の自分で、名もなく、「老いぼれ」と呼ばれても
それでも自分は神の子であると
毅然とした思いで生きることができてこそ
この老いぼれになれるということ。

それは、神の子であるという自分に最大限の価値を
誇りを持っている姿があるからこそ
どんなに見てくれが肉体がおそまつであろうとも
着ているものがぼろきれであろうとも、髪の毛が薄かろうと
わしは自らの姿に誇りを持っている。

それが、神が期待なさられ、わしに与えられた使命であり
自らの存在そのものの価値であると、わしは思っているから
立身出世しなくても、立派なうちに住まなくとも、うまいもん食わなくても
ただただ、この与えられた人生の中で自らの命を光輝かせ、愛しているという
その自分の誇りを持ってこの魂を生きていく。

その意味において何ひとつ、私にかせはないということ。
私を縛るものはないということ。
なぜなら、私は何も望んでいないからー
何も望んでいない。
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如来なんか、どこの世界の話だい?
ボサッターって、何だい?

え?階層が勝手に分かれてるのは
たぶん体重が軽いもんが上に行くんじゃないかい?

あんたらちょっと食べすぎて肥えとるよ。
だから下にいるんじゃないの?ねっ。

女性は、なんか見てると
いつも「ダイエット、ダイエット」って言っているようじゃのう。
ならば、魂の欲のダイエットをしなさい。
ほんとうに大事な栄養だけを摂って、魂にほんとうに大事な栄養だけを摂って
余分なコレステロールがたまるような、つまらないものを捨てていきなさい。

そしたらのう、上の世界に行きたいなんて思わなくても
そこらへんで転がって昼寝したいと思っても
フワーッと、なにやら浮き上がって浮き上がって
ポカーッと、神さんの上の世界のほうで雲の上から
こうやって周りを見とるんじゃ。

「もちっと下に沈みたいがのう」と思っても
「だめじゃ、あんたは体重が肥えとらんから」と言われて
上のほうに浮いてしまう。
そんな悟り方、そういう道もあるんじゃよということ。
それをわしはあなたたちに伝えたい。

坊さんたちが滝に打たれて、難行苦行してる姿を見て
それはそれでその者たちが今必要な段階だと思って
わしは十分わかって敬意を持っている。

それもまた、その方たちの人生であり、今の魂のうずきが欲していること。
だからそれは否定なんかしないよ。
彼らみんなにとって必要であり、自分の人生として選んでる道なんだから。

でもね、幸せって、そんなふうにあくせくしなくてもあるんだよ。
気づけるんだよ。
いちばん魂にとって必要なこと、それがそれだけが
ほんとうに人間を神の子たちを幸せに導くものなんだよ。

そこの大事なところを抜いて、他のいかなるものを
「この地球すべてをくれる」と言っても
よくサタンが惑わす時に使うねえ
「この地上すべての土地をおまえにくれてやるから、
その魂を私に譲り渡さないか」
まあ、彼らはよく好きで言うセリフだよ。

それにまたふらふらーっとする連中も連中だと、わしは思うんじゃが
あんなもんもらってどうする。

わしなんかいらんぞ。
草むしりだけでもたいへんだと思ってしまう。
あんなもんいらん。
そんなもんが欲しいと思うから、そこのところに隙入られるんじゃ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2014-08-28 17:46 | 老子 | Trackback | Comments(0)

高橋信次からのメッセージ(40)

それは、私たちだけの特権的なものではなく
あなた方すべてが、惑星意識になりうるんです。
ときの流れの中、精進していくなら
遅かれ旱かれ、その道は開かれていくと-。
自由になる道だよと-。
あなた方は、自らが、こうならなくては幸せになれないんじゃないか
社会的地位がなければ、お金がなくては-

いいですか。
結婚しなくては、子どもがいなくては幸せになれないと
己に限定をして不幸の種をつくっている。
でも違うよ。
もっと自由なものなんだよ。

愛し合って、今の生活に感謝して、神様の仕事を精一杯やって
神の愛の通路として光り輝くのなら、気づいたら
こんなにも自分は自由だった-。

自己限定をなくすこと。
それを別の言葉で言うと、執着を外すといいます。
宗教なら執着を取るといいます。
それが悟りの段階として、仏教の中で特に言われてきた。
でもそれは違う。

愛という柵、垣根を取り払いなさい。
こうならなくては幸せになれない、病気だったら不幸だという。
そうですか?
病気になったから、過去世の因縁を晴らせるんでしょう?

肉体に感謝しましょう。
病と闘わなくていい。
病とともに生きることで、成功をおさめるのだと発想できたら
けっして不幸ではないでしょう。
悲しみでもないでしょう。
そういう思いを自分の中で学ぶことです。

愛の中に条件づけをしないということ。
「もし何々だったら-」
これはサタンの言葉と言われています。
もしこうだったら、もっと幸せだったのに。
そう言って、今の不幸の中にうずくまっている。
言い訳をして、努力をしない。
これがサタンの原理といわれている。

私たちの世界での言葉があるけれど、わかるでしょう。
「もし」をつけない。
今、あるがままにあることを感謝しなさい。
あるがままあるということが、愛の姿そのものであるということ。
それ以上愛豊かに生きるには何がなしえるかと考えなさい。

すべてのものに感謝し、受け入れて、次なる愛を生み出す通路となる。
循環の過程の中に自らの人生を投げ込んでいく。
それを広げていったときに、愛する枠をどんどん広げていったとき
あなた方は、もっともっと深い愛の中で大いなる自由を勝ち得て
そしてあなた方自身の愛も、無限大に広がっていくのです。

そのような意識になれば、地球系の、九次元でも何でも出てくるでしょう。
地球をそのような星にしたいから、そのような思いにしたいから
今回の救世の大運動があるということ。
あなた方はそれを伝えていかねばなりません。
それを伝えるのが、本来の救世主の役割でした。
伝えていきなさい。

今、レムリアにこのような霊言が降りているということを。
ぜひとも伝えて、公開していってほしい。
次の時代を担う者たちとともに、手を取り合って
この地球に、地上に広めていっていただきたい。
そうすれば必ずや、新たな世紀が-。

救世主がいなくても、地上の者たちが力を合わせれば
救世主以上の仕事がなしえたと、そう言える時代が必ず来るでしょう。
そのようにして、レベルアップしている星もあるのです。
救世主ひとりに頼ることはない。

ただ、根本法に関してだけは、救助上界のほうから降ろしています。
それを受け入れること、地上に降ろすことができるようになっている。
今、この奇跡があるということは
地上に救世主がいるのとほとんど変わらない。
あなた方がみなで手を取り合って、
リーダーシップを取ればいいのです。
救世主だけがすべてをつくったのではない。

イエス・キリストが三年半語られた
そのあとは、十二弟子の献身的な伝道作業があったから
イエス様ので年牛の教えが、世界中に広まっていったのでしょう。
だから、根本法が降りた後は、あとは地上の天使たちの、献身的な
命がけの努力があるかどうかということなのです。

ぜひ、この地上に献身的な姿で伝えてください。
愛の根本原理を伝えていただきたい。
そうすれば、この救世運動は成功するでしょう。
私たちはそれを心から願っている。
最終的にはそこのゴールに行くということを思いなさい。
G会だのK会だの、そんなものは、そのうち消えていくものです。
最終的にレムリアが行き着こうとしているところ
そのゴールを、しっかり見据えなさい。

ゴールをしっかり見据えれば
今のプロセスにおける、種々雑多なあぶくのようなものは
いずれ消えて流れていくものだという
達観した見方ができるようになります。
そのような、大局的なものの見方、それも愛と同じで
大局的なものの見方が、上の次元の者の、物の見方だと思う。

小さなことに右往左往しない。
それには何がゴールであるかということを
しっかり認識することが不可欠でしょう。
ゴールがわからなくては、大局的なものの見方はできないと思う。
だから、あなた方は、大局的なものの見方をしていただきたい。
私たちと同じ視点に立っていただくということ。
そのことをお願いしたい。
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このように九次元から話が出ている
ここを中心にして、すり鉢状に、天上界に広がっています。
そして、ここから下のほうにも、ずっと地獄界にも通じているのです。
この地上、三次元を縁にして
天上界にも、地獄界の方にもこの話は流れている。
救われたいと思う地獄の者たち、そして天上界の中でも
このような活を聞けない者たち、その者たちが耳を澄まして
群集のように集まってこの話を聴いている。
毎週毎週、どのような話をするのか聴いて、学んでいこうとしている。

地獄にいる者たちもこの話を聴いて
心ある者は、自分自身の至らなさ、なにゆえに間違っていったかを
ひとりで学ぼうとしている。
地上の磁場、この場所を通して、天上界から降りている霊言を通して
天上界にいる者たちの大いなる学びと
地下にいる者たちの大救済計画というものが同時進行で進んでいる。
それを理解してほしい。

自分たちが、ただ霊言を聴いているという
それだけのマニアックな喜びに浸っているのではなくて
あなた方がここにいることで、天上界も地獄界でも、救済運動をしていると
その現場にいると、そういう磁場をつくっているのだということ。
そういうことを、どうかわきまえていただきたい。
そのように使命を果たしていただきたい。

ただ聴いているだけで何もしないというのではなくー
これだけのエネルギーを下に降ろすには
エネルギーに耐えうるだけの磁場が必要なのです。
だから「十二人集めなさい」と言っていたのも
地上にこれだけのエネルギーを降ろすには
それだけの人数が必要だったということなのです。

今、法を聴いている者たちの思い
本来は、地上に生まれてきたかったけど生まれられなかった
日本に生まれてこられなかった者たちの思いまで含めて
あなた方は、この地上で、代表者として聴いているということ。
聴くことで、言葉を地上に降ろしているのです。

九次元から三次元からまで降ろしてくれば
途中の界の者たちはみんな聴けるのです。
九次元が八次元に行って、話をすることはあります。
七次元に行って、話すこともあります。
でも、六次元、五次元に出てきて話をすることは、ほとんどない。
私たちの姿も、名前すら知らぬ者が多い。
六次元、五次元を越して、三次元にダイレクトに話を降ろすということは
途中の界の者たちはみんな聴けるということです。

三次元にいちばん近い地獄界の者たちは
三次元を縁として、その光、その話に触れるチャンスがある。
だからこそ、三次元を通して、大枚世運動が計画されるのです。
三次元に、九次元がどんどん降りて、根本法を、救済の法を降ろした。
G会のときにも降ろした。
O氏が降りて、仏陀自らが降りて、九次元の法を伝えた。
それがどんな意味を持つのか、あなた方はまだわかっていなかったと思う。

これは、地球の表面にいる、人類だけをターゲットにしたものではなくて
三次元を縁にして、天上界全体、地獄界全体の救済にまで向けて
ふだん語りきれない、伝えることのできない階層の人たちに対しても
根本法を伝える、愛の教えを伝えていく-。
そのような地上のえにし、縁を通して
我々は、三次元に、定期的に救済運動をするのです。

今回は、それの集大成である。地球系の神理の集大成であるということ。
その救世運動のクライマックスに、あなた方はいる。
このあとどうなるか。
私たちも努力をし、あなた方も最大限の努力をしていけば
必ずや、宇宙の神の愛の思いに通じて
地球はすばらしい愛の星に生まれ変わる
地球ルネッサンスに至ると、私は心から信じているから
私たちはこのように努力しているのです。
あなた方もそう思って、この仕事をやっていただきたいと思う。

けっして軽んじて、慣れてしまわないように。
この間も言われていましたね。
霊言を受けることが、おもしろいもの見たさになっていくような
そんな思いであってはいけない。
一回一回、天上界で学べない者たち、地下にいる者たちに対しての学び
私たちの言葉よ届けと、そいう思いで、この場に集ってほしいのです。

私たちの言葉を届けるメッセンジャーであっていただきたい。
それが、光の使者として、神仏の使者としての仕事です。
そのために生涯を捧げてほしい。
けっして無意味な仕事ではないと思う。
あなた方は今回の転生を誇れる、そのような時代が必ず来ると思う。
魂の中にも、そのような歴史を残せると信じるから
ぜひとも、あなた方の力をお借りしたいのです。
今日、聴いた話の思いを、どうか伝えてください。

インターネットを縁にして、本を出すことを縁にして
我々の言葉を聴く者も多くなることでしょう。
そうやって、私たちの言葉が広がっていく。
それを、受け入れるか受け入れないかは、その者たちの自由意思です。
しかし、知ることがなければ、触れることがなければ
気づくきっかけもなかったことになってしまう。

五次元、六次元の者たちは
わたしたちの根本法を聴く機会はほとんどありません。
聴けないのです。
光が強すぎて、九次元は彼らの世界に行くことができない。
日蓮あたりが一生懸命、光を落としながら行ったり
七次元の者たちが一生懸命行く。
それですら、目がくらんで話が聞けないのです。
九次元の言葉を何度でも聴くことができる。
それは、肉体を持った者だからこそ耐えられるということなのです。
そう思って、私たちの言葉を受け入れることを厭わず
話を伝えていただきたいと思います。

ちょっと長くなりましたけれど、気持ちは伝わったでしょうか。
すべての疑問には答えられなかったかもしれませんけど
今日はこれにて失礼します。
ありがとうございました。

(2005.8.6 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-26 14:31 | 高橋信次 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(5)

「あの老いぼれは何をつかんでいるんだろう。何なんだろう」と言って
集まって来る者は、集まって来た。

わしは弟子なんておらん。
弟子なんか、取ると思うか?

でもあの時代、そういう時代だからこそ
わしの周りに、やはり人びとが集まって来た。
それが「どうやらあそこに、変わり者のもうろくじじいが
勝手なことを言っているようだ」
という話が広がり、けっこう評判になっておった。

若かった頃の孔子というのも、その噂を聞きつけて
会いに来たという事実がある。
まあ、向こうから見たら
「こじきおやじが、老いぼれが、何を言ってんのか、いったい」と
まあ、孔子と呼ばれている方はねえ、あの方はあの方で素晴らしい方です。
その彼のやる仕事があればこそ
この老いぼれの仕事もあったということなんじゃ。

で、若かりし彼とお互いに会った時、わしらは大した言葉を言わなかった。
話さなかったけれども
お互いがお互いとして存在を認め合った瞬間というのがある。

そこに言葉はいらない。
むき出しで、神の子として確かに生きてるという
鮮烈なエネルギーを発してる者同士が
互いに無言で認め合い、互いに礼を尽くし、敬意を持ち合うもの。
そのようなことを記憶しているように思います。

まだ若かりし孔子は、たぶん優等生であろうという
その姿をいでたちをしていたし
考え方においてもそうだった。
でも、彼を祝福する気持ちにおいて、彼を見送った気もする。

彼は彼で、自分にはない私の存在
エネルギーを通して彼なりに考えるきっかけを持ったかもしれない。
でも、別に若かりし孔子が老いぼれになる、老子になることはない。

わしはわしとして正直に
神より与えられた個性を
個性というのはその中に使命が含まれている。

わしは「多くの人びとを自由にしなさい」と
「多くの人びとを自由の中で解放することで、喜びを与えていきなさい。
喜びに気づく道を与えていきなさい」と。

大自然の中における神の声を聞くことによって
人びとにそのようなことを語りかけていく、知らしめていく。
それが緑の光線の、緑の光線のものは調和というもの
大自然を通した調和というもの。

それは、大自然の中という神の懐の中において創造された神の子たち
それが、みんなが調和して生きていく道。
それは「神の子としてつくられたという存在に気づき、神の子としての存在
一人ひとりの違いに気づき、ともに認め合うことによって
手をつなぎ合うことによって
調和をして生きていきなさい」と
それを知らしめていくのが、緑の光線の者たちの使命であるのです。

ですから、わしはそれを生きざまによって示した。
その調和の原理という中には、けっして人を押さえこみ、人の上に立ち
人の個性というもの
大命というものを踏み散らかして自分自身の我を通すということは
大調和の原理にはない。

大宇宙の神の御心の中に、大調和というのは一つの法則として入っている。
それは愛というものがすべてを受け入れ、すべての存在を生かし
すべてのものを大調和という懐の中で包み込んでいく。

それが神の御心であるから。
それが大宇宙の摂理であり、法であるから。

それゆえに、大調和の中の調和というものを
神の現れいでた自然界のその姿を通して人びとに
ある者は音楽を、ある者は思想を
文化というものがやはり多く出てくるのですけど
音色を通したりしながら、調和の原理というものを人びとに示していく。
思想を通して示していく。
それが、緑の光線の者たちが担っている使命であるということなのです。

大調和の中には、常に自らを
自らの人生というものを卑下することはありません。
自分自らの、自らでなくてはやれないことの力というもの、可能性というもの
人生を大切にするということ、いとおしむということ、楽しむということ。

それを、すべてをわかった者であればこそ、他者の命の尊さというもの
他者の者たちが持つ価値観を尊重しなくてはいけないということ。
そして、ほかの者たちの命をけっして踏みにじってはいけない。
人生を押さえ込んではいけない。

ともに尊重し合い、ともに切磋琢磨し、ともに生かしむる
そういう力というのが湧くのが、大調和の原理でもあるのです。

それに気づかないから、余分なものの中で
社会が、その人にとってほんとうに幸せな目標ではないのに
あなた方は自分の頭で、自分の魂で判断することを怠って、怠けて
人が社会が与えた、安易な価値基準の中で、自分の幸せというもの
努力目標というものを勝手に決めて
合わないにもかかわらず、そこに向けてしゃにむにやるから
「難行だ、苦行だ、修行だ
そして、「不幸だ」と、魂を追い詰めて道がわからなくなるのだと
わしは思うよ。
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一度そういうものから解き放なたれてみなさい。
ものが人の知識や、知恵の深さに結びつくということではないということ。
神の子の叡智というのはね
あんたたちはこの時代では最高峰の学問を受けてるかもしれない。
皆さんそうでしょう。

でも、そんなものは、あとねえ、わしらの時代に最高学府と呼ばれたとこで
頑張ってた人たちが
おそまつな、おかしな知識ばっか頭に詰めこんでた。

でものう、あんたたちですら、あと百年、二百年後の未来に行ってごらん。
飛躍的に科学が発達して
それこそほかの惑星なんかガンガン行っちゃってる時に
「そんな時代遅れの物理の法則しか知らんのか」と言って
ばかにされるだろ。

だから、知識というのはそういうものだということ。
ただその知識を通してその時代にどれだけ貢献できるか
どれだけの使命を果たすために役立つことができるかということをもって
その時代の知識というのは意味があるということ。

でも、ほんとうに大事なのはのう
あんたたちみんなの中にもうすでに蓄えられた過去世の
パーニャパラミタと呼ばれている叡智がたくさん詰まっている
そして神に創造された時より与えられた神ご自身の分光
分けた光があんたたちの体の中に入っておるんじゃ。

この光に出会うことだよ。
その魂の外に求めることはない。
外に行って一生懸命勉強するとか、知識を、ガラクタを詰めこむなら
知識を捨て、脇に置いて
「自分の中にあるほんとうの宝物の声に耳を澄ましてごらん」と
わしはそう言いたい。
そしたらそこから
湧きあがるような素晴らしい宇宙の根源からの神の声が聞こえてくる。

人を愛するとはどういうことか。
幸せに生きるとはどういうことか。
ともに生かし合って生きるとはどういうことか。

それに気づくには外を向くことはない。
内に、自分の中にもう蓄えられた、自らの命に出会っていけば
魂の中にちゃんとそれは書かれてるということ。

それを、人生をどうやって生きようかと
幼少期から青年期に向かって生きる時に
ちゃんと魂のうずきという指導が入って
どっちの方向に行きたいかということがわかってくる。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-25 09:29 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(4)

修行をしなければアラハンに行けないとか
修行しなければ、ここまで行かなきゃ
ボサッターという位になれないとか、それはおかしいよ。

そんな目的のために、そのように考えることは、わしに言わせりゃあ
魂が悟りを開くという美名に隠れて、魂の世界の立身出世のために
人のことより自分のこと、自我のためだけに、エゴのためだけに
神さんという道具を使って自己実現していきたいと
そのように醜く我を張ってる人間の姿にしか、わしには見えない。

いいじゃないか、別にボサッターにならなくたって
アラハンにならなくたって、如来にならなくたって。
どうでもよいわな、幸せに生きていけるのなら。

この神様よりつくられた我が神性、神の子という部分を味わって
その光を自然に発散して、世を照らす、そのような祝福するような思いで
幼きもの、小さきもの、弱いもの
そして自然界におけるセミやチョウチョウや
野の草花を通していとおしみながら
「ともに神の子として、この地上に現れてよかったねえ」と
「なんとこの四季が美しいんだろう。
お前たちのおかげでこんなに美しい四季を見せてもらうことができるよ
ありがとうよー」と
虫に語りかけ、花に語りかけ、川面に語りかけ、月に語りかけ
星に語りかけていく。

そのような心を持っておるとなあ、別にほかの人たち
まあ、ほかの霊人からも
「なんでこの老いぼれがこんなところにいるんじゃ」と、よく言われて
もっと別のところでいいのになあと思うんだけども
わしはなーんもつかみたくないから
どーでも立身出世なんて思わないから
悟りなんてしたくもないし、どうじゃ、「修行なんか大っ嫌いだ」。

なーんもつかんどらんとなあ
この老いぽれはフワフワ、フワフワ、フワフワ浮いて
なんかプカーっと、気づいたら八次元とやらの
その世界まで浮かんで上がってきちゃったんだよ。

そしたら、「なんでこの老いぼれがここにいるんだ」と
周りからは多少けげんな目で見られるが
それが神の子としてどういう意味があるかということ。

また、別な意味で、あくせくあくせく
「悟りたい、悟りたい、ボサッターになりたい」
知ってるかい?

ボサッターっていうのはね、自分の命捨てて
ほかの人の幸せのために生きる人たちのことをボサッターっていうんだよ。

でも、「ボサッターになりたい、ボサッターになりたい。
だから、ボサッターになるためにアラハンに行かなくっちゃ」。
みんな、あくせくあくせく、欲にまみれてる。
わしから見たら、欲にまみれてる。

この地上的に出世することには
とても後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。
でも、神さんの世界で、また別な意味で立身出世したくて
坊さんたちは一生懸命、難行苦行、修行とやらで、自分を縛り
一生懸命努力してると勘違いしてる。
自己実現、自我だぞ、エゴだぞ、そんなものは。

神さんが求めていることは、自分を捨てて無心になって
人の幸せのために神の子たち、同胞の幸せのために世を照らせ」と
そのようにおっしゃられているだけだ。

それ以外の知識なぞは大していらないのに
それ以外の、自分を箔づけするために一生懸命知識を詰め込み
一生懸命魂の世界で立身出世したくて、修行ばかりしている。

そういう人たちを見ていると、「そんなものは捨てておしまい」と
「そんな自分にかかわりあうんじゃない」とー。
ありのままで、わしたちはみんな神の子じゃぞ。

みーんな神の子じゃぞ。
あんたは、ちょっとぽっかり偉いかもしれんが
わしは老いぼれで学問もない。
昔でいう小学校も出ておらんがのう。

関係ないぞ。
神さんが見たら、知識じゃないぞ。

いかにわしらが神さんに、天の神さんにつくられた
ありのままの神の子としての存在に
正直に自らの人生の中で生きようとしているか
神の子を生きようとしているか。
それだけを神さんはご覧になっちょるんだぞ。

それ以外の高給取り、今でいうと何だ
お医者さんとか、まあいろんな立派な仕事がたくさんあるじゃろ。
そういうのになるために、みんなあくせくする。

それがおかしいということを坊さんたちは百歩譲ってわかって
精神世界にもってきたとしても
彼らがほんとうに神の子として人を幸せにしたくて
なりたいという坊さんはどれだけいると思う?

今の時代、どれだけいると思う?

坊主という袈裟を着けて
この地上での生きやすさの道具にしようと商売の道具にしようと思っている
そんな者たちが多い。

そうでなくても、あの世でも間違っているのは
魂の世界としての立身出世を求めるための一つの手がかりとして
ボサッターになりたい、如来になりたい
果ては九次元だか十次元だかになって、惑星意識になってみたい。
だから、神理の運動を頑張るんじゃ。
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わしゃ、ごめんだね。
わしゃ、ごめんだね。
セミやコオロギといっしょに仲良く生きてるほうがどれだけ楽しいかのう。
わしや、ごめんだ。

「でも、そんなのは全部自分の欲にかられた、
神の子から明らかに離れた道じゃよ」と
それをわしは言っとるんじゃ。

簡単な言葉で言うとる。
難しい言葉は何もいらない。
神の子語るのに、難しい言葉はいらないぞ。

神の子というのは、ありとあらゆるものの中に
神の子としての神様の愛がぎっしりつまれて、つくられたということを
ともに認め合い、尊敬し合い、感謝し合って、尊重し合って
手を握って生きること。
そこに尽きてるんだよ。

そこの中に、自らを偉しとしようとする気持ち
ほかの者を押さえこんででも、自分が出世してやろう
上に立ってやりたい、ねっ
自分こそ上に立ってやりたい、そういう思いじゃないかい?

そんな思いで、努力をしてみたところで
ほんとうの意味で希望が持てるわけがない。
いつかむなしさを抱えて、そこに努力をしていっても
そこに幸せというものを、まあ、一時は思うかもしれないけど
いずれ、ほんとうにこれが自分の幸せかという疑いがでてくる。
幸せではないというとこで苦しむ。

わしは「みんなで幸せになろう」と言っている。
「神の子として生きよう。
いっしょに手をつないで生きよう」って言ってる。

「神さんにつくられたこのかけがえのない命を喜んで
みんなで踊りながらいっしょに生きよう」って言ってる。
難しいことはいらんだろう。

そこにいる小さなわらべたちと手をつないで踊って
かくれんぼしたり、いろんな遊びをする。
それだって幸せだよ。

「その姿にこそ幸せの原点はあるんじゃよ」と、わしはそう言った。
立身出世であくせくあくせくして、戦いがあった時代だからこそ
わしはそれをより言ったんだ。
それに向かって、世間は非難ごうごうのことを言った。
でも、そんなものは関係ない。

わしはわしとして、無名の老いぼれとして、人の上に立つでもなく
特別な存在でもなく
ただただ神につくられた、最初はだれでも無名ではないか
個性は与えられたけど、名前なぞというのは、どうだい
あんたたちはたとえばイエス・キリスト、インマヌエルっていう言葉
モーゼとかあんたたちは孔子とか言うんだろ?

その名前が永遠不変だと思うかい?

わしらは天上界では別の名前で呼んでるよ、彼らのこと。
誰も「イエス・キリスト様」なんて言わない。
誰も言わない。
あの方のことを「アモール」と呼ぶ。

その中の一つの過去の意識体の中として
「ナザレのイエス」と言われている方の記憶がある。
その部分が出てきて仕事をすることはあるけれども
本体エネルギーとしてはアモールという方がいる。
でも、アモールという方にしても、モーリヤと呼ばれている方
セラビムと呼ばれている方にしても、名前なぞはどうでもいいことなんだよ。

我々の世界は名前ではない。
その方の特殊なエネルギーを思いの中で浮かべただけで
その方と言葉が通じる。
それが我々の世界のコミュニケーションというか接触のしかた。

みんな、自分に名前があり、たとえばアレキサンダー大王であるとか
そのような肩書きがみんな欲しい。

何とか、何とか、何世だとか、みんな名前が欲しいから
皇帝になりたかったりして
人びとを犠牲にして、国を拡げて、戦いやって、下克上をやって
不幸の種を、苦しみの種をまいていく。

「そんなもの、捨ててしまいなさい」と。
「無名の老いぼれでわしは幸せじゃ」と。

無名の老いぼれであったとしても
わしは神さんからつくられた確かに神の子として
その祝福されたこの魂を、人生を昧わって神さんに感謝しながら
踊りを踊りながら生きている。

ボサッター:菩薩のこと。無私なる思いで、愛他・利他を実践する者。
       他人の幸せのために命をかける者をいう。
      七次元のレベルまで霊的進化を遂げた魂のこと。

アラハン:阿羅漢のこと。反省行を行い、心の曇りを取り除いて、
     心に神の光を受けることができるような状態となった人のこと。
     菩薩の境地の一歩手前段階。
     彼らの境地は六次元上段階に相当している。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-22 05:50 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(3)

努力というのは、自分がやりたい夢や希望をかなえるためにするのなら
その多さ少なさなぞというのは苦の原因にはならないということ。

自分がなりたいと思う努力は高くても難しくても
そこに向かって努力してるということは喜びでもあるということ。
そこに、ほんとうに自分の魂の中で、人生の中の希望の思いがあるのならね。

でも、そこに価値を見いだせなかったのなら
それが
「多くの人がそこへ行って、大半の人がそこで幸せになる」と言われても
「そこにあんたたち自体の幸せはないんだよ、別の道を選びなさいよ」と。

そこから外れることがみんな怖い。
ひとつの同じような規範
ある程度幸せだといわれた紋切りのパターンの中から
人は外れるのがとっても怖いんじゃ。

そこで、たくさんのたくさんの鎖を自分の魂に縛りつけてのう
神様がせっかくこんなに自由に
幸せにこの地上に送り出してくださったのに
自分たちで自分たちの社会の中でつくったその鎖で
また自分自らいっぱい鎖をはめて
「苦しい、苦しい」と魂が悲鳴をあげ
自殺者が多くなり、中学や高校とか
まだまだ集団で学ばなきゃいけない時期にも自分でやめてしまったり
大学をやめ、国立大学の立派なところを出てもじゃ。

見とったんじや
この者といっしょに昨日。
ニートというのを見て、「ほう、現代もこんな者たちがおるのか」と。
みんなニートの連中は国立大学の有名なところを出ていた。

それなのに、挫折がなくて親に言われた価値観のままできたから
就職活動の時になって初めて挫折感を知って、ふられまくって
なんで自分が落とされたのかがわからない。

「教えてほしい」と言っても、向こうの面接官教えてくれなかったと
そこでガラガラと価値観が崩れて
九年間もひきこもりになっておる三十代の男がおったが
そんなのばっかだったなあ、昨日見ていたのはなあ。

だから、学問をしたから、世間の立身出世の道と同じことの努力をしたから
必ずしもその者が幸せになれる、そんなわけではないということ。
そうじゃなくて、もっともっと多様な価値観の中で
自分の人生の可能性というもの
やりたい夢というものを探して
その上で自分がその夢に向かって頑張るのならば
それは努力だとかつらい修行だとか、そのような苦に満ちたような
そんなすこしも楽しくないような人生の時のすごし方をすることはないと思う。

自分がやりたい夢は、誰がどう評価しようと、その結果じゃあない。
結果のために、目的のために
自分の人生を修行という名のもとに縛り上げて
「苦しい、苦しい、苦しい」と言って、努力をする人生なぞは
人生をほんとうの意味で味わってることにはならんよ。
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あんたたちは幸せになりたくて、この地上に出て来たんだろ?

地上に出て来たということはな
自分の魂の中にある、あんたたちで言う「うずき」
「自分ならではの光」、「やるべきこと」
それに忠実に、夢を目的を見つけた時に
人というのは莫大なエネルギーが出てくるということ。

あんたたちもどうじや?

このレムリアの仕事、本業の仕事があってみんな忙しい
ほんとうに忙しい生活をしてくれてる。
それはそうでしょう。
家の中のことも家庭のことも主婦の人たちはあるし
それ以外の人たちは立派な仕事を持って、世間でひじょうに頑張っている。

それもよくみんな知ってる。
でも、それを脇に置いてでも
レムリアの仕事のために一生懸命みんな仕事をしてくれてる。

そこに、「苦しい、苦行だ、修行だ」って、あんたたち思ってるかい?
魂が喜びを持ってやってる人たちだけが、今残っているように思うよ。

ならば、どれだけ寝てなくても、どれだけ徹夜で仕事をしていても
どれだけこの者にしても体に負担があって
「霊言とるのが嫌だ」と言いつつも
それでもやはり喜んで、霊言をとったり仕事をしている。

それがほんとうの意味での魂のするべき仕事であり
神の子としての本業であるということを魂自体が知っているから
そのためにならどれだけでも人間というのはね
エネルギーが出てくるもんなんだよ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-18 06:03 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ(2)

その時代は、学者というのはひじょうに百花僚乱、あちらでもこちらでも
それぞれの先生について、みんな一生懸命勉強しておった。
出世したくて、一生懸命役人になりたくて、勉強しておった。
みんな頑張ってやっておった。

その時に「知恵者」と呼ばれた者たちは
その時代の最高と呼ばれた知識を頭にぎっしり詰め込んで
自分たちこそは当代随一の知識者であると、競い合ったものよ。

でも、その時にいた者たちを、今この時代に出て来て
その時に学んでぎっしり入れた知識を
今日の日本で、世界で通用するかと、問うてみたいわ。
そんなことあの時代では最高の知識でも
今じゃどれも使いものにならんであろうが。
「そんなものが知識だ」と、わしはそう言い放っただけよ。

「知識が悪い」とは言わない。
知識を通して数々の判断をしていく。
そして、知識をもってより多くの視野、判断力の限界を広げていくということ。
論理的にものを考えていくということ。
認識力を拡大していくということ。

それはとても大事なことだから知識が全部いらないとは
わしはひと言も言ってはおらん。
でも、知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちの大ばか者が
あの時代にはあふれておった。

人生の大半を勉強、勉強で生きて
それが、その勉強をして知識を詰め込んだから出世できる
詰め込んだから学者への道が開かれる、それが最高の人間としての道であると
そういうふうに皆言い放っていた時代だからこそ
その中の時代のバランスとして
思想のバランスとして、彼らを解き放つ意味の
まあ、あなたたちの仏教の中の「一転語」と言うのか
まあそのような存在として
彼らにわしのような者が、そういう言い方をしたのだ。

まあ、それはあの時代から見ると、「勉強するなんて大ばか者だ」と
「愚者である」という言い方をしたのは
ひじょうに彼らにとってみると、ショックな話であったと思うよ。
たいへんショックな話であったと思う。

でも、学識だけを詰め込んだ大ばか者たちが
ほんとうの意味での人生がわからずに、せめぎ合い、下克上し合い
国と国とがぶつかり合って、戦乱の世の中をつくり
学問においても数々の宗派の者たちが出てきて
「自分たちこそが最高の知恵者である」と言って、ぶつかり合っていた。

それがまあ、ひとつの時代の文化という意味では、花が開いたという意味では
百花僚乱の時代ではあったけれども、でもそこの中においてほんとうに
その彼らの唱えたものが人民を底辺の者たちまで含めて
みんなを幸せにすることができたかというと、学問のない民百姓たち
学問がなくてほんとうにそういうものからうとかった者たちは
常に見捨てられていたという現実があった。
彼らを救うためのものではなかった。

王道論にしても、君主をもっていかに人びとを幸せにするかという道
人倫の道というものを説いてはいたけれども
でもそれがほんとうのいい意味で
学問のない者たちを幸せにする道かといったら
それはやはり選ばれていた者たちがより機能的に出世していく道を
人生をより豊かな、豊かといっても心の豊かさではない
ある意味でいうと生きやすくさせるための立身出世の道を
その方法論のようなものをお互いに説き合っていた。
そのようなことが、まあ時代の中にまん延していた時代かもしれない。

ほんとうに弱き者たちの心を幸せにしたいと願うのであるのなら
あんなに次から次へと戦争を起こさない。
わしはそう思う。

彼らの素朴な幸せ、さっきも言ったけど、隣の嬢ちゃんが大きくなって
「ベつぴんさんになったなあ、嫁にいって幸せになれよ」と
思うような気持ち。
「はあ、四季が移りいって、美しくなって、
今年も豊作になってよかったねえ」と
そのように互いに喜び合う、そのような素朴に生きる者たちの幸せ。

そういうものというものを、みんなが立身出世でカツカツカツカツして
国と国とがいかに大国になるかだけを、みんながせめぎ合っていたか。
そういう意味での幸福論というのが置き去りにされていたということ。

それをわしは、「素朴な人生の中にこそしあわせがあるんだよ」と
それを言い続けること
「立身出世欲を持ち、それがほんとうの意味での向上心につながると
それは見当違いな道なんだよ」と、それをわしは言っていたという
そういう存在だったように思う。
それは逆に言うと、現代に当てはめてみても
同じことが言えるんじゃないのかなあと、思うんだよ。
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あなたたちの今のこの時代を見ると、学歴主義というようなものがまん延して
学歴の中でいい大学を出ていけば、ある程度人生の保障は得られる
そういう時代じゃろ。

その中で生きやすさというもの、生活の安定というものが得られる。
それがね、「悪い」とは言わんよ、わしは。
それもまたいいことじゃ。
神の自由意志もある。

「神より与えられた自由意志の中で
あんたたちが一人ひとり生きるのなら、それもよかろ
でも、それと幸せというものはまた違うよ」ということを言っている。

生きやすさを求めていくこと
まあ自分の魂の実現というもののための手段として
一生懸命、努力精進するために自分が選んだ道であるのならば
それはどんなに苦しかろうと困難な道であろうと
夢がある限り楽しい道じゃあないかね。

どんなにつらいことがあろうとも
自らが選んだ夢をかなえさせるための道ならば
いかなるつらい勉強でも学問でも、それはつらいものではなかろ。
苦しいものではなかろ。
それを楽しむのが人生の喜びであり、醍醐味だとわしは思っている。

でも一番いけないのは
その努力を越えたあとに素晴らしい安定された未来があるからということだけで
その、いい大学に入ろうとか、いい仕事に就くということが
自らの夢となっていない
自らの自分の魂がほんとうに納得していない。

それだけど、生きやすさを求めるがために世間の流れに流されて
それを惰性の中で、目的意識もなく歩むのだとしたら
これほどつらい人生もなかろうということ。
これほどつらい努力もなかろうということ。

でもそれをね
あんたたちはほんとうの意味で
何のために努力をしようとしているのか、それを考える力がない。

今、少子化じゃろ、子どもも少ない中で親に期待されて
期待されてかわいがられて
「何とかちゃんや、いい大学に行って立身出世して、
母さん父さんを安心させておくれ」
と言って、手間暇かけられ、金かけられ、育てられた子たちが
ほんとうの人生の目的、夢というものを見つけられず
しゃにむに受験戦争と呼ばれているようなハードな中に投げ込まれていく。

その結果、何を自分がやりたいのかがわからなくて、努力ができなくて
途中で学校をやめてしまう子たちが多かったり
入って出たとしても、結果的にそのあとに社会に適応できなくて
その先の仕事とかに自分の夢というもの、希望というものが見つけられなくて
そこから、ひきこもりというような「ニート」と呼ばれているような
まあ一見ニートと呼ばれてる連中は
わしに似ているようにも言われるかもしれないが
そこは大きく違うんじゃ。

わしはいつも人生を楽しんで、釣りをしようと、空を眺めていようと
一生懸命眺めて、一生懸命幸せだと感じている人生だよ。

彼らはどんなに、それで立派な大学を出たとしても
そこに希望が見いだせなかった。
そのための努力を継続することがもうできなくなった。
そこが、彼らの不幸の原因、苦しさの原因じゃ。

でも、逆にいうと、学校なんか出なくたって
明るく元気に生き生きと、幸せに生きている連中はまたおるじゃろ。

そういう連中を見たときに
たとえ立身出世なんていうこと考えなくても元気よく
元気よく光に向かって生きている
そういう者のほうがよっぽど幸せであろうとそういうことをわしは思う。

「ひとつの流れの中で立身出世していくことだけが
人間の努力目標であるような
押しつけたような道、それはどこも幸せを生まないんじゃよ」ということを
わしはかつての時代も言ったけど
今世の現代の人びとに対しても同じメッセージを伝えたいと思う。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-14 20:14 | 老子 | Trackback | Comments(0)

老子からのメッセージ

「修行」
わしがいちばん嫌いな言葉だよ。

修行なんかしなくたってそのままありのままの自分で
自分自身がどんな生き方をしたらいいかなんて考えなくたって
ありのままの神の子の姿で生きていれば
それで十分幸せなのが神の子なんだよ。

それを気づくか気づかないか
自分の人生を味わえるか味わえないか、それだけが問題だ。

多くのものを望まず、多くを欲せず、自分自身に正直に
神様からつくられた自分の人生を、魂を味わいながら
ゆったりと自然の懐の、神の懐の中に抱かれながら
踊りながら生きていく、味わいながら生きていく
それが私が言っていた境地、「無為自然の境地」っていうものなんだ。

こんにちは。
老いぼれです。
老子です。

あんたたちの中では「老子」という言葉で呼ばれてるけど
それはわしの本名じゃないんだよ。
わしは自分の本名もなんも言わなかったし
「ただの老いぼれさ」と言ってたのが
そのあと人の口から口へ伝えられて、老子という言葉で伝えられている。
そういうのがわしのこと。

わしは自分の氏素性、父親が誰だったとか、母親が誰だったとか
どの階級の出だったとか、自分の名前だとか
そんなものまったく人にも語らなかったし
それにあまり弟子とかいうのも好きではなかったし、本も書かなかったし
まあいってみりゃ、「気楽な怠け者だ」と言われても
ミカエル大天使あたりに、ああ言われてもしかたないような老いぽれです。

「こっちの世界に来てまで老いぼれやってることもなかろうに」と
言われるんだけどそのほうが気楽なんです。
だから、こっちに来ては相変わらずこういう姿でフラフラ、フラフラ
あっち行ったり、こっち行ったりしながら
みんなの間をちょっと邪魔してまわってるかもしれん。

あんたたちの生き方を見てると
まあわしが何か言うというのもお門違いかもしれないけど
なんでこういうふうに今日出て来たかというとね
どうもあんたたちが一生懸命やってくれること
とっても意味のあることだっていうのはよくわかっているんだけど
どうも、そろそろまた苦しくなってきたなあと、思って出て来たんだよねえ。

わしの考え、思想というのはね、考え方というのは、何もやらなくていい
人間は努力しなくてもいいという教えじゃない。
そんなんじゃない。

ただ立身出世のためにとか
何がなんでもこの地上に自分自身の地位とか名誉とかを築くために
ああしなければいかん、こうしなきゃいかんという
処世術のようなものが横行した時代が
わしのいた時代にもすごくはやってねえ。
もう一大勢力というか
もうあっちこっちでいろんな思想の華が咲いていたわけだ。

その中であまりにもみんなが立身出世というものを求めて、処世術を
そして、どの諸侯に取り入れられていくかというようなそんなことに
みんながきゅうきゅうとしていた時代でもあったので
わしがちょっと出て行って、そんなこともなかろうと。

みんな幸せになるのに、どの殿様に召し抱えられたとか
どのように学問をして勉強していったから出世をして
官吏登用の道が聞かれたとか
金が欲しい、女が欲しいといって戦って
領土が欲しい、あの国も欲しいといっては
みんな戦争を繰り返していた時代だ。

そんなときにね、「そんな欲みたいなものは全部捨ててしまいなさい」と
「そんなものなくたって幸せになるということは簡単なことだよ」と
それをある意味でアンチテーゼのような意味で、わしはみんなに伝えた。
そういう役割があったということも事実。
それが、その考え方が残って今日
「老子の思想」と呼ばれているのかもしれない。
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まあ、わしが言ったことは
あの時代で研究者がいろいろ言っているかもしれないけど
まあ今日の言葉で言うのなら
無為自然の自然というのは神の御心ということだ。
大宇宙を貫く、そのあんたたちではもう習ったと思うけど
この大宇宙の中においても、自然の摂理においてものう
神の愛というものは法則というものは、どこまでもいきわたっている。

小さな虫けらにおいても、小さな水のひとしずくの中にも
神の法則と神の愛はぎっしり詰まっているということ。
そのことをね、あんたたちはもっと味わいなさい。

そして、あんたたちもその神様の光からつくられた
個性ある命として、魂として、かけがえのないものとして
その中にたっぷりと神様からいただいた愛というもの
光というもの、かけがえのない個性というもの
その命のきらめきというもの、美しさというもの
それをぎっしりといただいてあんたたちの身体はあるんだよ。

その人生があるんだよ。
それに気づいてごらん。
そしたら幸せになるのに多くのものはいらないんだよ。

多くのものを欲しがるから、あんたたちはそうやって戦争する。
多くの余分なものを欲しいからといってあくせくあくせく努力して
立身出世しようとして、苦しみの種をつくっている。

そんなものから解放されなさい。
そんな価値観から解放されなさい。
ありのままで、あるがままの姿で、大自然の神様の懐に抱かれていくこと。
そこにたどり着いたのなら
人生は実に楽しく美しく、かけがえのないものだということがわかるよ。
ほら、気づいてごらんと、わしはそういうことを言っておったんじゃ。
ただただそれだけじゃ。

幸せというのは、欲にかられ自我にかられ何かを獲得し
何かを所有するものじゃない。
そんなものじゃない。
幸せというのは心の中で、魂の中で幸せをかみしめること。
幸せを感じること。
それを幸せというんじゃ。

幸せを、何かを所有しようと、得ようとしようとするから
そこに立身出世の方法とか
その何かを得るための目標とかそういうくだらない
まあ、わしから見たらつまらない理由において
人生をあくせくあくせくとして不幸の種を、それが得られないからといって
結果的に人間は不幸だと愚痴り合うようになる。
「なら最初から、そんな目標なぞ持たねばいい。」
極論かもしれないけど、わしはそう言ったんじゃ。

「そんなものを持たなくても、魂を自由に解放していったのなら
自らの神の子としての部分がこんなにあふれて出てきて、
こんなに幸せなんじゃよ」と
わしはそういうふうにみんなに言っていた。

「頭のいかれた気違いジジイがまた、今日もあんなところでほえているわ」と
言われたかもしれん。
でもそんなものは誰が何と言おうと、わしには何も関係のないことだった。

ちょびっとばっかのお酒と、ちょっとばっかの釣りの道具を持って
それこそ自然の中で、山や川や月の美しさや、潮の満ち干や
川の流れに光が当たって、キラキラ反射するその光の美しさや
季節の中で自然の、緑が萌えあがるような若葉の美しさや、紅葉の時や
花々の四季の移り変わり、近くにいる子どもたちの笑顔
かわいく美しく育っていく近所の娘さんたちのかわいらしい顔、おしゃべり
人びとのさざめき合い、そういうものを脇でニコニコと見守っている。
それを幸せな風景として味わう。

「そんな人生でも、十分人生は幸せになれるんだよ」と
そういうことをわしは言いたかったんじゃ。
けっして努力目標を持たず、「努力をすることはバカげている」とか
「向上心を捨てろ」とか、「知識はくだらない」とか
そんなことを言った覚えはない。

「知識は持つなら持ってもいいけれども
知識というのは、たくさんの知識のとりこになってしまうと
自由な発想というものから縛られてしまって
魂がとっても不自由になってしまう。
そういうことがあるよ」と、わしは言っただけだ。

知識をつきつめて、ほんとうの意味で智慧となさず
「自らの神の子としての部分、神の子としての光、
神の子としてどういうふうに生きたらいいかというか、
素朴な純真な部分というものを、
純真な魂というものを失ってまでそんなものを詰め込む必要はあるのかね」と
わしは言ったんじゃ。

(2005.9.10 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-12 07:27 | 老子 | Trackback | Comments(0)

高橋信次からのメッセージ(39)

彼ら地獄界に、無限のエネルギーを供給している人類がいる限り
彼ら自体が悟ることは遅れてしまう。
人類一人ひとりが理解して、彼らに撹乱されず
地獄にエネルギーを送らなくなったときこそ
神の子として、みんなで上がっていけるんです。
この地上を浄化できる。
それをもって仏国土ユートピアが実現するということ。

だから私は生前、「人の心というのは、エネルギーに満ちている。
人びとの心がすべてをつくっていくのだよ」ということを言いました。
思いからすべてが発する。
思いを愛のチャンネルに変えていかなければ
この地上の闇は、地上の闘争と殺戮の歴史は永遠になくならないのです。

個人個人の思いを、愛の思いに、覚悟を決めることから
すべての人類全体を変えていく、大ルネッサンス運動がはじまっていく。
だから、九次元から根本理念を、愛を中心に降ろしているんです。
九次元が、たとえどんな九次元が出ようとも
基本的に、伝えることはそれに尽きるのです。
その教えが、人生の中に、さまざまに応用されていくだけです。
それを今、伝えている。

七次元の卑弥呼、日向さまもお話ししてた。
尊い教えだと思います。
私たちは、九次元だから偉いなんて思っていない
九次元だからって上でふんぞり返ってるわけじゃない。
彼女たちも、七次元だから低いなんて思っていない。
彼女たちには彼女たちの誇りがあります。
七次元として生き抜かれた誇りをもって、同等にお話する。
私たちは、彼女たちに対して、敬意を払って礼を尽くすのです。
彼女たちに対して頭を下げ
彼女たちの、神仏の使者としての仕事のすばらしさに、神の姿を見るのです。
それは九次元であれ、七次元であれ、八次元であれ、六次元であれ
何ら変わりはないのです。

ですから、縦のピラミッド構造で、上が下を見下しているような
そのような思いは天上界にはない。
それどころか、上に行けば行くほど、我が身の小ささを
自分のエネルギーの至らなさを感じるのです。

そう考えれば
自分の中で手かせ足かせになっていたものが、すべて外されていきます。
すべてがなくなったときに、自由になってくる。
愛はどこまでも無限に広がっていく。
上に行けば行くほど、何も持たないありのままの姿で
神の愛の通路として、愛の表現体としてだけ、存在するようになるのです。

そうなってきたときに、ほんとうの意味で自己限定がなくなる。
自由になるということです。
その姿が自由なのです。
愛の創造原理、宇宙の創造原理はとても自由なのです。
惑星意識になられた方は、ご自分たちの愛の表現形としての惑星
修行場としての、表現としての自由意志を与えられるのです。

惑星意識は、陰陽合体の中のエネルギーにおいてひとつの惑星を育むという
使命を与えられるのです。
私たちのさらに上の、惑星意識になられた方ですよ。
その方には、惑星を修行場とするために
自由意志が絶対的に与えられるのです。
自分の身を犠牲にしているように思われるけれど
それは、私たちが犠牲という言葉を使うだけであって
ご本人は、喜んで自分の体を、自分のエネルギーを捧げるんです。

その中において、神は最大の芸術家と言いますがー、
惑星意識になられた大霊が、どのような思いで、愛の修行場として
自分の惑星をつくっていくか、役割を果たそうとするか。
それは、役割において、大いなる自由意志で
惑星に生まれる万象万物の母となり
父となるエネルギーになるということです。
それはすごく大きな自由意志で、自由の発散であり
クリエイティブな、創造的なエネルギーの表現となるわけです。

だから、九次元よりも上に、惑星意識があって
愛の思いを、自分で表現していこうという
私たちのさらに上の修行があるのです。
上に行けば行くほど、全犠牲的になって、献身的になるから
犠牲が多いから不自由で、すごく大変だなあと思う
それは、あなた方の考え違いです。
自身が、愛の表現として、愛の光として、自分の思いを
物質世界の中に、大字宙の中に、表現形としてあらわす惑星の意識-。
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惑星はたくさんあります。
恒星も、彗星も、いろんな星がある。
あなた方の知らない星がたくさんある。
そこであなた方の考えもしない文明が興っている。
それが、神に自由意志を託された、創造原理に基づいているものなのです。
すべてが、愛の根本的な理念に支えられていることを
あなた方は知らなくてはいけない。

上に行けば行くほど、自由意志は無限に広がっているということ。
そして、創造性、愛の表現形として、大いなる力を与えられていく。
それが権威づけのものでなく、支配的なものでなく
ただ愛として存在するという
あなた方の聴いている「存在の愛」というものの中で
万象万物を育み、そこに、惑星意識の大霊の個性があるのです。

みんな個性がある。
ほんとうに神はいろんな光をおつくりになったと思う。
そのくらい多様な惑星が生まれてきます。
そこに、惑星意識の大霊、恒星意識の大霊が、自分を表現していくのです。
大宇宙の中に少しもゆがみのない、大調和の姿です。
愛の表現形として、精一杯表現すればするほど
交響楽、シンフォニーのように、ますます光り輝いていく。

それはけっして不調和なものではない。
一部が全体の中で愛を表現するとき
それはけっして、全体を阻害するものではない。
愛の思いの中、神の子として
神のために生きようとする、献身的に生きようとする。
最大限の受身、最大限の献身の姿が
最大限の能動的な姿となってくるのです。
個性が発現するエネルギーとして光り輝くのです。

恒星意識と呼ばれている方の場合は、自分だけではなく
それが照らすあらゆる惑星を生かそうとする、大きな愛になるのです。
愛はどこまでも無限に広がっていく。
愛の認識という壁を取り払いなさい。
愛はどこまでも無限に広がっていく。
どこまでも愛し続けることができる。

あなた方が考えている以上の、大いなる愛が広がっている。
それは受け入れられるか、受け入れられぬかということ。
自分で壁をつくり、自己限定し、認識力に柵をつくってしまったら
愛するものを受け入れることにすら限定ができてしまう。
その柵を取り除きなさい。
大宇宙のすべてが神の子であると、受け入れていったとき
すべてを受け入れるエネルギーが、自分の中に見方として入ってくる。
それを、自分という通路を通して発現させる。
それが、大いなる大霊に近づいていく悟りの道です。
それが愛の原理なのです。

愛の表現形というのはそういうことをいう。
単なる道具として、ひとつの通路になるだけではない。
大いなる愛を、無限の愛を、あなた方の意識の中で広げていくとき
それは、無限の赦しの姿であるということ。
赦しの中で、無限の愛を生かす姿になっていく。
それを受け入れていくのです。
最後に、最大限の感謝という思いが出たとき
あなた方の通路を通して作裂するのです。
それが愛の表現形の姿なのです。

イエス様がおっしゃった話を
もうちょっと、大宇宙の根本原理にもっていくとそこに行きつくのです。
どんどん広げていけば、以後、惑星意識、衛星意識に
さらに、恒星意識になっていく。
自ら光を輝かせていく。
愛の純度、大きさ、広がりが、どんどん万象万物を生かしたいという思い
そこまで広がっていったとき、恒星意識になるということです。

九次元ごときは、まだまだ、愛を学ぶにはまだまたたなあと
そのように思いながらも
愛というものを地上にいる者たちに少しでも伝えたいと
そういう、まだちょっと執着がありますから
そのようなことが私は好きですから
地上にいる人類のために、あっちの星に行ったり
こっちの星に行ったりしながら神の愛の思いというものを伝えていく。
それが、私の役割でもあります。
でもいつか、私も、惑星意識、恒星意識になりながら
愛というものを表現したいなと思っています。

(2005.8.6 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-08-09 14:05 | 高橋信次 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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