地球を愛の星へ

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中山みきからのメッセージ(3)

あなた方はひじょうに知的にも優秀で、ほんとうに難しいことを
難しい、難しい法を任されておられる方がたです。
でもその中において、難しいことに走るがあまり
大事な、大事な人びとの心の調和とか、優しさとか
神様につながる男女の原点というものを
どうかお忘れないようにしていただきたいのです。
そこをもって、人びとは幸せというものを感じ取るのです。

いくらあなた方の時代にこれだけ学問を受けている方が多くても
やはり認識度においてはあまり高くない方がたのほうが一般大衆なのです。
一般大衆の神の子たちを、神さんのもとに近づけていける道をつくることが
神様の使者の仕事だと私は思います。

ですから、多くの大衆の人びとに対する愛というものは
けっして難しい難解な神理ばかりを述べたてることでもなく
逆に難しい難解な神理なればこそ、わたくしのように易しい言葉で
易しい身振り手振りで、歌で、人びとの心に伝えていくことが
かみ砕いて幼子に食べさせるように
口の中に含みかみ砕いて母親が食べさせる
私らの時代はそういたしました。

離乳食などというものがあまりないから。
硬いものはみんな母親たちが口の中でかんで
やわらかくして食べさせたものなのです。
そういう姿を、どうかあなた方も忘れないでいただきたいのです。
あなた方が語っておられるような神理、今これは大事なことなのです。

これだけの最高峰が出る、やっと時代がきたということ。
それだけの学問文化レベルの時代がきたという
そういう知性の頂点を極めてる時代であることを
私もよくよくわかってはおるのです。

おりますが、やはり私は取り残されていく十割のうちの
あなた方のその教えについていけるのが二割の者たちであったとしたなら
取り残された八割の者たちに
あなた方がどうぞその口でそしゃくし、かみ砕いて
わかりやすい言葉で伝えていくという道を
どうかどうか忘れないでいただきたいと
そのようにお願いしたいので今日はまいりました。

あなた方が今おられている書籍を編纂されるということ。
それはほんにほんに素晴らしいことだと私は思います。
というのは、私の時代にもし文字が書けたのなら
もし書物が書ける者たちがおったのならば、そうであったのならば
どれだけ教義というものも歪まず、ちゃあんと正確に伝えられたことでしょう。

でも、やはり多くの者たちは文字が読めず
多くの者たちには、たとえわたくしが書いたとしても
やはり読みこなせるものたちが少ないし、難しいことを言ってもわからないし
だからやはり目で伝えていくことが大事であったという時代なのです。

そして出版技術というものも、今日ほどそのようになかったから
すべて手書きでございました。
あなた方の時代は、わたくしたちの時代に比べたのならば
はるかに恵まれた時代であるということ。
そのために、この間からお出になられておられる
明治維新の志士の方がたのお話があったのやと思います。
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あなた方は、その時代の彼らのご苦労を通ってきたればこそ今
今日のような言論の自由とか
自由なぞという言葉は我々の時代にはなかったのです。
でもあなた方には言論の自由もあるし
人権というものもちゃあんと保障されてる時代に生きておられます。
出版の自由もございますし
そのような技術というものが、もう普及してる時代に生きておられます。

そして信教の自由、宗教の自由というものがおありでしょう。
私たちのときには、自分の信じてる神さんの名を唱えただけで
神道の国粋主義の神様の名前を唱えないと、神道の名前を言わんと
それだけで私たちは牢屋に入れられたのです。
その教えを曲げるまで、何日も何日も冷たい牢に入れられ
拷問を受けていったのです。

ですから、その中で何度投獄されても、私は教えを変えませんでした。
そのような戦いの中で、私たちは神一条、神一筋に生きることだけを
姿を残すことによって、神様のありさま
神様の教えがここにあるよということを
人びとに伝えることをもって、その使命としたのです。

ですからあなた方に申し上げたいのは、私たちの時代
そして竜馬様の時代に見たならば、いろいろと危険なことがあるのは
この間見ていてもわかりますが
わたくしが乗り越えてきたあの時代の苦しみに比べれば
あなた方はひじょうに、ある意味で安全な恵まれた時代に
生きていらっしゃるのだということを理解していただきたいのです。

その時代に生きていた者は
成果としては大したものは残せなかったかもしれない。
でもあの時代に生き、あの時代の日本の中で精一杯生きた者として
あなた方はあなた方の時代の良さを、すべてを引き受けて
そして、私が背負うた使命よりもはるかに大きな使命を背負われようと
あなた方はしておられますが、その使命を精一杯しっかりと肩に背負うて
この残りの人生を生き切って
神一筋に生き抜いていただけんもんやろかと思って
私は今日、お願いにまいりました。

(2005.6.30 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-31 07:59 | 中山みき | Trackback | Comments(0)

ヘラからのメッセージ(2)

それが源流となり、後のソクラテス、プラトン、アリストテレスを通す
西洋文化圏における、学問の祖という発祥を導いたのです。
神の中から生まれし叡智でなければ
いかなる学問においても意味をなさぬということを
しっかりとそのギリシャ思想のバックグラウンドには込められているのです。

であるから、ソクラテスにおきましても幽体離脱を繰り返し
プラトンのイデア論においても、天上界のことを
その時代の最高の知恵者と呼ばれた者が語ること
そのことをもって最高の叡智とする。
その者たちが語り伝えたことを最高の学問とするということから
西洋の学問は本来、発生していったのです。
それが、我々が期待をした学問の本来の姿であったということです。

しかし、その後、学問は神とたもとを分かち
神の叡智を自称するためのものが学問であったにもかかわらず
哲学とかいう思想にあったにもかかわらず、その神を否定し
勝手に人間たちが、自分自らこの地上の知に溺れ、自惚れ、神を否定し
勝手に自己がすべてであると、神とともに歩まぬ学問を
近現代において展開してきたのが現状ではないのでしょうか。

すべての学問においても、生物学においても、医学においても
哲学もちろんです。
哲学においても、経済学においても、文学においても
神を基盤とした神の叡智より流れいでる、その叡智を学問の基盤としなくて
いかに学問の真髄というものがあるのでありましょうか。

人びとの知恵と呼ばれるものは
ソクラテスが言った通り、無知の知というものがあります。
知だけに溺れ、詭弁に溺れて、たとえ、どれだけ相手を論破できたとしても
自分は、本来は、神の叡智の前には何も知らぬ者であるという
そのような深い認識をもってこそ
初めて深き神の子としての知恵の扉が開かれるということ。
それをもって知恵者というのであるということ。

表面的な知の遊戯に浸っている者は、知恵者とはほど遠い者であるということ。
本来の知恵者という者は、深き信仰心により神の叡智に直結し
己が神性を通し、神の叡智を自らの中に導き入れ出せる者
その者をもって真の知恵者といい、神の叡智を体現する者というのです。

ギリシャ思想の中における学問、神の叡知というものからの
地上における映し出された、実証されるべき姿を
本来がギリシャの学問というのです。
神の叡智抜きに地上の学問はあり得ないということを
私は申し上げているのです。

私たちにおきましても、神と呼ばれる神格を持った者たちというのは
何が違うかと申しますと、神の根源に対する宇宙の根源の
神のエナジーに対する絶大なる信仰心というものが
並外れて大きい、ただ、それだけのものなのかもしれません。

そのことにおいて、人びとは、人びとに対する指導の中に
なんとか地上の神の子たちを指導していきたいという思いの中で
我々は深い信仰心を通して、宇宙の根源に直結することにより
その叡智を自らの中に導き入れ、人びとを指導する際
縦横無尽にその知恵を、叡智を自らの中に導き入れることにより
地上の者たちを指導し、善導するという権限を与えられている者たちなのです。
そうでなければ何の意昧もないということなのです。

我々の叡智というものは、自らが何も知らぬ、しかれども宇宙の根源の神の一部
分かれ分光された霊性、霊体であるということ、魂であるということ。
それを深く、深く認識することにより、己が神性のパーニャパラミタの蓋が開き
直結して神の叡智を導き入れることができる。
語ることができる。
そういう者たちが我々、神格を持った者たちなのです。

だから、パワトロンと呼ばれるひとつの機能を持っておりますが
そこを通して、パーニャパラミタからいずる、神の叡智というものを
人びとにダイレクトに伝えるという、そのようなものを与えられているのです。

我々が命をかけ、身を粉にし、地上の神の子たちを善導するために
その叡智というのは使われないのならば、そして、宇宙の根源であり
神の神性というものを地上に映し出すために、その叡智というものが
その自らの中にあるパワトロンなどを通して表現されないのであるのならば
我々の神格などというもの、神と呼ばれるような呼称というものは
全く無意味なもので、無用の長物と呼ばれるものになるでしょう。
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我々は単に神格を与えられているのではなく、人びとを一人でも多く善導し
神の国に近づけるためのお手伝いをし、この地上に神の御姿に似た
地上ユートピアを実現させるために
様々に心を砕きながら努力してくる姿をもって
我々は神の使者であると
神のメッセンジャーであるという立場を許されている者なのです。

ですから、この者においても、その同じ使命があります。
本人がやりたくないと言っても私同様、霊言を受ける能力を持っている以上
このようなメッセージを地上に受ける
そのような信託を受けし巫女的な部分というもので
神に奉仕しなくてはなりません。
神に奉仕し、地上の者たちに奉仕しなくてはなりません。

その人生を投げ打って、神のメッセンジャーとして
この地上の生を自らの喜びや願望ということ以上に
神の本来お考えのご計画を、そして今、地上の者たちがどのようなことで苦しみ
地上の者たちの幸せのために、何かできるかを、常に自らよりも優先して考える
そのような姿でなくては、この者は使命を果たせないということなのです。

私たちもそのような役割にあり、それぞれの悩みや、それぞれの苦しみや
修行の課題を、テーマを持っております。
それは当たり前のことなのです。

すべての地上に肉体を待ちし人格神は、といえども
すべてが修行中の神の子でありますから
いろいろな苦しみを自分の中で乗り越え、成長させていかねばなりません。

その個人的修行の部分と
それを超えて人類に神に奉仕していくという姿をもってこそ
神のメッセンジャーとしての役割を果たせるということ。
そのようなものが我々ギリシャの、オリンポスの神々と呼ばれて
下生した者たちの役割の中にございました。

今、思うと、それぞれがそれぞれの役割を担いました。
音楽、哲学、戦、あらゆるものを通し人民の心を豊かにし
少しでも自由で、おおらかな喜びに満ちた神の子の地上ユートピアを
地上に具現するためにはどのようにしたらいいかという
役割分担というものをそれぞれが持って、ギリシャの時代は
我々、神々と呼ばれている者たちは、精一杯、努力していたのです。

それが今や、今日に至るまで、ギリシャ文明、ギリシャの文化と呼ばれる
ある意味でひとつの頂点を極めた文化のひとつになったのではないでしょうか。

パワトロン:菩薩の境地(七次元)以上の者の霊体に出現する
霊的機能のひとつ。
自らの体を通して、神の光(愛)が流される通路のようなもの。
パワトロンが位置するのは霊体の胸、心臓部のあたりに渦を巻くような
エネルギーのスポットとして確認することができる。

(2005.6.9 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-29 07:41 | ヘラ | Trackback | Comments(0)

中山みきからのメッセージ(2)

私はけっして難しいことは言わなかったのです。
難しいことを言ってもわかるような者たちでなかったから
わたくしのような、わたくし自身もそんな学問を受けておりませんでしたから
わたくしのわかる言葉で、わたくしと同じような者たちにわかる
神さんの摂理というものをお伝えしていっただけなのです。

そのときに、民衆の娯楽の中にその歌というもの
そして踊りというものを込めていくということが
ある意味でひじょうにあっという間に多くの人びとに
わたくしの舞いという
踊りというものが伝わっていったことにもなったのです。

はるか遠くの場所にまで、その踊りというものが
歌というものが広がっていったはずなのです。

ですから、あなた方にも申し上げたいのです。
あなた方の時代には、今このように霊言集というものを降ろされて
このように小冊子という書籍を持てる、ひじょうに周りの人びとも
高度な学問を受けられた素晴らしい時代であると思います。

でもね、多くの人びとは、それを読んでもわからない者たちがいる。
その者たちへの一般伝道の道が出てきたときに
どうかあなた方にお願いしておきたいのは、わからぬ者たちにも易しい言葉で
神さんの摂理を易しい言葉でわからす手段というのを
常に置いておいていただきたいと思うのです。

その意味において、あなた方が次に一般伝道の中に芸術を使ってということを
言われるのは知っておりますが、そのような段階になったときに、感性に
そして人びとの生活に根づいたものの中で、自然に入っていく言葉を通して
人びとの心に神さんのお心というのを伝えていく道があるのやということを
どうか、あなた方にもお伝えしたいのやったと思って今日はまいりました。

私の教えは天地創造のときから、というのを先ほどおっしゃって
ご存知の方がおられるようなので
あなたはそのようなことを知って育てられたからだと思いますが
この方は何もご存じないようなので、わたくしは逆に、そのように昔
説いた話ということにあまり関わって解説をしてもしょうがないと
思っておりますから、あまりは申しません。

ですが、ひとつだけ申し上げておきたいのは、私の時代の中におきましては
民百姓たちが、このような時代の中で
少しでも少しでも救われたいというふうに思う
そういうふうな、士農工商のような封建時代というものを越えたその先に
あなた方がこの間とられていた明治維新の方がたがおられましたでしょ。

あの方たちが出て来るという一連の神さんの世界の
天上界の計画のひとつとして、私も中山みきとして生まれてきたという
そういう事情があったのです。

江戸末期にわたくしは出ました。
取り残された民衆たちに、少しでも幸せになっていく道を伝えたかった。
そしてその者たちの苦しみが、下から、底辺から上がっていきながら
かつ、組織体制としても、この間言われていた坂本竜馬様とか松陰様とか
いろんな素晴らしい方がたが出て
明治維新やなんかのそういう改革をしていくという
怒とうのような今日の近代日本につながるという
そのようなことの、天上界の計画の一環として、私は先駆けに出たのです。

谷口雅春様とか、畏れ多くも高橋信次様と言われるようなお方がお出になる
その宗教界の改革の前触れとして、先がけとして
わたくしがこのような江戸の末期に出たというのがあるのです。

どうしても男性たちの改革者が出られると
やはり底辺の者たちを救っていくということはひじょうに難しいのです。
まず、組織体制の中から変えていくという大改革が行われていく
その時に私は出て、神一条の、神一筋のその思いというものを
素朴な、その恵まれぬ民百姓たちの身になって
神の愛というものを伝えていきたいと願い出て
許されて出ていった者であるのです。

しかしそのあと、皆さま、ご存じかもしれませんが
日本神道というものの流れの中で、神道に属さねば宗教は皆つぶされる
お取りつぶしになるという、そういう戦時国家の流れの体制の中で
わたくしはたいへん何度も投獄されましたし、そのような中においても
私は神の社となって、その信仰心そのものを神の地上代行者として
そのままに生き抜いていく姿を見せてこそ
人びとは私の姿を通して神の存在を感じてくれるのだと
そのように守護霊にも言われましたので
頑張り抜いてあの時代を生き抜いたのです。

わたくしが教えたことは、あなた方が教えられておられることから見たら
ほんとうにわずかなことだし
たいしたレベルのことではないかもしれないけれども
でも一粒の種まかずんば、その後に芽が生えることがないという
偉いイエス・キリスト様のお話もあられるように
わたくしがまいた種は、先ほど言いましたけれども
信者と呼ばれる者たちが出るのに
ほんとに長い年月をかけて広がっていったものなのです。

でも、私は長生きをいたしましたゆえ
その四十から始めて九十五歳ぐらいまでの間の流れの中で
人びとの気持ちの中で、九十歳までの間の中で、一生懸命生きて
その姿を、神のお社としての姿の模範を見せたつもりでございます。

そして、その間にまいた種というのが
一時期は私の教えをそのままに言ったらつぶされると言って
いろいろな形を変えた形で
私本来の望みではない形にはなりながら継承はされていったけれども
今この信教の自由の時代になりまして
また私の思いを復活してくださる人びとが出て来たということ。
それが今の天理教の流れの中にあるということを
今の信仰している方がたに労をねぎらいたく思います。

とっくに立ち消えてもおかしくない我が教えを
今日まで伝えてくださったということ。
あの戦時下にあり、ほんとうのことを言えばつぶされてしまうような中で
形を変えることが私の教えを曲げることになる
嫌でもつぶすわけにはいかぬという悶々とした中で、まさに彼らは現実の中で
信仰心とは何であるかということを自らに問いながら
今日までつなげてくださったということに対する
今の天理教の方がたに対する
お礼と感謝の意をここでひと言申し上げたいと思うのです。

ただ、その教えの中でわたくしが説きました教えは
ひじょうに素朴なものでございました。
その教えの原点に戻ろうとしている流れがあるということを
私はたいへんうれしいと思っております。

ただ、あの時私が説いたこと、そして私が今言いたいことという延長の中で
今私が出たことを、昔説いたことの教えの延長に
この神々の、天上界の大いなる計画がある。
そのことをどうか我が教えを信ずる者たちも聞いていただきたいと思うのです。

そして、わたくしが単に天理教というものだけを通して
世の中を変えていこうと思うよりも、大いなる天上界のご意思の
大いなる尊い神々のひとつの使者としてあの時代に出て
神様の心をこの地上の方がたに伝えるために出てった者であったということ。

であるならば、天理教という教えのひとつの中にこもっているのではなく
今の時代は、もう地球規模的な意味で
そして何を考えよう、私か説いたこの教えは日本にあります
この日本という場所が
今のこの世界の霊文明の夜明けと言われている時代の中で
どれだけ素晴らしい場所に位置しているかということ。
まさに、光の奔流を世界に放つ原点の場所にいるということ。
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わたくしが生前、「おぢば」という言葉を申しました。
そこは神さんが、神の光が出る
信仰心の中心になる場所であるということを申しました。

「おぢば」というのがあるのならば
今はこの日本列島すべてが、「おぢば」でございます。
そしてこの「おぢば」より光を放ち、この地球すべてを光でくるむために
天上界の神々のご計画はあるのです。

ですから、わたくしはそのために
お力添えをできたという喜びを持っておりますので
どうか皆さん方もみんなで手を取りおおて
私が昔申したように、手と手を取りおおて
キリスト教徒も仏教徒も、日本神道も天理教の者も、のう
谷口雅春先生がお説きになったと呼ばれている生長の家の方がたも
そのG会と呼ばれている方がたも
仏陀のお出になられたK会の方がたの皆さんもね。
同じ日本に生まれたそういう尊い仲問たちではありませぬか。
どうか皆さんで、私が言ったように、手と手を取りおおて
一緒に舞ってみてはいかがでしょうか。

「神様の計画の中で、この素晴らしい最後のこの計画の中で
互いにいがみ合うのではなく、互いに素晴らしい個性を生かし合うことで
そして男女がともに尊重し合う中で、神さんの喜ばれる
苦楽のない素晴らしい大調和の世の中をつくろうよ。
喜びに満ちて一緒に歌おうよ。
一緒に踊ろうよ」と私が申したのでございます。

今の、「宗教」と呼ばれてるものも数々の苦しみがあり
数々の分裂があったのです。
そして確かに日本神道の流れの中に統合しようとして
わたくしの教えも弾圧を受けたということを、よくよく知っておるのです。

でも日本神道の神さん方も、やはりこの日本という場所を預かり
この日本という場所の磁場を大事にしながら、神の国土へなさって
努力なさられてきたということなのです。

ですから江戸時代の、あの時代の民百姓たちの、狭い、狭い世界の中では
あのようなことは大事であったけれども、今それをもっと広げてみるのならば
いろいろな宗教がこの日本には混在して
ともにひしめき合っているように思うかもしれないけれど
でも、それなればこそ、今日レムリアというところで言われている
万教帰一と申しましょうか、あらゆる宗教を一度るつぼに投げ込み
ひとつの世界宗教へと育て上げていく、発信していくそのような場所として
そのような地盤としてこの日本が与えられたからこそ
日本神道、仏教、キリスト教、さまざまな教えが
この日本という小さな、小さなお国の中に流れ込んで
その中において、今日すべてを見渡しながら
そこで世界宗教への道を歩む大事な地盤というのを
日本神道の神さん方がおつくりになられて用意されてきたという
そういう時代背景があったということを
私はこちらの天上界の世界に帰って来てからすべてを知って
ほんとうに素晴らしいところに仕事をさせてもろうたんやというふうに
心から感謝しております。

ですから、どうか皆さん方も仲良く手を取りおおて
神さんの計画に頑張っていただきたいと思うのです。

(2005.6.30 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-24 07:20 | 中山みき | Trackback | Comments(0)

ヘラからのメッセージ

私はかつて、この方(アマーリエ)の母として
ともにギリシャにおける文明というものを通し
神のお心というものを、地上にメッセージを伝え
人びとを、いかに神々のご意思に沿って地上の者たちを幸せに導くために
ゼウス神はじめ
数々の神格を持った者たちとともに頑張った者でございます。

今再び、この日本という地におき、天上界よりの計画のもとに
新たな神の叡智が地上に送り込まれようとしております。
わたくしたちの時代におきましても、私も天上界の神のご指導により
そのメッセージを受け取り、ゼウス神に伝え、それをその時勢における
治世、世の中を治めるということに助力した者でございます。

かつて、戦乱が多く、人びとの心は荒み、領土を求め、戦に明け暮れ
人びとは少しも心の安らぎも、安定もなかった中で
天上界よりのご指導により
ギリシャというエーゲ海を臨む、あの美しい場所に
霊的なスポットとしての使命をギリシャは与えられ
その叡智の極みを天上界よりのご指導とその通信により
一大霊文明を開化させたのでございます。

いつも霊的なソース、根源からの叡智が降りる霊的なスポットというのは
勝手に人びとの意志で決められるものではなく
常に天上界における地球神、地球指導霊の方がたのご計画に沿うて
霊的なスポット、エリアというものが決定されるのです。

わたくしたちはその時、ギリシャという場所を通して、ひとつの完成を通し
知識、叡智、芸術、スポーツ
ありとあらゆる文化をおおらかに開花させていくことにより
そして戦いによる終結を望みながら、ゼウス神のご指導のもとに
エーゲ海を臨む、ユートピアを目指した霊文明を目指したのでございます。

ひじょうにおおらかで、人間的なギリシャの文明は、その後
その信仰心と天上界とのパイプという、パイプラインを引くという
巫女たちによる神託という形で
天上界と地上の旅人たちとの架け橋をつくることで
人びとの心は常に天上界に
天上界の指導のもとに心合わせ、導かれたのです。

人びとは、常にわたくしたちを神と呼び、厚き信仰心を持ち
わたくしたちを通して
わたくしたちを超えた天の神に対しての厚い信仰心というものが
日常生活の中に根づいた姿を持ちながら
人びとは、その神の子としての、己が神性の素晴らしさを開花させ
その有り余らんばかりの才能を発揮し、オリンピアというスポーツの祭典
ギリシャ哲学と後に呼ばれたソクラテスとか、プラトンとか
様々な叡智を運ぶ者たちがその知の光線により
神の世界は叡智によっても追求され得るのであるという-。

根本的な知というものは、天上界のイデア
神というものと常に共存し、一体となり
学問の基本は打ち出されるべきなのであるという、ギリシャ思想の根本により
人類の学問となる、学問の祖となるスタートを切ったのです。

常にデルフォイや、様々な所における神託と呼ばれる巫女たちが
神々の言葉を預かりながら、人びとに伝えていく。
神とともにある信仰生活、神とともにある学問、神とともにある芸術
神のための祭典としてのオリンピア、すべてが神とともに
神の子たる人びとの日常の生活の中に、神というものを存在させ、気づかせ
神とともに生きるということをもって
自らの神の子、神性を開花していくという
そのような方針をゼウス神は立てられ、あの文明をつくられたのです。
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ですから、芸術においても、神殿の建設、そして彫刻、様々な
今残っておりませんが、絵画にしても、多くの芸術作品が神とともに
神の子である人間たちが生きるその素晴らしさを、賛美を
作品の中に表してこそ
その芸術としての価値の高さというのが求められ、表現されていったのです。
それは今日の文明における、近現代における芸術のあり方とは
明らかに異なっているものだと思うのです。

わたくしたちは神を、神という名を名乗ったかもしれない。
神ではなく、単なる指導霊であったにもかかわらず
神と名乗り、女神と名乗ってきて
一般の者たち、大衆を指導したのですけれども
それはわたくしたちにおきましても、神であるというのではなく
逆にいうと、神に人びとを近づけていくためのお手伝いをする立場の者。
キリスト教で言うならば
エンジェルという立場の役割をわたくしたちは担い
人びとに神を気づかせるために、人びとには自らを神と名乗ることにより
強烈な求心力を持ち、指導した姿があったのです。

ですから、わたしくたちも、自らを神と思っていた訳ではないし
我々にしても、今日のような時代にこそ、人びとに対し
やっと本来の神が、宇宙におかれる愛のエネルギーであるということ
我々を創造された
一切のものを創造された創造主こそが神であられるということを
ギリシャ、多神教の者たちもよくわきまえているのでございます。

それは日本神道におかれる神々におかれても、そうだと思うのです。
やはり世の中を指導するのに
原始の時代においては、人びとの認識力があまりに低いので
わたくしたちが神という、女神ということを名乗ることにより、指導して
信仰心というのを打ち立てるという方法論があり
なおかつ、その向こうでは、一神教と呼ばれる創造生のみを神とする
そのような指導の仕方、救世主
メシアと呼ばれる方が立たれて宗教をおこすという
方法論としては二つのものが取られたのです。

我がギリシャにおきましては、多神教と呼ばれるそのような立場をもち
わたくしたちは指導霊として、高級指導霊として
人びとのもとに下生することにより、神を名乗ることにより
ひとつの、人びとの中に人間的な近寄りがたい神ではなく
わたくしたちも悩み苦しみ、様々な問題を抱え修行しなくてはいけない
努力の過程にある苦楽をともにする身近なる神性のある者として
人びとに対して語りかけることにより
神というものが単に日常生活から遊離し、かけ離れたところにあるではなく
人民とともに一緒に歩むのが神の姿であるということを打ち出すために
わたくしたちはその神という名を名乗ったのです。

それが他の文明、他の文化圏とは多少、ギリシャにおきます
文化圏の信仰のあり方の違いでないかと私は思っているのです。
でも、すべてが学問においても、政治体制においても
政治の指導者、国王たちであっても、王たちであっても
デルフォイの神託に伺いを立てに行きました。

すべてがその信仰心のもとに工たちも政治を行い、戦争をし、人びとを治め
王であったとしても、数々のオリンポス王とか
神話を通して伝えられるように
この世的な成功者であっても、どれだけ支配力を持った者であっても
神のもとにおいて、過ち多き人生を行うのであるのならば
神により、その罰というものは
皆、平等にその本人の不幸、不運となって返るのであるということを
デルフォイの神託や、様々な神託を通して伝えることにより

そしてその姿を、語り部と呼ばれる
後のギリシャ神話と呼ばれる姿に残していくことにおいて
神の絶対的なる天上界の神のもとには、地上の最高なる為政者としても
赤子のようなものであるということ。

だから、人びとよ、天上の神に対して謙虚であれとー
この地上は、単に神よりいっとき与えられし仮の姿であるということを
神あっての神の子たちの姿であるのだと
そのように、まず生活の中を通した
絶対的なる信仰形態というものを打ち出しました。

そして芸術を通し、数々の神殿をつくることにより
人びとに視覚的なものを通しても、神というものがどのようなものであり
神を崇拝し、神に祈りを捧げるということが、どのように厳かな場所におかれ
神に通じていくのかという、そのような場所をつくっていくことにより
人びとの信仰対象をしっかりと絞り込んでいったのです。

人びとは、やはり難しいことを言ってもわからぬ時代
目に見える姿で、神殿の中の厳かな姿の中で
そして、その神殿に、それぞれにいる、信託を受ける巫女たちの姿を通し
神に対する恐れというもの、畏怖心というものを直に肌で学んだのです。
その姿を、美的なものを通し、文化を通し、そしてそれが叡智を通すことにより
神の中には叡智という、知恵というものがあるということも
しっかりと打ち出したのです。

(2005.6.9 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-22 12:01 | ヘラ | Trackback | Comments(0)

中山みきからのメッセージ

わたくしは中山みきと申します。
あなた方のお知りおきの記憶の中では
天理教と呼ばれているところの教祖と呼ばれた者でございます。

あの当時は江戸時代という封建時代の末期という時代の
世の中がまだまだ士農工商と呼ばれる身分制度の中で
人びとの自由意志というものは少しも通らず、その身分
そして男女の差別の中で
人びとは食べるものもままならず、生きる目的も知らされず
ただただその体制の中で
縛られるような閉そく感の中で生きていた時代だったのです。

わたくしはその時代に生まれました。
そこで一介の、農家と言っても多少は大きいうちでございましたが
そのような、まあ農家は農家でございます。
そこの妻として、母として、嫁ぎ先で一生懸命
普通の平凡な人生を送っていた者なのです。

でも、私の心の中にあるのは、いつも神さんと一緒に
人びとがみんな自分たちの個性を、それぞれの素晴らしさを光り輝かせて
みんなで手と手を取りおおて、みんなで幸せに
神さんの喜ばれる世をつくろうやないかという
そのような思いで生きていたのです。

ですから、私の気持ちの中には
結婚して、その中で幸せだけを見いだすというよりは
なぜにこのように農民の世界にも庄屋があり
そして畑を持ってる者たちがおり
そして水呑み百姓と呼ばれる小作のように、一生、人の田畑を耕しながら
一生、生きる望みも張りもなく、食べるだけに追われ
いや、食べるものすらままならぬ、ひもじい思いをして生きていくという
そのような貧しい者たちがたくさんいるのだろうかという思いを
持ち続けておりました。

わたくしが四十近くなった頃でしたか、たいへんな飢饉がありまして
多くの小作たちが、多くの者たちが次々と飢え死にしていったとです。
行って、その中でどうにか助けてやりたいなあと思っても
私の力ではどうにもできなかったのです。

なぜこのような天変地異が起き
なぜ一方ではうなるほど食べるものがあるのに
このような者たちは飢え死にしていかねばならないのだろうかと
その姿を見るにつけ、悲しくて、悲しくて、はらはらと涙が落ちたのです。

私は一部の富んだ者たちよりも、彼らとともに生きようと決意を決めました。
彼らが何も持たなくても、食べるものにひもじかったとしても
そこに幼子たちがおり、女たちのにぎやかな笑い声がさざめき
男衆たちの元気な働く姿があれば
人はこの世でいくらでも幸せに生きていくことができるのだと
私は思いました。

なら、人びとの心に、私にだけしか聞こえなかった
神さんの心をみんなに伝えていこう。
そして、物はなくても心がけは神様のほうに、ひとすじに向かって生きる。
そのような社会をつくることで、人びとの心の中に幸せな思いをつくり
それこそが、いちばんこの地上を苦楽のない素晴らしい
神様の喜ばれる地上天国とさせていくことができる道ではないかと
私は私なりに考えたのです。

それを指導なさられたのが、やはり私の守護霊であられました。
わたくしは若い頃から、神さんの声が聞こえておりました。
でも、それを言うことがあまり人には喜ばれず
私の心ひとつの中におさめておりました。

でも、その飢きんが起きたとき
自分の気持ちの、私の存在そのものが揺さぶりを受け
神様に、今思うと守護霊様に、さあ、お前が生まれて来たのは
ここに来て世の建て直しのための先駆けとして
人びとに神さんの言葉を伝えて
人びとに幸せな世の中をつくる、そういう生き方を示しなさい。

そして、わたくし自身が神の社そのものになりて、人びとに模範となりて
神の使いとして、神の使者として
この地上に生きるその姿を見せていきなさいというふうに言われたのです。

それを覚悟をしたとき、そのときわたくしは家族の者に言ったときにしても
周りの者たちの反応はたいへんなものでした。
今の時代よりも身分制度が激しいだけではなく
男女間の差というのもひじょうに大きかったとです。

ですから男女の中において、夫に妻は常に服従し
夫のもとに三つ指をついてその家のために生きるというのが
その時代の女たちに要求されていたものですから
わたくしが神そのものの社となりて生きていくと言ったときには
たいへんな反対にあったのです。

でも私の意志はもう固く
そして、いやだと言っても、もう神さんには離してももらえず
お前がその道を極めぬのならば、お前の命も絶ってしまおうと脅されるほどに
私はその使命というのを受け入れざるを得ないという状況におかれたのです。
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そのときに私の気持ちの中にあったものは
この百姓たち、学問もないこの民人たちの心の中に少しでも幸せと
そしてさまざまな無知な無理解さの中に、苦しみの中にあえぐ人びとに
少しでも神様の世界の様子を伝えて
そしてそれをわかりやすい言葉で伝えて
難しい漢字なぞ、そういう難しい難儀な言葉なぞはなく
すべてが易しい和言葉で、女、子どもたちにもわかる言葉で
私は口伝えに伝えてきたのです。

というのは、あなた方の時代と違いまして
わたくしたちの時代はほとんどが、周りの人びとが文盲でした。
文字も書くことができず、書物も読めず
そして伝える言葉もすべてが口移しで伝えていったのです。

だから私はこの世の成り立ちも、この世の摂理というもの
神さんの教えというものも
易しい言葉で、人びとのかけ声の中で、身振り手振りの、舞うことによって
ひとつの表象的な形をつくることによって、男女差別がひどければひどいほど
男性も女性もみんな五分と五分、どちらが偉いでなし、どちらが卑しいでなし
互いに手を取りおおて、みんな仲良く互いに助けおおて
万物創生の始まりはそこから始まったんよと言いながら
夫婦仲良く暮らしなさいというふうに、まず伝えたのです。

そして、そこで生まれた子どもを大切にして、子どもたちも親の元で
頭ごなしに親に服従するのではなくて、親を大切にし、みんなの喜びを
みんなの苦しみを分かち合うことによって
人びとの心というものを喜びに満たすことが
自分の喜びであり幸せであるという
そうやって世の中から
すべて苦しみのない喜びに満ちた社会をつくっていこうと
それが完全調和されていったとき
この地上はすべて苦しみのない世の中になるのやよと
いうふうに私は伝えていったのです。

わかりやすい言葉で、わかりやすい身振り手振りを交えて
なぜあのような舞いをつくって、踊りを私か口移しで教えたかというと
私の周りにいた者たちがみんな無学文盲な者たちであったから
ということなのです。

彼らにわかるには、彼らの言葉で伝えて、易しい言葉で伝えながら
そして彼らの身振り手振りを通して
彼らに信仰心というものをしっかり根づかせることを図ったのです。

だから踊りというものは、歌というものは
その時代は娯楽は何もありませんでした。
あなた方の時代のように、テレビだとか映画だとか
そのように楽しい娯楽がたくさんあればよいのですが
ましてや彼らは貧しい身分の者たちばかり。

何にもない、電気もない時代の中で
人びとが苦しみと飢えと貧困にあえぐ時代の中で
ただ唯一の喜びといったら、声を出して踊って騒ぐ盆踊りのような
そのようなものがひじょうに
民衆の中で祭りというのが根づいていった時代でもありますので
やはりいちばん原始的かもしれないけれども、ひじょうに人びとの心に
貧しい者たちでも喜びの娯楽としての部分がありながら、その形を通して
みんなが舞うことを通して
「ああ、生きてることがありがたいな。神さんありがとうございます」と
みんなで手をつなぎおおて舞いながら
「さあ、みんなで手を取りおおて、仲良く調和して
みんなで助け合って生きていこうよ。
これが人びとが喜び、神さんが喜ぶ社会だよ。
これが地上の苦楽のない時代、世の中なんやよ」と私は言いながら
人びとに伝えていったのがほんとうなのでございます。

(2005.6.30 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-21 14:17 | 中山みき | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(4)

愛があるからこそ、その病を治さないし
愛があるからこそ、その方が今貧乏している状態というものに
天からパラパラと小判をまくような
そのようなお金をまくようなことはなさらないのです。
それが愛の姿であるということ。

愛というのは、ただただ物質的や、精神的にちやほやと甘やかして
その魂をふぬけた
ひじょうに軟弱な状態にすることをもって愛とは申しません。

愛というのは、ほんとの意味で相手の成長を喜ぶ姿であり
ほんとの意味で相手を指導していくには
ときには厳しい環境が必要であるということを知っているのが
知恵の愛でございますから。

私たち守護霊、指導霊というふうに
だんだんなっていく者たちにおきましては
やはりそのようなことをわきまえておりますので
たとえどんな祈りがあったとしても、かなうもの、かなわぬもの
そして今かなえてはいけないもの
それというのは、わたしたちは考えて対処しているのでございます。

ですから、祈りというものがかなえられないから
神仏がいないというふうに思われるのは
あまりにも浅はかな価値観であるということを
どうか皆さま方もお知りおきいただきたいと思うのです。

そして何度も申しますけれども
今天上界でも言われていることは、基本的に大事なことは
地上がどういう意味を持っているのか。
肉体を持っているということが、どういう意味であるのか。
ほんの一時であって、この地上にいるのが
わたしたちが天上界で何百年もかけて修行してきた、学んできたことを
この数十年の、ほんの瞬間の間に問われてしまう。

まあ皆さま方におかれても、国家試験とか、大きな試験がおありでしょう。
五年も六年も一生懸命お勉強を
お医者様になるにはお勉強なさられるのでしょう。

一生懸命お勉強なさられても、でもどうですか。
国家試験と呼ばれている一発試験に受からなかったら
何のために医学部で六年間あんな勉強して、学習してきたのかと申されても
その国家試験というのに落ちてしまったなら
お医者様としての資格がいただけないではございませんか。

同じなのです。
何百年とこちらの世界で修行しているのです。
そして、ほんとうの意味で菩薩界
まあ、私の場合はまだ菩薩界の入り口でございますから
ボサッターと呼ばれているような位ではないのですけれども
ほんとうに菩薩界としての神格を与えられるには
やはりこちらで何百年と修行をして、それがほんとうに地上に出たときに
利他の、愛他行として
実際の地上の方たちをどのぐらいの規模で救っていけたか。
地上の人たちに対して救うべく、理念というものを、愛の言葉というものを
行いというものを通して、地上を浄化せしめることが具体的にできたかという
その評価をもってそれがある意味で、わたしたちから見たならば
五十年、六十年、人生八十年と申しましても
人間が大きくなるまではとても時間がかかります。

そして、まだまだ青年のうちは未熟でございましょう?
ですから、一生懸命学問を受け、自分の特殊技能を身につけ、経験知を磨いて
そして、人類に奉仕ができるなんていうのは
八十年の人生の中でほんの数十年しかないのです。
その数十年の間が、まあ皆さん方で言う、一発国家試験みたいなものなのです。

わたしたちから見たら、ほんとうに二十年、三十年なんていうのは
瞬間的に過ぎていく時期。
あんなにあの方はこちらに来て、七百年も八百年も修行をされて
あそこの世界までいったのに、「ああ今回は、アラハン行けなかったな」とか
「ボサッター、行けなかったな」とか、わたしたちの世界でもあるのですよ。

だから一生懸命見ていて、やはり地上において修行が
具体的に多くの人びとのために生きることができたか
ああ、やっぱり欲に足を引っ張られて落ちてしまったと
「残念だけど、またこちらの世界に帰って来て、修行のやり直しね」と
みんなで見ています。

そのようなことを思ったら、やはり彼らが地上にいるうちに
少しでも自覚をさせて
「あなたはそんなことのために出て来たのではないのでしょう」と
「自分の欲念のためではなくて、相手のために、人を救っていくために
奉仕していくために人生をお使いなさい。
それこそが、ほんとうに価値のあることなのです」と
皆さま方のところにお出になっている
高級諸霊もおっしゃられているはずなのです。

神の子の使命というのはやはり
多くの人びとの幸せのために神の言葉を伝えていって
そのために人生を燃やす人生。
それがほんとうの意味で価値がある。

目の前での日常の生活というのは、しっかりと生きていくことは
とても価値のある大事なことではあるけれども
やはり自分の幸せのためだけに生きていった人生よりも
自分を捨てて自らの幸せ以上に、多くの人びとの幸せを我が幸せとして
神の使者として生き抜いていった人生こそが、ほんとうに魂を光らす。
ほんとうにこの地上に出て行って素晴らしかったと
本人に、のちのちに思い出となるような、転生となるような
そんな生き方ができるのが真の生き方であるのだと
神仏の使者としての生き方であるのだということを
多くの方がたが、繰り返し、繰り返し皆さまを通して皆さまに向けて
レムリアでの高級指導霊の方がおっしゃられているのだと思うのです。
私は、まことにそのように思うのです。
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ですから、祈りということにおきましても
そして地上の意味におきましても、ね。
そうしますと病がどういうふうな立場になるかということもわかります。
ということは逆に言うと、地上に生きるということ、生の意味
生というもののほんとうの意味というのが
霊界と地上の生というものは、コインの裏表であるということ。
裏があれば、表も必ずあるのです。
表があって裏があるのです。
それは離すことはできないのです。

人間の魂が永遠であることを、まず皆さま方に伝えていく。
そして、転生輪廻があるということ。
で、転生輪廻は伝えられておりますけれども
転生輪廻の間に、霊界とこの三次元との行き来をしているということ。
それがコインの裏表なのです。

ですから必ずや、数十年の人生を終えたのならば
ほんとうの実在界と呼ばれている霊界のほうに戻って来る。
そのほうが魂の歴史の中では、はるかに長いのです。
時を、永遠の魂が送る意味においては。

そこにおける修行を、ほんとの意味で地上に具現化していく。
仏国土ユートピアと言うのならば
そのような人生の中に投影していくということ。
それができる試験場であるということ。

そのような魂の修行上の裏表であるということを思ったのならば
やはり魂が永遠の中において、わたしたちが今
地上の生と呼ばれているあなた方の三次元の生の中において何をするべきか。
何を堪え忍ぶべきか。
何を価値基準として、向上心の中において受け入れていくか。

だから、「病と闘うな」とよく言いますね。
闘病というけれども、病と闘うのではない。
病を受け入れて、自分の体質と共存して
それもすべて自分がインプットしてきたことであるということ
すべてを受け入れて、それとともに生きるということ。

なぜならば、それを自分は望んで生まれて来たから。
必ず、偶然ということはないのです。
あなた方の世界から見たら、すべて偶然のように思うかもしれない。
でも事故ひとつにおきましても、偶然はないのです。

それを通してわたしたちは大いなる代償を払いながら
それで自分の今まで知らなかった
魂のさまざまな膿のようなものを
出させていただいているのだというふうに思ってください。

自分からそのようなものを望んでやるのは、愚の骨頂でございますけれども
自然に時の流れの中で浮かびあがってくるものは、やはり魂の中にある
深い、深いところに潜んでいた膿のようのものの
膿出しかもしれないということをお思いになったら
その一時浮かんでくれば、現象化すれば、それは消えていくのです。

それがたまたま現象化していったときに
肉体の病というものを通したりして出てくるかもしれないということは
そのときには、その病をつかまないということ。
出ていけば消えていくのです。

その病と一時共存することによって、大いなる魂の代償を払って
自分の魂を浄化しているのかもしれないのです。

そしたら、「病よ、ありがとうございます」と手を合わせて
「どうか、この病を堪え忍ぶことにより、
私の魂も鍛えられ、清められますように」という
感謝の思いで、その病とともに生きていくのです。

そうすれば、病によって必要以上に悲しみとか
苦しみというのを抱えずに済むと、私は思うのです。

そのように明るく、前向きに生きていくうちに
病はいつかしら、より良い方向に進んで
ときには消滅してしまうこともあるのです。

明るい思いで生きているときには、神の天上界からの光というものは
その方にさんさんと降り注いできて、どのような状況であるにしても
そのような苦しさというものをやわらがせ
そして、それを軽く済ませてもらえるように動くのが神様の光である
愛念であるということをお思いください。
出れば消えていくのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-17 08:35 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

ヘレン・ケラーからのメッセージ(4)

幸せというのは、けっして多くのものを所有したり
多くの支配的な地位に立つことをもって幸せとするのではないのです。

自分自身の魂の中にある、神がおつくりになった神の子としての内的な霊性
スピリチュアルなものの部分が、その魂の部分が
ほんとうの意味で愛を解き放ち
愛に輝いた人生であったかどうか、そこの一点に尽きているのです。

女性であるのならば
家庭にいて子どもを産む仕事がそんなに卑しい仕事でしょうか。

子どものために自分を捨てて家庭の中に入り、自分を捨てて夫に尽くしていく。
そして、姑や舅に尽くしながら、そして空いた時間において神理を学び
世の中において少しでもボランティアとか
それこそハンディキャップのある方たちの生活の中に
少しでもお手伝いをして
地域の中の光となって輝く人生だってあるはずでしょう。
女性であるならば、そこに誇りを持たねばなりません。

男性は、仕事をしながら、金銭的にも稼いでこなくてはいけないのです。
その中で、女性が女性であるという中において
愛をたたえて生きるということ。
愛を輝かせて生きるというその姿を見せていただきたいと思うのです。

そして、男性方も、ただ目先のことで出世街道を歩いて
知的な部分で、ただただ自分の満足いくことだけにおいて
自分の人生をがむしゃらに生き切るのではなくて
自分が社会に対する愛の表現体として、社会を変革していく愛のもとに
価値ある仕事を生き抜かれたのであるかということを
今一度考えていただきたいのです。

あらゆる職業においても、そう、必要な仕事であります。
どんな仕事においても
愛をもって生きるか否かで、同じ職業の中身も変わってくるのです。

たとえば、あなたのようにお医者様でいたときに
世の中には、ただただ社会的ステータスを求めたり、お金を儲けたかったり
そういうことの中で、権力欲もあるでしょう。

そのようなものの中で医者になっていこうとして
一生懸命、出世を望む方たちもいるのです。
そうかと思えば、同じ仕事で同じ職場にいながらも
そこの中において、ホワイト霊団として恥ずかしくないような接し方で
患者さんに対して一生懸命関わり
医者としての本職、使命というものを果たしていかれるという
そういう携わり方もあるはずなのです。

それは、大根一本つくるお百姓さんの姿であり
そして家一軒つくる大工さんの姿であり、子どもを育てる保母さんや
学校の先生たちの姿であり、どんな職業においても、愛をもって世の光となり
地の塩となるために、その職業という天分を通して
この神の国であるこの地上三次元において
少しでも愛のある社会に変えていこうとするために
生涯を、職業を通して貢献なさられたのならば、死んでいかれるときは
それなりの魂の充足感というのがあるはずなのです。

ただただ目先の出世闘争、ただただ人より多くの地位や支配や
支配的関係や、金銭の多寡、マネーですね
お金をたくさん稼ぐ、お金持ちになるかどうかということ。
そのようなことの中だけで、人生を駆け抜けていってはいけないのです。

そのようなことにいったなら、必ずや家庭などが崩壊し
愛なき家庭がこの地上にできてしまい、自分が死んでいくとき
不幸な、不幸な思いで死んでいかなくてはいけないのです。

ですから、多くの方がたよ。
女性であっても男性であったとしても
どんな生き方においても、地上における自分たち人間の真の幸せとは
その表面的な外側にあるのではなく、内面的な自分自らの幸福感というものを
愛により、神の子としての神性を光らすということの原点に戻って
人生というものを考えていかれたのならば、それを広げていくのであるのなら
生まれつきの病に臥せっている者たち
そして生まれつきハンディキャップを持ち
ニ十年以上生きていけないと言われている身障者の方がたもおられるのです。
難病のもとに生まれて来られる方もおられるのです。
そのような方がたの人生を、単に不幸であると
そのように定義づけるようなことはできなくなると思うのです。

真に不幸であるとは、愛を知らぬことであります。
真に不幸な人生とは、愛なき人生であります。
愛とは神です。
神とは愛の光です。

神とは愛を、愛をたたえた
この宇宙の生きとし生けるすべてを育まれておられる法則であり
愛のエネルギーなのです。

わたくしたち霊天上界にいる者は、霊界の太陽というところから
愛のエネルギーを無限にいただきながら生きております。
エマニョエル・スウェーデンボルグと言われている方の中に
「霊界の太陽」ということが出てくると思うのですが
それは神の愛そのものなのです。
霊界の太陽は愛そのものであり、エネルギーそのものであり
神そのもののお姿を表しているのです。

わたくしたちも同じ、地上におかれるあなた方も同じなのです。
愛なくして、神の愛なくして、わたくしたちは生きていくことはできません。
であるならば、地上に生まれし時より
神の愛によって生かされていない者はただ一人としていないのです。
なぜなら、私たちはすべてが神の子であるから。
愛の光を分光されて、つくられし者たちだから。
わたくしたちは神の愛を受けて生きているのであるのなら
神の愛の表現体として生きなくてはなりません。

神の子として、神の愛そのものであるのならば
わたくしたちが幸せを感じるのは
愛されるか愛されていないかということにおいて
不幸であったり、幸せであったりするのです。
自らの幸せを、ただ自分が愛されると思うことだけではなく
他者を愛してこそ、自分以外の者たちのために愛に生きることをもって
私たちは真に幸せであり、愛そのものの中に組み込まれるのです。

自分本位な、自我我欲の欲に駆られた愛などという、自己愛などというものは
本来の愛ではないのです。
自分以外の方がたの幸せを祈り、自分を投げ捨てて、多くの地上の人びとの
神の子たちの幸せのために生涯をかけて生き続ける。
それをもって、わたくしたちは神の子としての内在された神性の中において
愛というものに感動し、愛というものに共鳴して
ほんとうに幸せであるということを感じ、実感するのです。
神の子であるとは、そういうことなのです。
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愛に生きるということ。
愛に生きるということが、けっして自己保存ではないということ。
他者の幸せを祈り、この地上をほんとうに広げていくなら
神の国にしていくということ。
あなた方の言葉で言うのなら、愛の星にしていくということ。
愛の星とは、愛は神でありますから、神の星にしていくということ。
それをもって、神の子である地上に住まう
生きとし生ける者すべてが幸せになるのです。

神の子であるという原点に、この神の星は今戻ろうとしております。
その大事な、大事な転換期に、あなた方は人事な素晴らしい使命を持たれて
今このキーパーソンとして、この今、使命に当たっておられるのです。

同時代に生きておられる地上の方がたよ。
あなた方も、もし気づかれるのならば
この地球という星を神の星に、愛の星に変えていく
大事な大事なこの今、分岐点
ターニングポイントという時期が今きております。
その時の中で、あなたは、あなたの一生、わずか数十年をもって、いかように
この地上をほかの方がたを愛して生きることができますか?

そのためには、言い訳はいらないのです。
わたくしにおいても言い訳がなかったように
わたくしよりもっと恵まれた、喜びの中で命を授かったあなた方なのです。
死ぬ気になったら、いかようなチャンスもあるのです。
その人生をもって、この地上を愛の星にするために
できることひとつでよいから残して、地上を去って来ていただきたいのです。

あなた方は死ぬ寸前まで
自分の命は永遠であるかのように生きておられるかもしれない。
死というものを、なるべく考えないようにして生きて来られるのかもしれない。
でも、あなた方が避けようとしている死というものは
わたくしたちが、神の子の、実在の世界に帰ることであり、本来の肉体という
あなた方が完璧だと思っているような肉体から解放される瞬間であり
あらゆる感覚が戻り、すべてが光の、神の光の中にさらされ
愛の化身として、神の子としての実在の姿だけで戻っていける
魂の牢獄から解放される瞬間なのです。

死というものを暗く悲しいものとして考えてはなりません。
わたくしたちの世界から見たのならば
あなた方、地上におられる方がたのほうが、よっぽど重い鎖を両手両足に縛られ
目にはアイマスクのようなものをつけられて
本来の世界が見えない、悲しい、悲しい姿に見えるのです。

でも、そのアイマスクをどけてください。
手に持っているその鎖を捨ててごらんなさい。
あなたの目に何か映りますか。

美しい太陽の姿が
美しい星々が
美しい大自然の山が
緑の風のざわめきが
小鳥たちのさえずりが
子どもたちが無心に遊ぶかわいらしい声が
犬たちが、猫たちが、ともにじゃれ合う姿が
まだまだ聞こえてくるのがこの地上ではないでしょうか。

それを見ることができ、聞くことができ、触ることができ、その感動の中で
今、命を与えられたということをどうか感謝し
今のときというもの、たった数十年の時なのです。
その一日一日のこの大事なときというものを
両手の間からすべて無駄にすることのないように
人生を生きていただきたいと思うのです。

物に振り回され、人の評判や、世情に流れる多くの情報の中において
自分自身の価値を見失うのではなくて
世界中で自分にしかない素晴らしい尊き神性と個性を
神が与え給うた素晴らしい神の予てある自分自身であるのだと
かけがえのない自分自身の生涯であるのだと思って
その人生と肉体を、感謝をもって、周りの方がたに愛と感謝を返して
素晴らしい人生を歩んでいかれて、帰って来てほしいと思うのです。

今この地上において肉体を持ち、ましてこの日本に
この地上において肉体を持たれたあなた方が
このような神様の大計画の中において、この神の大事な言葉
メッセージや法というものを聞くチャンスを与えられているという
あなた方を我々は、限りなく幸せな方がたであると思うのです。

でも、地上に今生きておられるあなた方が
それをほんとうに素晴らしい幸せであると感じないのであるのならば
それは、あなた方は少しも幸せな人にはならないということです。

ですから、今どのような状況の中に、この地球が、この日本が
そして今あなた方がおかれている環境が、そのような大きなスケールのものから
今この五体満足な肉体を持っているという
そこまでいって、どれだけの幸せ者であるかということを
しっかりと認識するところからしか
あなた方が幸せの原点に帰れることはないのかもしれない。

現代の幸せの中で、あなた方が今おかれているところが
ほんとうの価値がわかったのならば
どうかその気づかれた方、一人でも二人でもよろしいですから
その方の人生を神様のために、愛の星にするために
今回の救世計画のためにできるささやかなことをもって
精一杯の人生をもってお返しになり、努力されることをもって
わたくしたちの世界に帰っていただきたいと思います。

あなた方の中において、多くの方がたが光の天使として
その魂の神性の輝きを放ち、この地上を光り輝かせたユートピア神の国にならん
一筋の光として輝かされることを心から祈り
今日はこれにて失礼させていただきます。

(2005.7.7 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-16 13:12 | ヘレン・ケラー | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(3)

祈りについてですが
それはまだ、小桜には小桜レペルでの悟りの中でのお答えしかできませんけども
それでよろしゅうございますかしら。

私が見ておりますのに、祈りというのは、やはり皆さま方の世界で見たのならば
「目に見えないものなぞは、人の裏で人の幸せというものを
一生懸命祈ったとしてもそんなものはくだらないものだ」と
「目に見えないから、したって、しなくたって同じだよ」と
お思いになられるのかもしれませんけれども
私たちの世界では、祈りはそのまま言霊なのです。
そして、まあ地上においてもそうなのですけど
目に見えるエネルギーとして実際に巡ってくるのです。

愛の祈りをした者は、やはり愛のエネルギーというものが
その方を通して周りに満ち満ちていくのですね。
ですから、祈りの言葉そのものが行動であるということ。
だから、けっして無駄ではないということです。

善念、正しい思いというものは、愛の思いというもの
愛念というものを出されておられる方は、その愛のエネルギーは地球を一周して
またご本人に戻ると言われております。

実際に霊界に来ると、それを目で見ることができるということ。
三次元ではたまたま見ることができないだけであって
やはりその同じ法則というものは、地上においても働いてございますので
ですから人の裏をかいて悪いことを思っていることは
レムリアでも盛んにこの頃おっしゃられておられますように
原因・結果の因果律ということをもちまして、やはり人の裏をかいたり
人に悪意の思いを持ったり、批判や中傷をしていく者というのは
必ずやご本人に戻っていかれますので
皆さま方を根本的に害するということはできないはずなのです。

最後、その結果を刈り取っていくのはご本人であるということ。
その意味において祈りというものは、やはり行為
そのまま行動であるということ。
エネルギーの法則におきましても、まさに愛の思いを
愛念を出すということは
けっして無駄ではないし、徳となっていくということなのです。

ただ、祈りというものの質を考えていったときに
ただ相手のことを、いいこと思ったから、幸せを祝福したから
具体的に地上で何にもやらなくていい
あとは神様任せとか、そのようなことでは、実際に人生の中に
ほんとうの意味での力のある生き方というのはできないのだと私は思うのです。

やはりほんとうに
レムリアだって素晴らしい動きになってほしいと思うのだったら
わたしは祈ってますから
一日百回祈ってますからそれでいいじゃないですかとおっしゃられても
実際三次元で力をお持ちになっている方であったのならば
肉体をお持ちになっておられる方であるならば
では具体的に自分の人生の中で何かできるのかということを
行動の中において実現されていかれてこそ
祈りがそのまま即行為となって、祈りに力が出て
そして現実生活においてこのユートピア化というものを
レムリアの素晴らしさというものを現実に引き寄せていく
大いなる推進力になっていくのだと思うのです。
それがあってこそ、肉体を持った意味があるということなのです。

ですから、祈りというものの中には、自我我欲による物質的な欲
欲念による祈りというものと、それから自分たちではない他者に対する幸せ
愛念というものを込めて神仏に祈る祈りという二種類があると思うのです。

もっと詳しく分ければ別に分けられるのですけれども
大きく分けたときには、欲念から出てくるものと
自分の欲とかそういうものではなくて
自分のそういう欲念から離れたところから大いなるもののために
他者のために幸せを祈るという
大きな意味で二つの祈りになっていくのです。

その欲念から出たもの
それがたとえば念が強ければ確かに引き寄せるという法則はございますけれども
皆さま方がそれを見ていて、その祈りが全部かなえられるかと申しますと
いくら念が強くても、かなえられる祈りと
かなえられぬ祈りというものがあると思うのです。

そしてそれが、神様がいるのならば
どうしてこの苦しい病気を治してくれないのか。
どうしてこのようなひどい状況にわたしたちがおかれているのかとか。
どうしてこのように貧乏なんだとか。
そのようなことを、神も仏もあるものか
という言葉をよく聞かれますでしょう。

でも先ほどから申し上げておりますように、私たちの世界で学んだことを
地上で肉体をもってそれを合格するために
皆さま方は肉体を持たれて地上に出ているのです。

その時にね、たとえば自分の中に課題があるのです。
たとえば、今世出たときには平凡に生きて、幸せに生きたならば
自分は怠け心がまた出てしまうから、絶対に平凡にだけではなくて
より多くのもとに、神仏のもとに貢献して生きてくる人生を
自分自らが計画の中に盛り込んで、それから逃げられないように
自分を設定して出て来る場合というものもあるのです。
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病気においてもそうでしょう。
あと、体の状態においてもそうなのです。
一見その方にとって不幸と思われることが、多々あると思うのですけれども

この間、ヘレン・ケラー様がお出になられておられましたけれども
では、じゃあ三重苦であったから彼女は不幸であったかというと
不幸であるか不幸でないかということは、病気であるとか不具であるとか
お金があるとかないとかということは、根本的に違うということなのです。

もし病気を、「神よ、こんなに苦しい病気があるのですから
わたしの目の前からすべて病気を治してください」と。
そして
「こんな貧乏はいやだから、すべて今、天からお金を降らしてください」と
もし祈って、それが、もし全部神様がお聞き届けになって
その祈りが全部かなったとしたならば
ほんとうにそれがその魂にとって幸せなことであるのかと考えたときに
小桜は絶対にそうではないというふうに
もう今では、はっきり言えるのでございます。

それはなぜかと言うと、小桜は、たとえば次に出て行ったときに
どうやったら七次元として、また次も七次元に戻って来ることができるか。
今六次元から七次元に上がったということにおきまして
霊界ではひじょうにうれしいことなのですけれども
地上に出て、ちゃんとある程度の行動、救済というものができなければ
七次元から出て行ったからといって、七次元に戻ることはかなわないのです。

やっている内容が七次元クラスのことではないのならば
六次元に戻って、もう一度学び直し、ということなのです。
そのために何百年間も一生懸命、霊界では奉仕をしたり勉強をしたりして
魂の成長のためだけに、私たちは生きておりますから
そのような修行をしているのです。

それが地上に出て、より多くの者への奉仕ということを
今回の何百年、ほんとに長い方でしたら千年とか二千年という周期
まあ私たちのような場合におきましては何百年、短い方でありましたら
何十年という周期をもちまして、地上においてテストを受けて
上のクラスに戻って行きたいからこその状況、環境設定というものを
その人生の青写真の中に書いてくるのでございますね。

ですから、そこにおいて逃げられないように、自分自ら病気とか、寿命とか
いろんなものをすべて設定してくるのでございます。
もし、そのためにあるこの病気をなくしていってしまったら
自分はまた安易な生き方をしてしまうであろう。
それからあと、ひじょうにハンディキャップを負うことで
たとえば過去世のカルマの清算を一挙につけてしまいたい。

そして因果律というのがございますから
人間ですから、何事もいろいろな意味で間違ったこととか
悪想念があるのですね。
それを、出たときに一気に解消するためには、昔では業病と申します
今では難病と申すような
原因不明の病気に急にかかったりする場合があるのです。

それはなぜかって言うと、その時期に一挙にカルマの総清算をして
そして十分償いをして、次の世界にまた飛躍して、アップしていこうという
そのような気持ちをもちまして、その時期、苦しむようにできているのです。
それを与えてくださったこと自体が慈悲なのです。
神仏の慈悲なのです。

それを全部、今苦しいからといって、その病気をなくしてしまう。
そして、今貧乏であるということを通して
ひょっとしてその方は、王様で人をこき使いながら
ひじょうに安楽の中で自分を見失った過去世をお持ちの方なのかもしれません。

ですからこそ、今回はなるべく貧しいところに生まれて、貧乏をしながら
魂の強さというものを磨きながら、そしてそういうものにとらわれない
そういう安逸さに流されないような生き方をもって
自分の中で精進していく人生を選ぼうと思って
ある意味で言うと、質素な家庭を選んで来たりもしたかもしれないのです。

そしてその中において、もし一時期、破産したりとか
ひじょうに苦しい状況があったとしても
それはその方の魂を鍛えるためであったりと、ほんとの試練の中を通さねば
魂というのはやはりふやけてしまうのです。

ですから、そのような中に魂を通すことによって
魂を鋼のように鍛え上げて、のちのちにその方が素晴らしい仕事を
生まれて来た本来の仕事をされるために
前半において環境的にひじょうに貧乏な経験を通して
魂を鋼のように鍛えあげるという
そのような意味において、貧しさというもの
貧乏というものを自分たちの人生の前半に持ってきたりとか
それを決められたのは、肉体ひとつひとつまで決められたのは
ご本人自身であるということなのです。

神仏を恨むなどというのは、とんでもないことなのです。
出たいということを自分で希望を出して、自分で人生の計画書をつくり
ご兄弟やら両親まで決めて、守護言にまでお願いをして
自分の魂の飛躍のために、「次、出た時の数十年の人生の中で
これだけのものを、課題を盛り込みたいので、どうか守護霊よ、指導霊よ
この内容が果たされますように
自分の天命が果たされますように
ご指導をいただけますようよろしくお願いいたします」というふうに
そのようにお願いをして、私たちは出てくるのです。
そうやって地上に出ます。

こちらでは、二百年、三百年あっという間にたってしまうのでございますよ。
でも皆さま方が永遠だと思われている肉体の生命なぞは
長く生きられた方でも八十年そこそこでしょ
今の方たちの寿命が長くなったと言われても、そんなものです。
小桜たちの時代では、五十年、六十年。
六十年生きたら長寿だと言われた時代でございます。

そんなようなあっという間の
ほんとに五十年、六十年のあっという間の人生を地上で過ごす中で
ほんとに一年一年が勝負のようにカルマを返すときがあったり
自分で失敗したものを取り返したり
いや逆に自分の魂を鋼のように鍛えるために
このような環境を、あのような環境をというふうに、自分で一生懸命用意をして
その結果が今自分に正しく出てきている。

それを見守り、指導するのが守護霊、指導霊であり
目の前にある苦しみや悲しみや、そのような難儀なことを全部
「その障害を全部どかしたまえ」という祈りを
もし守護霊、指導霊、神様たちが、いくらその人をかわいいと思っても
その目の前にある障害物をどかしてしまったら
その人生そのものが失敗になってしまうということ。
何のためわざわざこの人が苦労をして、地上に肉体を持つ計画を持ったのか。
その根本的な修行の意味まで無駄にしてしまうということなのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-11 16:23 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

ヘレン・ケラーからのメッセージ(3)

世の中に先天性疾患とか、今はさまざまな筋疾患のような方がたのように
一生寝たきりであったりとか、知覚できない
そして、ほかの方がたと同じような
健常者と同じような生活ができない方がたがたくさんおられます。
その方たちでも、その閉じ込められた魂は、あなた方と同じことを感じ
同じことを考えているのです。
ただそれを表現できないだけなのです。

でも魂の牢獄のような
そのようなハンディキャップのある肉体に閉じ込められながらも
健常者であるあなた方よりも、より多くのことを感じ
考えているかもしれません。

自分が動けない、体がねじれて苦しい中で
一生懸命、お母さんが体を拭いてくれて世話をしてくれる。
自分に一生懸命関わり合って愛してくれる。
そのふれあいの中で、どうでしょう。
今社会に出て、自己実現をしたい母親たちがたくさんいます。
幼い子どもたちであるのに、保護が必要であるのに
子どもを抱いて頬ずりすることすら忘れている母親たちがいます。
その子どもたちは、体は五体満足であったとしても、愛される喜びも知らず
自分が母親の人生にとってどれだけ必要であるのかという
その愛されている実感を持たずに成長していく子どもたちが多いのです。

でも、一生寝たきりで不幸かもしれないけれども
その子どもたちは、お母さんが脇にずっといて、その献身的な愛の中で
少なくとも自分は愛されているのだと
この母親によって自分は必要な存在なのであると
少なくとも全身で感じて生きていられる人生があるのです。

あなた方はどちらの子どもたちが幸せで、どちらが不幸だと思われますか?

わたくしは今、現代の中で多くの子どもたちが、体ではなくて心を患って
不幸な状況で生きておられるのを見て、心が、心がひじょうに苦しいです。
子どもは肉体だけを与えて、食べ物だけ与えて、物質的なものだけを与えて
それで親の役割が終わりなのではないのです。

物質は少なくても、最小限のものであっても、たとえみすぼらしくても
もっと言ってしまうなら、腕が一本なくても、脚が片方欠けていても
それでも全身の愛をもって、子どもは両親によって愛されて育つのならば
幸せな育ち方をします。
魂は、その肉体の中にある魂は、健全に健康に育っていくのです。

でも、肉体だけは健常であったとしても
幼い頃から愛をたっぷり注がれずに育った子どもたちは
まっすぐに伸びることができず、心が病気となって育ってしまうのです。

それが今、ニートとか、さまざまな社会問題の中で
社会とのコミュニケーションができない
自分をどういうふうに表現していいかわからない
愛し方がわからない、女性に対する愛情の出し方もわからずに
一方的な愛を押し売りして女性を拉致監禁してしまったり
果ては自分の愛を受け入れないからといって殺してしまったり
愛し方も愛され方もわからぬ若者たちが
増えているのが現状ではないでしょうか。

肉体がすべてと思うのではなくて
人間というものは神の子であるということにおいては
肉体は大事でありますけれども
その中にある魂としての霊性というもの、精神的な霊的な意味においての
魂がまず幸せにならなくては、人間は幸せになれぬということ。

そのためには何がいちばん大事であるか。
表面的な、不具である、ハンディキャップであるということよりも
心の不具者にしないように、心をノーマルに子どもたちを育て上げていくこと。
それには人間が、人間として幸せがどこに根づいているのか
基盤としてあるのかということ、それを、人びとはもう気づかねばなりません。

人間というものは、本来神の子であり
その肉体の中に、魂という霊体というものが入っている。
そちらのほうが本来の感覚であるということ。
そして、その魂が修行をするために、この数十年間そのような肉体というもの
条件というものを背負って生まれて来るということ。

だから、幸せにおける価値というものは、肉体的なものの所有ではなくて
魂において真に愛されること。
愛すること。
感謝すること。

神に生かされている神の子としての喜びを、感謝を
全身全霊をもって人生の中で表現し
生き抜いて見せること。
それこそがほんとうに神の子としての、我々地上に生まれたときの
人間たちの最も大事な姿であるということを
わたくしはここで申しあげておきたいのです。

それがわかれば、そういう子どもたちを引き受けておかれるご両親
周りの環境、ひいては自治体、国というものが
どのように受け入れていくかということを考える
よすがになるのではないかと思うのです。

けっして、ハンディキャップのある子どもを産んだからといって
昔で言うならばほとんどが、母親が悪いと、うちの嫁が不具の子を産んだと
言われたのかもしれません。

そんなことはない。
逆に言うと、ハンディキャップのあるお子さんを、どうぞ来てくださいと
お引き受けしましょうといって引き受けられた
実に徳高きご両親様であったということ。

それだけの、ほかの方以上の並はずれた愛というものを
お持ちの方であるからこそ
そういうお子様を受け入れ、お産みになってくださったのだという
そういう敬意が、そういうご両親様方に対してあってもよいはずなのです。
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それと同時に、生まれて来た子どもたちに対しても
ようこそ生まれて来たねと、ほかの方たちに対して
あなたがまさに肉体ではない、魂こそが神の子であると
それを証しするために、あなたは生まれて来てくれたんだねと。

世の中に、この世界の中において
生まれて来なくてよかった子など、ただの一人もいないのです。
すべてに意味があり
すべてが神が祝福してこの地上に生まれさせていかれるのです。

であるならば、神がそのようにおつかわしになった大事な神の子であると
地上の者たちも、周りの環境の者たちも、地域の自治体の国の者たちも
みんなでそういう子どもたちをともに
ご両親だけに押しつけるのではなくて
みんなでこの地球の大事な宝として、みんなで育てていこうよと。

当然それは、ハンディキャップのある子どもたちだけではありません。
普通の子どもたちに、次の世代を担う大事な子どもたちのためにも
私たちは大事な光の天使の卵を預かっているのだから
みんなで愛豊かに、素晴らしい霊性を育てていけるように
愛豊かにみんなで包んで育てていこうよと。
みんなで育てていこうよと言って、助け合う姿があったのならば
育児ノイローゼになって
やっとできた我が子を殺すなんていうことはなくなっていくはずでしょう。

みんなで育てていく。
地上の宝であると、子どもたちを、そう言って迎えていくような
そのような姿勢がなくてはいけません。

多くの人びとは、この地上でのさまざまな権力とか、政治機構とか
何を所有するとか、何か出世するかとか
そのようなことにあまりにもとらわれすぎているのです。
とらわれすぎているがゆえに
あなた方はいちばん大事なことが見えていないのです。

この地上で、男性の方がたにも、うかがいたいのです。
どこまで出世したら、あなた方はいったい気が済むのですか。
出世したからといって、そのあとに、退職なさっていって死ぬときに
あなた方はどういうふうに自分の人生を振り返られるのですか?

真に価値があるのは、そんなに会社の中で自分の位置というもの
そういう出世したりとか、そういうことばかりを
仕事、仕事で追われていくことがほんとうにあなたの人生の中で
今死ぬ前に振り返って、ほんとうに価値があったことですか?

あなたが、たとえ結果として出世して、素晴らしい役職についたからといって
ハイレペルの地位に就いたからといって
じゃあ死んでいったときにそれで幸せであったと
ほんとうに魂の底から思えますか?

そのときにもし、その忙しさゆえに家族が崩壊し、子どもたちも妻も去られ
そして自分の体もぽろぼろになり
そして地域の中で周りの人びと、友人もなくし
その自分に対するほんとうの意味での親身になってくれる者たちがいなくなり
一人で孤独死していく老人の方がたが多いでしょう。
そういう方たちの心の中を見ていると、寒々としているのです。

最後の瞬間まで神の子として生きて、たとえお金とかがなかったとしても
たいして出世しなかったとしても
ほんとうに嬉々として、人生の喜びを生きておられる方がいたとき
魂の中においての充足感というのはあるのです。

(2005.7.7 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-10 08:42 | ヘレン・ケラー | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(2)

私が前回出たときは小桜姫という意味での
日本神道的な着物を着た姫という形で出て行ったのです。
そしてわたしの認識も、まだまだ日本に生まれた小桜姫という
そういう認識力からなかなか抜け出られなかったのですね。

神社で祭られているという最低限の
やはり神としての自覚がいるのではないかというようなことに
縛られていたのです。

ですから、やはり自分自身もそのような着物とか
そういうものから抜け出られなかった。
でも、学んでいくうちに
人間は神の子であって、神の霊体としての意識の中には
そんな着るものだとかそういう装束というのは
人の前に表象的に、シンボリックに人の前に出していくという意味においては
衣装というのは必要であるけれども
それ以外においては、人間は霊体そのもの
エネルギー体、愛のエネルギー体そのものであるというふうに自覚した瞬間に
やはりそのような時代錯誤的な装束というものは、はじけ飛んでいく
そのような段階になっていく。

だから七次元以降におられる方は、昔ながらの友人と会うときには
それなりの衣装というもの、自分の好みの衣装というものを着けますけれども
それ以外は大体、白衣の、よくあの天使の方がた、ありますねえ
簡易服みたいな、そういうストンとしたような
ああいうのにだんだんとらわれがなくなるのです。

そうすると、純白は清らかさ、そして邪心のない聖なるものへの神の光の表れ
それを白い衣装にみんな共通でその清らかさを
天使としての心が清らかで真っ白で何も汚れがないという意味を込めまして
白いあのようなエンジェルたちが着るようなああいう衣装になっていく。
そのような意味において、あのような衣装を着ている。
そのようなこと以外に、普段はそのような衣装を着るのです。

ただ、わたしも役柄上、人前に小桜姫として出て行くとき
そのときにはやはりちゃんと日本神道の正装としての着物、装束
正装というものは着けて出て行くことがございます。
そういう意味において、あまり衣装というものはこだわりがないんです。
ないということを私はこちらに来て学びました。

でも、やはりおうちにいるときは、やはり小桜も女性でございますから
普段いるときは現代の地上の様子を見て、やはりこういうワンピースとか
こういうお洋服がはやっていて
「変なお洋服だな」と思うときもあるんですけれども
「やはりこれは、とても私好みですわ」と思うときには
今の現代の日本の女性たちがお召しになるような
そのようなお洋服というものを私も身にまとって
「なかなか素敵な、現代的な女性だわ」というふうに思いながら
おしゃれを楽しんでおります。

やはり女性であるということは、おしゃれというものは、やはりねえ。
好きなものですわよねえ。
ですから、そのような衣装も着たりとかしますけど。

やはりお仕事として出て行くときには、やはり生徒さんの前に出るときは
お着物を着たりとか、そういうこともございますけれども
実際、七次元の中で、いろいろな集団で仕事をしたりするときには
白い普通のストンとしたお衣装を着て、あまりこだわらない
まあ衣装なぞはこだわらないという、無頓着になってくるということが
やはり昔の小桜から見ると相当進歩したのではないかなと思うとこなのです。

そして、七次元に来て何がいちばん違うかというと
六次元までは神格という意味も出てくるのですけれども
圧倒的に自分が成長するっていうことが
やはり自分以外の他者への愛の奉仕の姿というもの。

だから、自分が学んだことを自分だけの知恵とするのではなくて
喜びとするのではなくて
やはり自分が学ばせていただいたことを一人でも多くの
まだこれから入り口に差し掛かって神様のことを何も知らない方たちに対して
そういう知恵の言葉を分け与えて、ともに成長していきましょうと
それが愛の実践であり、知恵というものの本来の意味であるということを
私は学ばせていただいています。

そのようなことを、実際に愛の実践というものを
もう具体的に行動の中で、行いの中でしていくということ。
そのことをもって
やはり菩薩界の入り口に入って来たなというふうに思うのです。
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でも、何しろこの機会をお与えいただきましたのも
以前の霊界通信というところを通しまして
私が地上に対して
霊人としてさまざまな女性の生き方についてなどを語るチャンスなどというのを
並みいる女性方の中で、この小桜なぞにそのチャンスをいただけましたという
そのようなことをもちまして、神縁をもちまして
私がこのようにあっという間にここまで成長できたのであると
ほんとうに神様に心から感謝をしております。

そして、今回のこの救世の大計画というのがどれだけ
地上だけではなくて霊天上界の者たちの意識も一度に
ひじょうに刺激をしながら
向上するための大きな機会になっているかということ。
そのことを皆さま方にひとつ申し上げておきますね。

ですから先ほどの質問ですが、やはり天上界にいたほうが認識力さえ上がれば
地上にいるとき以上により良く
より高く上っていけるということは事実なのだと思います。

ただ、やはり私たちの場合は、行いにおいて
人びとの、霊人たちのお役に立つとか
このように地上に霊言を送って
少しでもお役にさせていただくという奉仕の姿を
行動に表しておりますけれども

やはり地上には地上の意味がございまして
私たちもこのように一挙に上がっていったのならば
転生輪廻の期間も少しは短くなって
せっかく認識力高くしたのだから早くパスをして次の段階にいくためにも
天上界から地上の転生の時期をちょっと狭めて
早く地上に出て、ほんとうにわかったのかどうなのかを
やはり地上の修行の中で確認してみたいとそのように思うので
次にまた地上に出るということも楽しみになってまいりました。

そこでやはり実際の人生の中で
ほんとうにそのような生きざまを見せられなかったとしたならば
小桜がどんだけ今
「六次元から七次元に上がれて素晴らしい進歩を遂げた」と
皆さま方に褒められていただいていましても
次に生まれたときに、人の手本となるようなことができませんでしたら
やはりもう一度、一から
上に帰ったときに学び直しということになるのですね。

ですからそういう意味においては、地上というのは多くの人びとにとって
霊人にとっての最終的な仕上げのテストを受けていく
そういう場所になっているということなのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2014-10-07 07:03 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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