地球を愛の星へ

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ゼウスからのメッセージ(4)

もうかれこれ何年になるであろうか。
またわしが、そなたたちのもとにこのように出て来て
再びメッセージを送れることを、心から喜び感謝しよう。

そなたたちも様々なことがあり、今座っている者たちを見ていても
あの当時の者たちではなく、また、新たに頑張ってくれている者たちがいるのを
私は感慨をもって、今見ていた。

先日、ポセイドンが出ていたように思うが
わしとて、そなたたちが頑張り続けてきた、この数年を見ていて
ほんとうに地上はたいへんであると、心からあなたたちをねぎらいたいと思う。

よいか、わしが以前そなたたちに、「この者のもとに集まり
けっして、分裂することなかれ」と、繰り返し言ったことがある。
それは、別れること自体が悪いというのではなく
別れていかざるを得ないような状況をつくらず
みんなで心を合わせて頑張り抜けという意味をもって言ったに過ぎぬ。

いつの間にか心おごり
あれだけ、「神の子たちよ、謙虚であれ」と、伝えたにもかかわらず
この者を守護し、この者の力になるより
足を引っ張り、己自身の増上慢な気持ちの中で、自己実現を願い
あれだけ伝えたにもかかわらず、この計画のために無私になれなかった。
そのような者たちは、波長同通の法則の中において、ともに歩んで行けなくて
別れていっても致し方なかろう。

別れていった結果をもって、そなたたちの運動が間違っているとか
そなたたちのやってきたことが
間違った方向に向いているということではなくて
できることならば、今ここにいる者たちにも、今、再び伝えたい。

どうかひとりでも脱落することなく、心を合わせ
いつまでもこのレムリアのテーブルのもとに座り
我らが言葉を聴いていくことができるように、そのように精進しなさい。
そのように自らの心を制御し、神の道に精進していただきたいと私は思う。

今、この計画が起きたということを、そなたたちは再三、聞きながら
この計画が、どういう位置づけにあるかということが
まだまだ腑に落ちていないから、いろいろな者たちが来て
同じような内容を、繰り返し、繰り返し伝えるのである。

難しい難解な理論を伝えることよりも、今、この計画の必然性というものを
何ゆえに、このように諸霊が、天上界の諸霊が一致し
みんなで語りかけているかという
本質的なところが理解できなくては、何の意味もなくなってしまうから
同じことを繰り返し、繰り返し、様々な個性によって、様々な言葉により
今、天上界よりそなたたちへの指導が降りているのである。

伝える内容がないから、同じことの繰り返しになっているのではない。
そなたたちがしっかりと認識していないから、赤子に伝えるかのように
我々は同じ言葉を、繰り返し噛んで含めるように
そなたたちに伝えているのじゃ。

よいか、この東洋から発する、この大計画というのは
ある意味で、この文明の最終的な総決算にあたる。
過去、ギリシャに、エジプトに、そしてギリシャからローマに
そして、中国、インドというところを通りながら、様々な世界を一巡し
各文明のスポットというものは、高みというものは移動を続けてきた。

そして最後、この日本の地において、西洋と東洋の文明というものが
最終的に合流する場所として、日本という地が、この文明が起こされるときに
終点の地として選ばれていたということ。

だから、この文明が起きるときから
日本神道の神々というのはこの地を聖地とし
最終的なこの文明の、最終的な光明化の聖地として輝かすために
この地を預かった者たち、それを日本神道の神々という。
我々のもとより、我々の計画を、意を汲んで、この日本の地に降りられ
この地を長年にわたり守ってこられた神々なのである。

東洋の源流、西洋の源流が、この今の日本において統合され
そしてこの地より、地球のへそとなり、この地球全体の光明化と
愛への大変身をさせるための、その聖地として、灯台の地として
この日本という小さな島国が選ばれていたということ。
今回の文明というものは、我々の世界では、そこまで考えた上で
様々な指導霊を送りながら、文明を展関してきたというのが事実なのである。
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科学と宗教、西洋と東洋、資本主義と共産主義
様々な、相対立する相対的なものの流れの中で
それが最終的にすべてが統合され
それを乗り越える新たな霊的な文明、スピリチュアリズムを基盤とした
大いなる宗教がこの日本の地より発信され
今まで隠されていた、大いなる天上界のアルカナ秘儀というものが
すべて明かされることをもって
この地球をひとつの教えの中に統合し
愛の星へ光明化させていくという大計画が盛られていたのである。

もう、物質的なもの、人びとのひとりよがりな自己保存と
自分たちの欲にまみれた闘争による歴史を終えるためにも
本来の神の子の価値観というものが、この地上に降ろされる必要があった。

そのために、谷口雅春という方を皮切りに、高橋信次、エル・ランティが
九次元の大事な、大事な神の子としての、魂の永遠の転生輪廻
そして、八正道を中心とした反省行による
人びとがすべて神の子であるという
原点に立てということを唱えられ、それに応じ、O、仏陀と呼ばれる方が
法の大真髄というものを、集大成として降ろされてきている。

その教えを、九次元の教えをもって、この日本の地より様々な宗教を
様々なイデオロギーを、宗教も、科学も、すべてをこの中に投げ込みながら
ひとつの教えのもとにまとめ上げていくという
そのような大事業が展開されるはずであったのだ。

今、それをするときがきている。
今、新たにこのパイプがつながり
我々のメッセージを、このアンテナのもとに降ろせる以上
最後の総仕上げをしなくてはならぬ。

仏陀がやり残された仕事をするのが、そなたたち、レムリアの仕事。
誰でもができるような霊文明の紹介をしたとて、レムリアの使命にはならぬ。
仏陀がやり残した、九次元の仕事を継いでこそ
そなたたちの使命があるということを思いなさい。

神仏の使徒であり、我々、神の言葉を伝える、唯一の出先機関であるという
そのような磁場であるということ。
そのことをもって、仏陀の仕事の続行を意味するということ。

もうこれからの宗教というものは、様々な神話に彩られた
そのような人格神が神であるというような
そのようなものに、小さなものの中に留まっているようなものではない。

(2002.11.20レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-01-31 11:11 | ゼウス | Trackback | Comments(0)

モーゼ/モーリャからのメッセージ(9)

一人ひとりのエネルギーは小さかったとしても
ほんとうに信頼できる仲間同士が手を取り合い、チームを組むことによって
救世主界から出た者以上の器と
救世主界から出てきた者たちのエネルギー以上のものを
あなた方の信頼感の結集の中において
地上に神の受け皿としてつくることができるということです。

その大いなる奇蹟のもとに、今レムリアは存在しているということ。
この奇蹟的な、この第三の計画の実現というものを
天上界はひじょうに喜びをもって、感謝をもって見つめています。

あとはこれを地上に広げていく。
これはあなた方の信頼感であり、愛し合う仲間たちと結束する
共通の理念のもとに統合されていく。

その協力し合う体制によって
どれだけでも彼一人がやった以上の力ができるかもしれないということです。
そのことをどうか、自分に自信を持っていただきたいのです。

自分は何なんだからと、自分はどっちみち九次元ではないのだからと
そのような情けない思いを持つのではなくて、自分だってやればできるのだと
九次元以上の力を発揮することだってできるのだと。

いい意味で誇りを持って、そうやって私は神につくられたんだと
増上慢になることなく自信を持って、そして仲間を信頼して、助け合って
この計画を進めていただきたいと思うのです。
数々の工夫をしてやっていく中において、多くの協力者がまた出てくるのです。
次の段階の協力者というのが用意されているのです。

あなた方が今できないことでも、やれる仲間たちが集まってきます。
それにはあなた方が、まず外に向かってアピールしなくてはなりません。
アピールしていくうちに多くの仲間が集まってきます。
それだけの方がたがこの日本に生まれてきているということです。

まだ命ある限り、多くの光の天使たちがこの地上にいる限り
彼らはたまには根腐れを起こしている者もおりますが
でもやはり、うずきの中においては、神の計画のためにお役に立ちたいと思う
その気持ちで地上に生まれてきている者たちが多いので
レムリアが本来の、ほんとうの光を高々と掲げたのならば
彼らは集まってくることでしょう。

そして自分自身のために、多くの人びとのためにとか、神のためにではなく
自ら自身のために、自ら自身が充実し、感謝を持つために
彼らは使命を果たしていくことでしょう。
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あなた方が多くの方がたに対して使命を果たしていく
その道というのは、あなた方が地上に出てどれだけ
光の天使たちのやる気、本来のうずきに点火することができたか。
その情熱を分かち合うことができたか。
それがこれからのあなた方の正念場になるのです。

資料も十分過ぎるほど出ているのです。
こういうものは時々には出しますけれども、これだけで消耗し
この人をなくしてしまったのならば、これから先の計画はなくなるということ。

だから、この霊言も良いですけれども
もうこれだけ地上に降りてきたのならば
これを早く文書化し、CD化し
ダウンロード化するというのはたいへん素晴らしいことだと思います。

それをやりながら、英訳も考えながら、どのようにしたら多くの方がたに
このような書物を、ネットワークを見ていただき
広げていけるかということ。

もうすでにその流れの中にあなた方は入っております。
それは指導されて今入っているということです。
この次なる展開にきているということ。
それが今、日本の外側に向かって動き出しているということです。

今まで我々もそこを強くは言わなかったのです。
まだちゃんとした確たる資料ができる前に、外に広げて変な人が入ってきて
この磁場を荒らされることをひじょうに警戒したということがあります。

でもこれだけの資料が出てきて、書籍が出てきたのならば
あとはもう銃弾のごとく本を出しながら、少しでも多くの方がたの目に触れて
多くの方がたの魂のうずきを震わすような、心を震わすような
そのような伝道の段階に入っていただきたいと思います。

必ずや、この書物が、メッセージ集が、多くの神の子たちの心を震わす
そのような書物になると我々は信じております。
そして、日本の中で広がっていったものが世界に出て行き
日本というひとつの霊的な立場をもって、世界の多くの人びとの
世界の多くのところに出た神の子たちに運動しながら
地球すべての中において共通の価値観として
あっという間に、りょう原の火のごとく伝わっていく。

そのような新たな改革の時という
革命の精神革命の時というものがくるということ。
そのことを楽しみに
私たちはあなた方にこの仕事の次なる展開に入ったということをお伝えして
今日は帰りたいと思います。

(2006.4.22 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-01-30 08:37 | モーゼ/モーリャ | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(6)

ぜひともお願いしたいのは
先ほど伺っていてホームページを易しい方向につくり変えてくださる
いい機会だとおっしゃっておられましたけど
まさに小桜はそう思うのでございます。

今申し上げたことをやはり中心に、初心者の方にお書きいただくだけで
多くの方の地上の人生観が変わってくるのでございます。
けっしてそんな難解なことを
今回のこの方がおやりになっている通信方法のウルトラC技なぞを
まあ一部のマニアの方はお聞きになりたいでしょうけれども
霊的な真実というのを明かされていくことは必要でございますけれども。

もうこの間からおっしやられているように
ほかの霊人がおっしゃられておられますように
七割、八割の方の幸せは、今小桜が申し上げた言葉で十分救われていくのです。
そして、この地上の人生の意味が変わってくるのです。

難しいことを言うと、難しい知識に埋没してシンプルな
人生の大事な神理という部分がまた覆われて隠されてしまうのです。
どうかそのような愚になられませぬように。

そして知識というもの、そのようなもので
いたずらな知識、神理、知識というものの中で
ほんとうのシンプルな人生の真実ということが
今ふたたびまた隠されることのないように。

イエス・キリスト様のお言葉のように、愛深く、神理の言葉というものは
とてもシンプルなものであるということ。
そのことをどうか、レムリアのこれからの理念としてわかりやすい形で
まあ、昔で言うならば教典になるのでしょうか
そのようなものをしっかりと打ち出していただくということ。

そのような、誰が聞いてもわかるような言葉で出していく。
それがほんとうの意味で人生の中で根づいていったのならば
やはり多くの人生が変わると思うのです。

私、小桜などが見ておりましても、英国なぞから発生したという
そのスピリチュアリズムですか、この間から皆さま方からお話ししておられて
私も聞いておりましたけど、その神智学とか、ああいうものを見ておりますと
小桜にはちょっと難しすぎます。
あれは難しくて、何をおっしゃっているのかわからないと思います。
私でもまだわかりませんけれども
それは地上の方がたの、多くの方だってわからないと思います。

あのように難解化して、なぜあのように難解化したがというと
ひじょうに高度な神理的な見解というものもございますけれども
やはり霊界のものを未熟な者が解釈いたしますと
やたらと難しいものの言葉に置き換えるのでございます。
そんなものではないのです。

たとえ天上界が私のような者よりはるか上の
たとえば如来界とか、太陽界にお住まいの高級霊人の方がたでありましても
普段あのようなことをしゃべっておられるかというと、とんでもございません。

皆さま方、とっても大らかで
ほんと、ひじょうにわかりやすいお言葉でお話をなさられ
コミュニケーションをしておられるのですね。
言語ではないコミュニケーションの仕方ですけれども、されております。

ひじょうに皆さま方、気さくで、ざっくばらんで、自分のプライドなどよりも
いかにしたら多くの方がたを
幸せにできるかということばかりを考えておられる。
でもそこにおいて、あのような難解なものというのはないのです。
難解にしてしまうのは、やはり地上の受け取り方をする方の意識が
解読能力が不足しているのだと私は思うのです。

思念としては、ひじょうにシンプルなものがきているはずなのですけれども
それを解釈したり、翻訳していく段階に
どうしても硬い言葉、難しい言葉によって解釈してしまっている。
それは最初に天上界からきたその時代の英語の言葉に訳していく段階で
まず硬い言葉でくる。

そしてキリスト教とかの
その神学的ドグマみたいなものにひじょうに影響されながら降ろす。
それをまた、その古い英語を通して日本語に翻訳していく段階で
またそこで、古い形の日本語、いかめしい日本語になっていく。

そういうふうに翻訳されてリレーされていくうちに
ひじょうに難解な難しいもののように権威づけられる。
逆に言うと、一部のそのようなマニアのような学者のような方がたには
そのようなほうが、難解化しているほうが権威づけられて
価値の高いものであるかのように
解釈されながらまた来ているという傾向が多少あるかと思うのです。
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でも、前からおっしゃられているように、この間亡くなられたその
高橋信次と呼ばれている方がお話しになられていましたように
神理というのはひじょうに易しい言葉で
とても親しみを込めて語ることができる。
そのような日常の言葉をもって語ることができる。
それでなければ、ほんとうの神理とは申さないのでございます。
法とは申さないのです。

法というと、いつも箇条書きにして
いつもドグマ的な、教理的なものとして打ち出さなければ
学習対象にならないというふうな、そのようなのりというものを
やはり以前の団体では感じたのでございますけれども
そのようなものは、堅苦しいものは、天上界には本来合わないのです。
少なくとも、女性の悟りの中には、そういうものはあまり入ってこないし
根づかないと思うのですね。

まあ漠然と話だけするのではだめなのですけれども
やはりほんとうに話として意味がある
わかるものは、やはりそんなに学習、学習のようなものではなくて
魂に響く言霊を通して魂が学んだことをもって
法の解釈、法というものの意味があるのであって
まあ「法」というふうに難しく言わなくても
「神様の言葉を学ぶ」と、易しく言い換えてもいいのだと思うのです。

法を学ぼうって言うと、お坊さんかしらって思うけれども、多くの人びとに
「神様の言葉を学びませんか。
神様の言葉を聴きませんか」って言ったら、気持ちを和らげて
「聴きたいわ」とおっしゃられる方が出てこられるのだと思います。

だからそのような易しい言葉を使いながら
私も、以前、神理入門ということを書きましたけども
『神霊界入門』ということを書きましたけれども
今度もまた別な意味で、神霊界、神理世界入門みたいな形で
レムリアも知的な意味で
あまり詳しくない方がたでも読めばわかるというような
そのようなことを出していただきたい。

それがほんとの意味で言うと
衆生大衆に対する大いなる愛の実践行為であるということ。
それがほんとの意味での菩薩行であるということなのです。
一部の難解な、一部の知的エリートの方がたのためだけの言葉であるとか
そのようなものは、衆生大衆に対する愛の実践行為とはあまり関係ないのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-29 07:22 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

出口王仁三郎からのメッセージ(5)

国常立之神がお出になられ
そなたたちにとっては余りある名誉の中で
霊言を受けることができたことを幸せに思うがよいぞ。
ついでにわしも出て来た。
そなたたちに祝福しようと思って出て来たのじゃ。

わしの世界の中において、最高位にあられる神であられるということ。
その方の指導を受けられるということが、どれだけ幸せなことであるか
そなたたちはほんとうにわかっておるかのう?

わしが出て来ただけでも
そなたたちは目が潰れんがばかりの栄誉に浴しているということを
わかっておらぬようだが
どうやらここではあまり歓迎されないのであるが
わしは他のところに行くと、大人気な指導霊であるという
神様であるということを
そなたたちも、もう少し、ちと理解しなくてはいかんぞよ。

そなたたちが負っている、この使命というものが
これからやっと具体化していくということ。
今までは時を待っていたということ。
それゆえに我らは長いこと待たされていた。
荒神一同、最初の頃、あいさつに出たことはあれども
そなたたちに、このように指導を直接する段階にきてはいなかったから
あまり長いことしゃべることは許されなかったのである。

しかし、喜ばしきことに、無事に幾多の霊言が降り、法の中核が降りて
そなたたちが具体的な行動をする段階にきたので、そなたたちの使命が
やっと我らが指導のもとに回ってきたということ。
そのことを我はとてもうれしく思い
国常立之神とともに喜んでいる。

そなたたちは、見ているとあまりにも自己限定が多いということを
わしは思う。
何をそんなに恐れておるのだ。
なんと言われようとよいではないか。
女好きと言われようと、酒飲みと言われようと
わしのような、素晴らしい境地に達している者もいるのである。

そうやって、「女に触ったから地獄に堕ちる」とか
「酒を飲んだから道を迷う」とか
そのようなつまらないものを考えるから
ほんとうの意昧での大きな器の仕事ができないのである。

大物という者はつまらないことは詮索せず、大きな大目標だけに焦点を据えて
自ら研さんしたことを命がけをもってやる者のことを言うのだぞ。
そなたたちの中で、そのような大きな器の者がどれほどおるかのう。
おなごが好きでなけりや、この世は少しも楽しくない。
酒も飲めなければ、喜びも半減するであろう。
そういうものをすべての活力と変えて
そなたたちは命がけになってこの使命を果たしていく。
そのぐらいの度胸とおおらかさを持て。

先ほど、国常立之神が言われたような、そなたたちの使命というもの
それを繰り返す気は毛頭ないが、わしはそなたたちに
「もっと大物として、器の大きな、魅力的な男として輝け」と言いたいんじゃ。

おなごが、キャーキャー騒がんような男でどうする?
酒の一杯や二杯、一升瓶の一本ぐらい飲めないでどうする?
そんなことで地獄に堕ちるなどと思ってるような輩がいるから
この地上においてろくな仕事ができぬのじゃ。
そのようなことを言うからわしは
「裏に行っとけ」とか言われてしまうのじゃがな。
だけども、そのような力も必要だということじゃ。

それがそなたたちの心の垣根を取り払い、鎖を取り払って
そなたたちの魂の中にある本質的な力というのを開花する。
そのような力となっていく
そのような突破口となっていくということをわしは言いたいのじゃ。

自己限定がある限り、自分はこうあるべし
これはできないと思っている限りは
ほんとうにその力を使いこなすことはできぬ。
そこに、ひょっとしたら素晴らしい力が宿っているかも知れんぞ。
でも、それができないと決めてしまったら、永久に出ないのじゃ。

あらゆる方向の扉を開けておけ。
あらゆる自分に対する可能性を開けておけ。
そして、ひるむことなく、そして、失敗を恐れることなく
それを味わいながら楽しみながら仕事をしていくのじゃ。

大きな目標さえ、自分が何をしなければいけないかさえわかっていれば
そなたたちが道を誤ることはなかろう。
数々の失敗があるが、あまりにも細かいことに
教条主義的なことにこだわり過ぎて
人間としてのおおらかさを、神の子としての愛の深さという素晴らしさを
寛容さを見失ったときに、釈迦教団は堕ちていったのではなかろうか。

自らを偉しとし、知天狗になったということはそういうこと。
知だけがすべての上に立ち、知の階段を登ることだけが
すべての悟りの、究極の唯一の道であるとおごり高ぶったとき
人はおおらかさをなくす。
縛りをいっぱいつけ、自らのあらゆる可能性を
自己限定の鎖で縛り上げてしまう。

だから、みなが同じような型通りのやり方でしか
修行という形態の中で悟りを上がってはいけぬ。
でも、あらゆる道があるということ。
その個性の分だけあらゆる階段があり
道があるということをそなたたちが理解するのであるのなら
いくらでも道は開かれようぞ。

魔が来ても、こっちから捕まえようと思ったら、あちらからするり
あっちから捕まえようとしたら、こちらからぬらり、そのように出てみよ。
それぐらいの変幻自在の思いを持ってみよ。
そうすれば、そなたたちはいくらでも魔に引き倒されることはない。

あまりにも頑なであり、あまりにも一本気であり
あまりにもひとつの方向性しか、柔軟性の中に持っていなかったがゆえに
釈迦教団の今回の救世事業は倒れたのである。

もっとおおらかに、もっと寛容さを持って、人の数分だけ可能性があり
人の数分だけ素晴らしさがある。
入り口がある。
自らにおいてもそうであると思うのならば
人に対する裁き心もなくなるであろう。

裏神であるとか、表であるとか
仏教系であるとか、キリスト教系であるとか
はたまた男が優秀であり、おなごは優秀でないとか
そんなつまらぬものに何ゆえに縛られるかというと
登り口がひとつしかないから
ひとつの方向しかないから、そなたたちは自己限定をするのである。
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だけれども、ここにいて自らの蓄えてきた力を発揮せねば
今まで何ゆえの修行であったかということも言えるであろう。

この者も、そして、同時に来た者たちにおいても
自らの力を限定することなく、恐れることなく
自分の力を出していきなさい。
そのような力をもって神の恩に報いる道もあるということ。
この救世の事業に役立つ力も、扉もあるということ。

それを、自分のすべての可能性を受け入れ、認め
そして許して、自らの弱さもともに許して、それを受け入れるということ。
それをもってこそ、トータルな力でもって
神のために使命を果たすことができるという
そのおおらかさをそなたたちは学ばねばならぬ。

今回のことを見ていると、やはりおおらかさというか
寛容さがないがゆえに、このような窮屈な思いが出てきている。
裁き心が出てきている。

今回、裁いていった者たちの心を見よ。
やはり知により、仏陀光線のような者、法だけの道しか道がないという
そのような思いに縛られているから
ほかの価値観を、表現を受け入れられないのであろう?

そんな狭い、ケツの穴の小さい男でどうするのじゃ。
男たちが力を合わせて
ほんとうの意味で地球規模の救世の大事業をするということ。
そのことをそなたたちは心に決めよ。
それでこそ男じゃろう。
それでこそ男としての本懐というものがあるのだ。

そなたたちの中に、おおらかな、海より広い、山より大きい
空のように広大な
そのような大きな器の瓦落な気持ちというものを持てば、その心の広さの中に
全人類の弱さも、悲しさも、喜びも包み込むことができるであろう。
受け入れることができるであろう。

自ら狭い器の者は、他者の喜びや、悲しみや
喜びを受け入れる余裕がどこにあるのだ。
ほんとうの意昧でのおおらかさというものは
愛の深さであり広さであるということ。
それを学ばねばならぬ。
それがわからないようでは、そなたたちの中には悟りはない。
悟りから程遠いということ。

そなたたちの気持ちの中に迷いがあるということは
まだまだ自らが思う信仰とか
神という形態について、こうあらねばならぬという思いが強いから
わしのように仙女にキャーキャーされるような者が出て来て
そなたたちよりもよっぽど霊格の高いところにいる者として
こうやって天上界でものさばっていられるということを
もう一度考えよ。

小さなことで自己限定している坊さんたちのことを思うと
人生を何も楽しんでおらぬ、この神がおつくりになった
この宇宙の素晴らしさを少しも味わっておらぬ者たちであると
不潤に思うのである。

(2005.4.23 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-01-28 16:59 | 出口王仁三郎 | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(11)

ほんとうにその子を愛するということ。
この間、アモール様がおしゃっておられました。
「愛というのは、トータルにすべてを条件なく受け入れることである」と。
「ありのままに愛するということを、愛というのである」と。
そして、「育み、育てることである」と、やはりおっしゃられました。

それを家庭の中において
やはり愛というものを応用していくのであるのならば
子どもが子どもであるということは、あなた方母親であり
父親であるところに授かった命ではあるけれども
魂自体の過去の変遷については、あなた方とは別の魂であるということ。

あなた方の預かり知らぬ過去の転生があり、それなりの魂の尊厳があり
その魂の自由意志というものを、神より保証されて生まれて来ている
尊い神の子の命であるということ。
その立場を親はどうしても忘れてしまうのです。

特に母親は十月十日、胎内に宿し、自分の分身であるかのように
肉体としては自分の分身でもあるのですけれども、どうしても魂においても
命においても、自分のものであると錯覚しがちであるのが女性であるのです。

それゆえに、女性の生き方の中に、子どもに対するひじょうに支配的な
過干渉なものが出てくるのです。
そして、自分の自己実現の道具であるかのように
ネックレスやハンドバッグのひとつであるかのように子どもに接します。

そのときに、今の子どもたちは甘やかされ
自分でどのように抵抗していいのかわからない。
昔の子どもであるのならば、まだそのように、それこそ竹刀とか剣道とか
そういうのをやっていたときには、自らの青春を鍛える機会がございました。

今は何でしょう。
ゲームとかパソコンとか、そしてはたまた受験勉強とか、そのような魂自体を
男らしさを肉体とともに磨くという
そのような場にあまり男の子がいないのです。

そうなったときに、男の子は男の子としてのエネルギーが
思春期に爆発してきたときに
自分でもわからぬ、わけもわからぬ怒りとして発散してくるのです。
それが家庭内暴力というものの実態であります。

家の外に行ってではないでしょう。
彼らがバットで壊しまくるのは、家の中でしょう?
家族を、親を、特にバットで殴ったりとか
家の中をむやみやたらに壊してまわる。
それは彼ら自体もわからない、突き上げてくる怒りなのです。
それは何かというと、自分自身をありのままに受け入れて
ありのままに愛してもらえない者たちの怒りが噴出しているのです。

あなた方は、ほんとうに愛というものを学んでいるのかと、私は問いかけたい。
愛は条件つきではないということを、アモール様もおっしゃられました。
女性は、親はどうしても、特に女性は、これだけ愛して育てたのだから
私の老後の面倒を見てくれとか、私がこれだけ育てたのだから
嫁が私の言うことを聞いて当たり前だとか
過去のいろいろな嫁姑問題、子どもたちのあつれきは
大体が鬼の姑と言われる女性たちによって引き起こされることが多いのです。

それは、女性たちが自分の持ち物であると思い続けた
子どもたちに対しての独占欲、執着心、所有欲というものが
いつまでたっても切り離せず
自分のものであるというのを思い続けたところによる
人類の不幸でもあるのです。

子どもは、それぞれの魂としての気高さをもって神より創造されました。
その一時、あなた方の家庭を通路として与えられ
その子どもを授かるということを通して夫婦もまた愛を学び
養育者として自らも霊的な成長の場を与えられていくのです。

そして、一時預けられ、そして成人していったのなら
その子の個性を開花するようにと
それまで教育を一生懸命して、一生懸命その子なりの個性が開花するように
そのためには努力しなくてはいけません。
教育も与えていけばいいのです。

そうしたのなら、一切の執着を持つことなく、見返りを求めることなく
その者たちが羽ばたいていくとき
そう、つばめの子どもたちが羽ばたいていくときのように
親は子どもたちを手放してやらなくてはいけません。
飛び立たせてあげなくてはいけません。

その子どもが新たな配偶者とともに家庭を持ったときに
そこに差し出がましいことを言ったり
自らの支配下に置くようなことを一切言ってはなりません。

それが、その子どもたちに対する神が与えられた自由意志であり
神性の開花を望むのであるなら
親たちも、ともにそのように霊的な成長というもの
肉体的な成長というものをともに祝い
喜ぶようなそのような親たちでなくてはいけません。
見返りを求めたり、執着の賜物、産物として子どもに接してはいけないのです。

そのように思うから子どもたちに内的な怒りが、彼らはあまりに幼すぎて
肉体的に大きくなってきたけれども
どのようにしてこの呪縛から離れていいかわからない。
そのために、もうむやみやたらに反抗し、物を壊してまわるのです。

そして、無気力さがその終結点として出てきて、学校に行く力もなくなり
社会に出て労働する意欲もない廃人にしてしまうのです。
それは何かというと、親の接し方にあったということです。
幼い頃からの、子どもたちに対する接し方にあるのです。

まあ、いつもこの方が、人様の前で「子育て論」ということでよくお話をして
なかなか好評を得ているようでございますけれど
その中でこの方のよく使う言葉に
「薔薇は薔薇のように、向日葵は向日葵のように
菫は菫のように育てなさい」という言葉を
この方はよく言うのです。

そのときに、すみれに薔薇のように咲けと言っても無理なのです。
向日葵として本来大きな使命を持っているものに、それは差し出がましいから
すみれのように咲けと言ってもまた酷な話であります。

その子どもたちの魂というもの、その香りというものを
母親たちは、親たちはしっかりと見守り
その子どもが何を本来魂として要求しているのかということを考えていく
それを与えていく。
それがわからなくても、ただただ無償に愛していく。
見返りを求めない。
そして、成長を喜ぶ。

社会の中に出て恥ずかしいような言動をするような者であるのならば
ほかの他人は冷たく笑っているだけかもしれない。
でもそのときには、腕まくりをして行って
命がけでその子どもと体当たりをして
その子どもに恥ずかしい思いをさせないために、命がけでぶつかっていって
子どもには人間のあるべき姿を教えていく。
この体当たりをしてぶつかっていく、その姿が愛であります。
親の愛であります。

今の子どもの母親たちは、子どもが少ないゆえに、見ておりますと
子どもに嫌われたくないのです。
ひとりっ子の子どもたちの母親たちは、特に見ていてそう思います。

子どもに嫌われたくないから、子どもの機嫌をとっているのです。
子どもにいつも、いつも機嫌をとって
自分だけは何とかちゃんの味方ですよ、と言って愛されようとし
父親よりも息子に機嫌をとっていく。

そのようなことの中で、子どもに対して、たとえば間違ったことをしたときに
ほんとうの意味で子どもを殴れますか。
ほんとうの意味で厳しく子どもをとがめられますか。
c0171476_1854675.jpg

昔の母親はすごかったのです。
強かったのです。
なりふりかまわず子どもとぶつかっていったのです。
怖いときは、お母さん怖かったのです。
そして、それで聞かなければ
最後に出てきて怖いのはお父さんだったのです。

お父さんはいつも、いつも怖いのではありません。
お父さんは黙って後ろで控えていればいいのです。
お母さんが一生懸命なりふりかまわず言うときに
たとえ母親にぶたれたとしても
何されたとしても、ほんとうの意味で自分をだめにしないために
この母親は命がけでぶつかってきてくれるのだと
愛されているのだという実感さえあれば、子どもは悪くなりません。

手を上げたから悪くなるのでないのです。
手を上げたからといって子どもが急に悪くなるとしたら
それまでにしっかりと親子としての絆を築き、ちゃんと小さいときから
ぶつべきお尻とかをぶってこなかった。
体当たりで正面からぶつかってこなかった。
親が逃げていた。
そのようなことに対する子どもたちの怒りがあるのです。

自分をほんとうに良くするために怒ってくれる
叱ってくれることを、子どもたちは無意識に喜ぶのです。
なぜならば、先生においてもそうです。
昔の先生たちだって
ほんとうに子どもを良くしようと思ったら体当たりでした。
竹刀を持ってでも、お尻を叩いてでも
子どもたちを一生懸命育てようとした立派な先生たちがおりました。

今は、手を上げたら問題が起きます。
教育問題、教育委貝会のほうに問題がいきます。
それをまた、ぎゃあぎゃあ言うのは過干渉な母親たちなのです。
自分の息子に手を上げたと。
必要なことだったならば
「どうぞ先生、うちの子が悪さをしたら叩いてください」と言うくらいの
度量のある母親たちがいないのです。

なぜなら、子どもの機嫌をとって
一人か二人しかいない大事な子どもに、自分すら手を上げたことがない。
まして父親たちにも上げさせない。
そのようなことの中で溺愛しているから
よその人が、よその先生が手をあげるなんて
とんでもないことになるのです。
ですから、教育委員会のほうに文句が出るのかもしれません。

でも、愛というものはそういうものではありません。
神の愛を見てください。
神がいつも、いつも甘いことばかりを人類に言っているでしょうか。

愛というものは無限に赦し、無限に与えることである一方
やはり因果応報という摂理の中において
自らがやったことは自らが刈り取るということ。

ほんとうに神の愛が甘いものだけであるのだったならば
すべてを与えて溺愛することだけの中で
つらい天変地異とか、そういうことを避けさせるのではないでしょうか。

でも、その天変地異ですら
悪想念はあなた方人類が溜めてしまったものなのだよ。
だからその清算するのはあなた方自身なのだよということをもって
神は自ら刈り取るという義務を人類に与えられるのです。
愛というのは、厳しさという面も反面あるのです。

そして、愛には忍耐というのがつきものであるということを
あなた方も言われました。
忍耐というのは何であるか。
愛するべきものをトータルで受け入れたのであれば
ありのままに、その愛するものの成長を見守るがゆえに、成長を望むがゆえに
忍耐というものが必要になるのです。

いつも、いつも甘いことばかりを言わず、やはり数々の試練を通しながら
苦しみ、悲しみを通し、この魂が成長していく過程を望むからこそ
より素晴らしい未来をこの魂に望むからこそ、厳しさの中で涙を流しながらも
忍耐をもち見守り続けていくのです。
その神のお姿を見習っていただきたいのです。

その姿が、神のお姿が私たち親の姿でもあるということ。
人類の進歩発展ということ、成長というものを見守ってくださる神のお姿
愛の姿があるように、私たちはその縮図である家庭を通して
神の子を授かりその魂を育て、成長させ、それを愛で包み
それをまた社会に帰していく。

ある意味で、神と同じことを、家庭を通して
創造者と同じことをまた試練として
わたしたちも魂の進歩発展のために預かっている。
そのように尊い場が家庭であるということなのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-27 16:53 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)

ゼウスからのメッセージ(3)

難しいことは、よいのである。
地球の成立、宇宙の成立、ベーエルダからどのような人びとが来て
マゼランからどのような人びとが来たかとかは
そんなことはどうでもよいことなのである。

そなたたちには、早すぎたのかも知れぬ。
そんなもので道を失うな。
もっと、己が神性に気づくという初歩的にしていちばん大切なこと
そこにあなた方は照準を合わせなさい。
まずそこをすることだ。

かつて、0がやったことは、彼のあの時の勢いにまかせ
人類の神理というものを降らす
ほんの僅かのチャンスだったのである。

その後、我々は降ろそうと思っても
その神理は受け付けられなくなってしまった。
あの時まとめて降ろしたこと
それを、これから噛み砕いて人類は学んでいくことであろう。
しかし、そなたたちは、そんなに難しいことを説かなくてもよい。
根本的な愛の教え、神の子であるという
神理の中で最も基本的なその波動を人びとに発信すればよいのである。

その光と波動を嗅ぎつけて、心ある者たちはやって来るであろう。
どうか多くの人びとが集まって来る中で
そなたたちの足を引っ張ろうとする者たちもやって来ることであろう。

その時に気を抜くことなかれ。
しかし、そのようにスパイに来た者たちですら、ノックアウトしてしまうほどに
大いなる愛の光を発信せよ。

理屈ではない。
頭でっかちで理屈ばかりになって
無明の中に消えて行った僧侶たち、元仏弟子たち
彼らは知性に頼りすぎたのである。

悟りは魂で開くもの。
心で己が神性に出会うもの。
それが悟りであったはずなのに
神理の知識に頼りすぎ、己が地上に知らしめたい名声欲
己を偉しとする優越感、そのような執着が彼らの転落の原因になっている。

それも、ある意味で言うと、この世に対する執着なのである。
そのような流れの中に、また入れてはならぬ。
知識や情熱は、とても大切なことではあるけれど、根本的なことを忘れて
愛や慈悲を忘れては、神の心を受け取れないのである。

先日、そなたたちも聞いたであろう。イエス・キリストから聞いたであろう。
「神とは、愛ある者にこそ宿るのである」
「愛深き者にこそ、神命は降るのである」
「謙虚に、謙虚に神の言葉を受ける者、その者でなければ
己を偉しとする者には神の心は届かないのである」と。

さすれば、このように我らの声を聴けるそなたたちは、神より選ばれし者。
今、我の声を、このように聴けるというそなたたちは
とても幸福な者たちであるということだ。

それを、そなたたちの宝とせず、そなたたちだけの喜びとせず
多くの者に発信していきなさい。
そして、分かち合いなさい。

神が、今、どのようなお心であり
どのような計画を持っておられるのかということを
それを、多くの人びとに伝えていきなさい。
それなくして、そなたたちの使命はないと思いなさい。

地上にの隅々まで光を照らし、闇を消し去るほどの光を発信しなさい。
そうすれば、それ以外のことはどんどん光の中で正しいものへと変化し始める。
光が届かないから、ますます難解な闇となっていくだけなのだ。

シンプルでよいのだ。
そなたたちがやろうとしていることはシンプルでよいのだ。
そして、圧倒的な愛の波動を、愛と慈しみの波動を、分かち合いの波動を
かつてK会に欠けていた慈しみと、愛と平和の波動を
それこそが本来の神の波動であると発信していきなさい。

今まで伝えられていなかった、知に偏りすぎた諸法を
それによって神の心が伝わらなかった
その埋め合わせをそなたたちがしなさい。
それがそなたたちの役割である。

難しいことを考えすぎるな。
けっしてOが降ろしたような理論書とか
そういうものをそなたたちが降ろせとは
そんな無理なことは神々は言ってないのである。

それがつかめぬので、そなたたちはとても苦しんだのかも知れぬ。
もっともっと、我々のほうへ心の針を合わせなさい。
そうすれば、我々はいくらでも説明するであろう。

苦しむことなかれ。
そなたたちの苦しみぐらい、私たちはよくわかっているのである。
苦しいこと、この計画に対してどれだけ無理がかかるかということ
それもよくわかっている。
それがわかった上で、そなたたちに依頼しているのである。

我々も、もうあとがないのである。
我々もこの時、最後の決着をつける計画を
絶対に負けないという最後の計画を
この地球を光の国に変えるという、光の星に変えるという最後の計画を
私たちは実現したいと思っているのである。

九次元、十次元の使命は、そなたたちに、なかなかわからないであろうが
ひじょうに微妙な時期に、この地球があるということ。
このような成長できるチャンスは、なかなか、またこないのであるということ。
このチャンスを最後まで生かしたいのである。
この地球自身のレペルアップに、ここまで頑張ったのであるから。

高橋信次、エル・ランティが出られ、仏陀が出られ
少なくとも、そこまでの神理知識、基盤が、この地上に降りているのである。
今なら、まだ間に合うのである。
それを、ゴミだめに捨てないようにするために、それを守ってほしいのである。

我らの世界からこの地上に、それを降ろすということは
それはたいへんな、たいへんな困難なことなのである。
やはり九次元レベルが立て続けに出なくては
このような神理知識を書物として残すことなどは
到底、不可能なことなのである。
そして、今一度、九次元が降りて行っている、不屈的な計画なのである。
それほどに、皆、この地球計画を、我々は成功させたいのである。

だから、そのつなぎとして
そして、単純でシンプルであるかも知れないけれど
何度も言うが、最もかけがえのない大切な愛と慈しみの波動を
この地上に発信してほしいのである。
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我ら、ギリシャの時代。
人びとの語り、ストーリー・テラーたちによる神話の語りにのせ
そして、ハープの音色にのせ、絵画にのせ
あのいまだに世紀の傑作といわれている、ギリシヤ彫刻や建築物にのせ
神の世界とは何であるのか
人間とはどれだけ神に愛された、素晴らしい神の分身であるかということ。
それを、あの彫刻や神殿の中に神とは何かを表現し
それが、今、三千年を越える今日まで伝えられているのである。

今一度、それを発信せよ。
そのために、芸術があるのだということ。
芸術のために神理があるのではない。
神理を広めるために、その方便として芸術があるのだということ。
そこはけっして今回も誤ってはならぬ。
そこをしっかりと言うのである。

そなたは、かつて、そこのところを人びとに言ってまわったはずである。
今度も、けっして人をたくさん入れることをせんがあまり
それを逆にすることなかれ。

単なる芸術家集団であるならば
我々の目から見たら何の役にも立たぬものである。
神の真意を伝えられてこそ、神理の人たちの芸術は花開くのだ。

神からインスピレーションを、たくさん受けられるような
そういう芸術家たちを集めよ。
そして、書物として発信できるような作家たちを集めよ。

芸術という単なる絵かきというだけではなく
音楽、小説、詩、さまざまなものにのせて
愛の波動を、神の波動をこの地上に発信せよ。

かつて、K会の一部として、遠慮しながらやっていた時代は終わった。
今度は、そなたたちが堂々とやるのである。
さすれば、何の遠慮もあるまい。
そして、今度こそは、ここを中心に神の光が降りる。

そなたたちの使命が成功することを、私たちは心から祈っている。
そのためには、いかなる援助も、いかなる励ましも
我はいつでもやって来て話そう。

先日、ポセイドンとも和解をし、海神としてこの地上を援護すること
エネルギーを送ること
そして、そなたたちの警備をすることを約束してくれた。

何千年ぶりで会っただろうか。
心を分かち合い、かつての弟と和解できたということを
私はほんとうに喜んでいる。

そなたのところに、日本神道から海神の娘が降りたことにより
我々も海神同士のつながりの中で、また歩み寄ることができたのである。
何をやっても、一生懸命進むのであるならば、何も無駄なことはない。

我らの言葉を信ぜよ。
光のほうに向かって進み出せ。
そなたたちの中で、もっともっと、大きな力を持ち
もっともっと、そなたたちを激励し
ともに歩む者たちが、もうすぐやって来るのである。

我らには見えているのである。
だから、しっかりと基盤を確立せよ。
この一年ちょっとの間に、しっかりと基盤を確立せよ。

どんなことが起きても、けっしてひるむことなく
けっして己れ自身を高ぶることなく
この計画を隅々まで理解し、命がけで頑張れる、そなたたちを早く確立せよ。

組織など、その後、動きだせば、多くの者たちが傾れ込んで来るであろう。
まず、核となる者を、しっかりとつくることである。
そうすれば、そなたたちは焦ることはないのだから。

では、今日はこのくらいにいたしましょう。
また必要とあらば、我を呼びなさい。
我はいつもそなたとともにあるのだが
そなたは私のことをあまり気づいてくれないようである。
呼んでくれれば、いつでも来よう。
一人で心細くして、泣いていることなど少しもないのである。

私は、そなたのことをいつでも応援しているのだから
けっして一人で悩まなくてよいのだ。
ともに、神とともに歩もう。
我々は常にあなた方の味方である。

(2002.11.20レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-26 08:36 | ゼウス | Trackback | Comments(0)

モーゼ/モーリャからのメッセージ(8)

ひとりでは悲しいとき、一人では乗り越えられないとき
そういうとき、助け合うときに仲間がいるということです。
そのために神の子たちはみんなひとりではない
理解し合える、ほんとうの仲間たちを
神が与えてくださっているということをほんとうに理解したのならば
あなた方の人生に対する勇気というものも、また湧いてくることでしょう。

愛というものは、ひとりで試練の中に立ち向かうものではありません。
常に自分ひとりで生きているのではなく、多くの方がたによって支えられ
多くの方がたによって自分という存在が
この地上に生きていられるのだということをわかったときに
どうか、苦しいとき、悲しいとき、まわりの方がたの手にすがること。

ひとりで乗り越えられないときでも
仲問たちの力を借りることをためらわないでください。
それが多くのコミュニケーション
多くの愛というものを分かち合っていく姿にもなり
その姿をもってありとあらゆる愛というものを学ぶことができるのです。
閉鎖的な中において、自分ひとりだけでやろうとするその姿の中に
ほんとうの意昧での愛の姿はないということです。

失敗してもいいのです、人生は。
失敗しても、また次のときに頑張ればいいのです。
カルマがあったから因があり、果が結果を結んだからといって
それが悪いのではないのです。

自分で一生懸命やったけど失敗してしまった。
だったら次の人生でまたそれを学び、お返しをしていこうと
おわびをしていこうという気持ちがあったのならば
一生懸命、一生懸命生きるのならば
どんな人生も美しいのです。

それを勝手に、いい悪いを裁くのはあなた方人間たちであって
神はそういうものは裁きません。
あらゆるチャンスを通して魂が学んでいくことを選んでいるのです。
あなた方に許しているのです。

あなた方がどんな人生を選び、どのように結果を結んでいくのか。
この最終局面の、今回の文明の総決算期にあたり
天上界はできる限りの指導をやってきております。

ここまで世界伝道の入り口に立ってきました。
かつて立ったときがありました。
でも、もう一度ここに、正しい法をもって
正しい心がけをもって臨めたことを
私はあなた方に対して心から感謝をし
そして神の、地球の神の子たちの指導霊として
誇りをもって、今あなた方を見つめたいと思います。

これを今度はお伝えし、分かち合っていくことによって
世界的な精神革命を起こすことができるか、それはあなた方の覚悟と
それを受け取った者たちの気持ち次第によって
その結果が出るということなのです。

前にも言われたと思いますが、その結果についてまでは
あなた方の責任ではないということです。
精一杯やってお伝えすれば
そして、その過程の中で少しぐらい失敗してしまったとしても
それは構わないのです。

そんなことをあなた方が気にしないで
どうか、失敗して仏陀に怒られるのではないか
こんなことをしたらインマヌエル、イエス・キリストに怒られるのではないか
はては私にどやされるのではないかと、ミカエルにどなられるのではないかと
そんなこと気にしなくて構わないですから。
失敗したら、また別な形で使命を果たせばいいのです。

ですから、どうか弱気になることなく
この愛を分かち合っていく運動の中において
あなた方一人ひとりの覚悟において、あなた方の個性を通して何を選び取るか
あなた方自身がどういう関わり合い方をしていこうと決めていくか。

それをあなた方の自由意志で選択し、決めてください。
そして、それを決めたのならば、不退転の境地でやっていっていただきたい。
情熱を持ってやっていただきたいのです。
情熱とは真っ赤なメラメラ燃えた愛の炎なのです。

それがあなた方の中になければ、その情熱がなければ
他の方がたの神の子としての愛の炎に点火することはできないのです。
オリンピックの時の聖火リレーというのがあるでしょう。
次から次へと炎が点火していきます。

その愛の炎を点火していくという、その過程の中において
伝道という言葉があるのならば
愛の光をどうか地球中に伝えていくために
レムリアのこの天上界のメッセージと
バイブレーションをもって、もう本来すでにある神の子たちの
その心の中の炎に点火していくだけのことなのです。

新たな神の子のエネルギーをつくれというのではなくて
地球人類すべての者たちの中にある
神の子としての共通認識のうずきに点火するということです。
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それは、違いのある正義で裁き合っているうちは
その光は点火されないのです。
共通認識です。
みんな男と女が分かれていて、みんな人間であるということです。

どの者にも、悲しみや、喜びや、苦しみがあったのならば
その人間としての人生の流れの中においては、多少違いがあれども
みんな同じ人間としての人生の苦しみの中において
何をもって心の価値観とし、何をもって生きがいとするかは
そんなにみんな変わらないということなのです。

誰かにとってうれしいものは、やはり、みんな愛されればうれしいのです。
裏切られ、傷つけられたら悲しいし、苦しいでしょう。
それは民族も文化も宗教も関係ないということです。

人間であるということ
人間神の子であるということをしっかりと認識した共通の価値観
その愛を求めるうずき、そこが点火する場所でもあるのですよ。
それを私は言いたいのです。

それまでは、私はユダヤ教の出身だから、キリスト教の出身だから
だからこういうことは受け入れられません。
肉を食べちゃいけない。
牛肉なんか食べたらいけない。
いや逆に言うと、牛肉は食べるけど豚はダメ。
いろんなことを言います。

それは、ひじょうにその時代、その時代の中における
我々の法の説き方があったけれども
そういうものを超えた、多くのがんじがらめのところから
人類を鎖から解放していく道筋でもあるということなのです。

釈迦教団にいた者たちはどうでしたか。
みんな独身でいて、女性に触っただけでも
結婚妻帯するだけでも神の道から離れていくとして
そのようなことを禁欲的に拒否してきた流れがあるのです。

そういうものからも
実はそういうものはその時代の中には意義があったけれども
今日的に見たなら全くナンセンスなことであるということが
今の段階になったらわかってきているはずなのです。
そういうことを今、総合的に学ぶことによって、人類は開放されてきます。
さっきからの小さな正義というのはそういうことです。

小さな、小さな民族、小さな、小さな宗教のカテゴリーの中だけで
その小さな価値観の中で自分たち自身を縛り、自分と他者は違うのだと
別のものであるのだと、そういうふうに思う心が他の者を裁き
自らだけが正義であると主張する、小さな正義のぶつかり合いが
今日の、地球規模の宗教戦争を生み出しているのです。

今イスラム教圏とキリスト教圏の戦い
そのキリスト教もアメリカが代表して戦っているような形になっています。
どちらも神の正義があるといって正義のぶつかり合いでもあります。

でも、そのような小さな価値観から、もっと大きな神の子としての正義感で
自らの中にある内的なものに気づいていく過程がなくては
地球規模的に統合されることは、いくら戦争をしても、力で争ってみても
地球人類はほんとうの意味で幸せになることは
いつまでたってもできないということです。

この地上ユートピアというものは永遠にやってこないということなのです。
そのことをあなた方がもっと理解し
この計画の重大性というものを認識してください。

(2006.4.22 レムリア・ルネッサンス
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by nagoyasc | 2015-01-25 16:46 | モーゼ/モーリャ | Trackback | Comments(0)

小桜姫からのメッセージ(5)

この地上において、この修行場の意味ということもそうですし
やはり生が終わるときに、さっきから申し上げているように
ほんとうに素晴らしいのはこちらの世界なんですけれども。

やはり死というものは、それこそまあ
毛虫がさなぎを脱ぎ捨てて蝶々に生まれ変わっていくようなものだと
私たちは思うのですね。

羽を生やして私たちの世界に舞って
天上界に帰って来るだけのことなんですけれども。
さなぎは三次元でしか動けませんので、空を飛べないので
とても怖がるのです。
自分が変わっていくことに。
そこに恐怖心を抱えるのが、私は死であると思うのです。

そのような死というものに、あまり恐怖心とかそのようなものを
どうか地上の皆さま方が抱え込まないということ。

若くして亡くなる方は、若いうちにあまり罪を冒しきらないうちに
清らかな魂のままに、素晴らしいことだけを持って、思い出だけを持って
返すべきものをみんな返したら、早くこの実在界のほうに帰って来ようと。
そう思われて早逝なさられる方も多いのです。

それだから、早く亡くなられたから、若死になさったからこそ不幸であるとか
この家に因縁があるとか、そんなことばかりお思いにならないで
「ほんとうに、逆に、魂が清らかなうちに天上界に帰れてよろしかったですね。
お幸せですね」と。

逆に、心から「お疲れさまでした」と言って送り出して差しあげるような
そのような思いで、天上界に向けて拍手をもって送り出していかれるような
そのような葬儀の仕方があるのならば
多くの人びとの中に、生老病死の中の死というのが苦であるというふうに
思われることもなくなっていくのではないかと思うのです。

そうすると、病に対すること、死を迎えることに対する
根本的な姿勢というのが人間たちの中に
三次元の者たちにとって、変わってくると思うのですね。

そうすると、死というのが一瞬、眠りのようにつきますけれども
覚醒したときの、より自由な感覚をもって
ひじょうに幸せな思いで、わたしたちの世界に戻って来るのです。
逆に申しますと
幸せな思いで天上界に帰って来られる者にとっては、とても幸せなのです。

でも逆に言うと、みんなが、地上の方たちがひじょうに怖がるのは
死して地獄にいくと思うから怖いのでしょう?
そして、何も知らないから怖いのでしょう?
そして、死して地下のものに行ってしまうような生き方をした
その地上の人生そのものに問題があるということではないのでしょうか。

でしたら、死というものは少しも怖くはないんですよ。
三次元の、食べなければ飢えてしまう、食べなければ苦しい
寒かったら、家がなかったならば
いつも地上の生活のためにあくせくしていなかったら
好きなことも神様の仕事すら何にもできないという
そういうあくせくしたような魂の牢獄の中から、好きなことだけをして
そして食べなくても寝なくても、好きにみんなでお互いに、褒め合って
たたえ合って生きていける天上界に帰って来られることをもって
ほんとの幸せであると思ったのならば
地上にいたずらにしがみつこうと思うこともなくなるし
そして地下の世界に行くような
地上での生命の誤った人生の送り方というものから解放されるはずなのです。
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何ゆえ、まあ死んだあとに天国に行きたいから
そのように生きるということではないですけれども
やはり地上において真に価値のあることは、天上界に帰れるような
そのような高い神仏の使者とまではいかないにしても
神の子としての愛の意識に、愛の神様の分け御霊としての
自分の神の子としての神性に誇りをもって生きる。
そのようなことにひとつでも気づいて
人生をささやかに素朴に、正直に生きていったのなら
間違っても地下の世界に帰ることはないのです。

目に見えない世界で、死んだら何もなくなると思うから
平気で人の裏をかいたり、うそをついたり、人のお金をかすめ盗ったり
それから、人殺しなどができるのではないでしょうか。

すべて神様はお見通しで、わたしたちが死したあとには
やはりほんとに生きたものの原因・結果の因果律の中で
素晴らしい人生の種をまいたものが
やはり天上界に、高く清らかな世界に帰って行けると思ったのなら
人びとは一生懸命善なる思いで
地上の人生を送ろうというように努力されるのではないでしょうか。

そうなったら、別に自分が地下に落ちたくはないからではないけれども
やはり地下に落ちたくないから
一生懸命まじめに生きようと思う人たちの中においては
泥棒も、多くの殺人も発生しなくなってくるのです。
自分の魂と同じぐらい他者の魂も大事であるというふうにみんなが思うのならば
人殺しや戦争なぞということはあり得ないのです。

自分とは違う民族であったとしても
そのような方たちだって皆同じ神の子なのです。
皆尊い命なのです。

自分の命が大事なように、ひと様の命も大事であり
我が子がいとおしく、その命が大切であるように
そのほかの民族におかれますそのお国の方のお子さま方も
大事な、大事な尊い神の子の子どもたちの命であるということを思ったのなら
なぜそのような子どもたちがいる村に向かって
ミサイルなぞを打ち込むことができましょうか。
そのような認識が、やはりすべてが連鎖的につながっているのだと思うのです。

(2005.7.21 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-24 19:22 | 小桜姫 | Trackback | Comments(0)

出口王仁三郎からのメッセージ(4)

神の国の価値観をこの地上に降ろすということ。
そのことをもって、今後のこの地上の体制を立て直していくのである。
そなたたちはこの間から
体制を立て直していくには何がいちばん大事かということを
重ねて聞いておった。

それは神の目から見た神の子としての尺度、神の目から見た視点
それによる価値観というものが、その方向が定まったときに
教育制度も政治体制も、憲法も、すべてが、医療もそうである。
そのようなものがすべて連鎖反応的に変わる時がくる。

変わる時は一瞬である。
碁をさす時そうであろう。
ホーンと勝った時に、瞬間的にバーンと色が変わるであろう。
あれじゃ。
その瞬間がくることを、我は願うとる。
そのために今我々は、こうやって霊言を降ろしている。

そなたたちも、なにゆえこのような霊言が次から次へと降りるかを
理解していないとこもあるであろうが
今そなたたちが、これから無心に本を出していくこと、霊言を降ろして
それを文章化していくということが、後世に対する神の視点というものを
しっかりと明確に打ち出す、そのような規範として、この地上に打ち出される
そのような時が今であるということをもって
そなたたちは今の仕事にまい進されたしと思う。

地上はけっしてそんなに不自由なところではない。
間違うてはならぬが、間違ったら引き返せばいい。
それぐらいの太っ腹な気持ちで生きてゆけ。
間違わないこと、間違わないことばかりを恐れて
ケチくさい小さな器になるな。
間違ったっていつでも帰って来られる。
なぜなら全部、神様の懐の中だから。
どこにいったって神の国さ。
下に行ったって神の国。
ならば違ったと気づけば戻って来ればよい。

よいか。
そうやって自分を限定し、囲って小さな中に入ってしまうほうが
自らの力を引き出せず
自らを限定し、不自由にすることは、他を裁くことにつながっていく。
そのような気持ちで、多くの人びとを裁いてはならぬ。

自分が自由になれぬ不幸さを、不幸せさをかみしめるからこそ
その怒りが他者に対する批判に結びついてくる。
それを思うならば、常に自由であれ。

常に人生を満喫して、自己限定をせず、幸せに臨んで
何ならば神の子としてできるかと
最高に自らを出せることを最優先し、そなたたちの力を出していけば
必ずや神はそなたたちに、そなたたちの本来の使命というものを現したもう。

使命が現れてきて、その自らの認識したレベルに応じて
使命というものを明かされていくのだから。
その認識したレベルにおいて与えられた使命を精一杯働け。

そしたらそれを一生懸命したならば、それを通して学んだのならば
その上の認識力を持って
またさらに高度な使命がそなたたちに与えられるであろう。
そうやって使命というものは、徐々に徐々に上に向かって
多くの者を救済できる使命が与えられるのである。

だから実力を持つには、認識力を持ち、行動力を持ち
この地上でいかにひとりでも多くの者たちを幸せにすることができるか
行動をなすことができるか
そのことが最大の地上の者たちの修行であるということを
心に肝に銘じ、自由に生きていただきたい。

どこまでいってもお釈迦様の手のひら、という言葉があるが
どこまで逃げたって神の手のひらである。
ならば恐れることはない。
どこに行っても帰って来れぬ神の国なぞないのである。

間違えればこそ、修行になり、学べるのが人の道、人間である。
ならば神の子として、もっと安心して、我において如来であるならば
そなたたちだって如来を目指せ。
平気で仙女たちと戯れようと、女を抱こうと、酒を飲もうと
我は如来である。
そのような神の国の、自由さというものを
もっとそなたたちも学んでいただきたい。
そうでなければ多くの者たちはついて来ぬ。

不自由なところで、正しいことだけで清まって、排他的な考え方の中に
そんな人間に多くの一般大衆は魅力を感じてついて来るであろうか。
多くの者たちがついて来るのは
自分たちとおんなじ、痛みや悲しみや、欲望や快楽や
そういうものを全部飲みこんで
それを一緒に泣き笑いして喜んでくれる者たちにこそ
多くの人びとはついて来るのである。
その者が語る言葉であるからこそ、多くの大衆がついて、あとをついて
その人を手本について来るのであるぞ。
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酒も飲まぬようなやつはダメじゃ。
酒ぐらい飲め。
女ぐらい抱け。
そんなもので神の国が清められぬ
極められないようなケチくさい神さんなんて捨ててしまえ。

捨てられるぞ、そなたたちはみんな神の子じゃ。
であるなら、もっともっと自由に生きよ。
そして、もっともっと自らの力を信ぜよ。
どこまで行っても神の国なんだから、神の子としての可能性を追求せよ。

そして全生涯をもって、今回の稀なる計画のために
そなたたちの自由な魂を泳がせわたる、泳がし、生き抜くことをもって
そなたたちの使命を果たされよ。
そうすれば、素晴らしき彩りに満ちた人生とともに
彩りのあるこの世界を具現化させることができるであろう。

墨衣だけの世界はいかん。
黒と白だけの世界はいかん。
神の世界は、もっともっと彩りに満ちている。
もっともっと色鮮やかな、喜びや楽しみに満ちている。

我は今、マヌ神と呼ばれている方が出られていることを喜んでいる。
ひじょうに自由な方である。
そのような方をもって九次元におられるということ。
我が言葉より、もっともっと説得力があろうが
しかし、あのような神が今、通信を送っておられるということを
我はひじょうに喜んでいる。
そのことをもって、今地球的な意味において
総合的な集大成の時期であるということをそなたたちは肝に銘じ
これからの使命を果たしていかれたい。

この世界に、我々が世界に、使命をそなたたちが終えられて帰ってきたら
どうか酒を一献傾けよう。
そして地上の土産話を我に話していただきたい。
地上にもいい女がたくさんおるが、天上界にもいい女がごまんとおるから
われが美しい仙女を紹介しようと思う。

いいぞ、仙女は。
かわいいぞ。
いいぞお、おなごは。
もっとおなごの力を信ぜよ。
このおなごにおいてもなかなかいいので
わしも口説こうと思っとるが、言うことを聞かぬ。

今はひじょうに多くの神々が見られているので、いらぬことは申せぬ。
品の悪いことは申せぬので、少しまじめな話をしたつもりである。
そなたたちは見えぬであろう。
ものすごい数の神々が今この場におられるということ。
次の神に道を譲り、われは今日これにて失礼しようと思う。

(2005.4.23 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-23 08:28 | 出口王仁三郎 | Trackback | Comments(0)

日向(ひむか)からのメッセージ(10)

引きこもりの子どもたちの八割は男の子であると言われます。
二割は女性、女の子なのです。
その事実を考えて、どのような意味があるかというと
基本的には昔から
エディプス・コンプレックスとかいろんなことがございますけれども
女の子は基本的に、男の子にひじょうにいれあげるものなのです。

そして、女の子と母親というのは同性同士です。
ですから、ひじょうにある意味で敵対関係にあるので
同性同士はひじょうに意見が厳しいのです。
ですから、それほど甘やかすことはないのです。

逆に娘を甘やかし切ってしまってだめにするのは
父親でもあるかもしれません。
でも父親というのは常に家庭にべったりではないので
それほど娘に対しては大丈夫なのです。

今度は、男の子。
今自立し得ない、結婚することも、好きな女性に愛を告白することも
果ては学業も途中で放り出して引きこもって
自宅でパソコンとかゲームばかりにうつつをぬかして
まったくの労働意欲を持たぬ子どもたちが、それが、大方が男性なのです。
男の子に多いのです。

それが何でだめなのかと言いますと、確かに父親たちが本気でぶつからずに
仕事、仕事で明け暮れていたということはあるのです。
でも昔においても、たとえば、かつての戦国時代の武将などでも
長いこと戦いに行って帰って来ないことはございます。

ひじょうに忙しかったときに
そのときに毅然として母親たちが家を守っていたのです。
だから現代、すべてを父親のせいにするのは、私は間違いだと思っております。

その時に今暇な家事から解放された
少子化の、ひじょうに子どもの少ない母親たちはどうするかというと
父親に対して敬意を払い、父親に仕えるということ、大切にするということ
それこそがいちばん大事であるということ。

この間、このはなさくやひめがおっしゃっておられましたけれども
そのような謙虚さ、夫に仕えるという妻としての謙虚さを失った現代女性は
ひじょうに夫というものを見くびって
子どもの前でも平気でくさしていくのです。
そうなったときに
子どもたちの中に父親に対する尊敬心など育つわけがないのです。

それを母親たち自らやりながら
そして、その自分かかなえられなかった夢を、夫が出世をしなかった
そして金銭的にも満たされない、それはほんとうに足りないわけではなく
次から次へと要求してくる
現代の物質的な豊かさを追いかけるがゆえのことがあるのです。

ほかの女性と見比べながら、自分がひじょうに惨めになっていったりして
その夢が挫折したという、結婚生活に描いていた甘い夢がくじけたとき
それがどうするかというと、子どもに向くのです。
それも特に男の子に向くのです。

本来は夫に期待し、夫を立派に育てあげるために
妻たちがエネルギーをかけなければならないものまで、夫をほっといて
夫に仕えることもなく、それこそ食事の用意やお弁当ひとつつくることなく
それをほっておきながら、すべて息子の溺愛のために
息子のためにいい学校に入れるためだけに
過干渉なまでにしがみついていくのです。

そして、その果てにどうするかというと、息子を駄目にしていくのです。
男としての自立心というものをすべて奪っていくのです。
そこまで女性が支配的になるのです。

暇なのです。
はっきり言って暇なのです。
電化製品が氾濫し、今少子化の中で、昔みたいに何人も子どもがいた時代には
そんなことはできなかったのです。

たくさんの子どもを育てなければなりません。
洗濯機ひとつないところで一日中掃除をしたり、洗濯をしているのです。
そのときに過干渉にはなれないのです。

でも今は、あまりにも豊かさの、現代文明の中で暇になった女性たちは
過干渉の中で息子にしがみつき、夫によってかなえられると思っていた夢を
息子にしがみつくことによって、娘にかけることによって
息子たち自体の人生をだめにし、男としての戦う、自立していく
社会に対して攻撃的なまでに向かっていく
そのような陽のエネルギーを削いでしまうのです。
それが現代の母親たちの姿でもあるのです。

その中で先程申しましたように、思春期を迎えると
いきなり暴力が出てくるのです。
それはその子どもの叫びです。
魂の叫びなのです。

不当に自分の魂を、個性をじゅうりんされ、自分の本来やりたいこと
世間のよその坊ちゃんやお譲ちゃんたちと比べられて
自分の単なるプライドのためだけに
必要以上の名門校と呼ばれるところにやろうとして、勉強、勉強で押しつぶし
その子のほんとうの魂の叫びを聞いてあげない。

あなたはいったい何をやりたいのかという
それを聞いてあげない母親に対する怒りなのです。
それが社会全体に蔓延しているのです。

子どもたち全体、それは女の子の貞操問題も含めまして
ある意味で、母性に対する子どもたちの反乱であると
前回申し上げたのはそこなのです。
それがやはりあるのです。

母親というものが命がけで守ってこそ、家庭というものは意味をなします。
まして子育てにおいて
ある意味で、子どもを育てるということは母親であるというだけではなく
教育者の部分としても、あと創造的な部分を伸ばしていくという
クリエイターという部分の、創造者としての役目もあるはずなのです。

母親が子どもを育てていく。
そして、夫を引き立て、夫の仕事を開花させ
夫の使命も社会に貢献できるように導いていく。
裏で支えていく。

そのことがどれだけ妻として母として
家庭の中において女性に大きな役割があるかということ。
それ自体が、社会を変えていくご主人方のエネルギーそのものを左右し
そして、地球の将来の人類の命運すらかけていく。

そんなに大切なところに、女性たちが今
家庭婦人として言われている方たちがあるかということを
どれだけの人たちが認識して
今、子育てということをおやりになっているかということを聞きたいのです。
そういう認識がないはずなのです。
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この間から言われておりますように、女性の内助の功があってこそ
男性の仕事というのがどれだけ開花するかということが問われるのです。
女性が自己実現をいったのならば
男性としての夫の仕事意欲
仕事が開化する才能もそのままつぶしてしまうのです。

男性は女性の、愛する妻の温かい励まし
そして、時には温かく包むユーモア、そのようなものを通して
男性は百人力のような勇気を得て
愛する者を守るために自分自身の個性を開花させ
天命を全うして社会に立ち向かっていくものなのです。

多くの敵がいても、その者のためになら頑張れるのが男性であるのです。
そのときに、「あなたお疲れ様です、ご苦労様です」と。
子どもたちに対しても、「お父様が頑張ってくださったから
私たちはこのようにご飯も食べていけて、私たちは幸せですね。
お父様に伺いましょうね」と。
そのような思いで子どもたちに接する母親たちが
今どのぐらいいることでしょうか。

そのようなことをしないから、父権喪失という言葉が出る。
でも、それは確かに戦後の日本を立て直してくる男性たちが
家庭をおろそかにして、仕事、仕事で走っていった
そういう世代の弊害というのは確かにあるのです。

でも、それだけではなくて、一生懸命戦ってくれるのは私たちのためなのだと。
そういうありがたいという思いで
子どもたちに対して接していた母親のいる家庭においては
たとえ父親が出張でなかなか帰って来なくても
子どもたちの中には、お母さんがそう言うのだからお父さんは立派なのだと
お父さんに感謝しようという思いの中で
子どもたちはしっかりと育っていくのです。

その中において、秩序というものは、家庭の中に自ずと備わり
父権というものは、いなくても
やはりたまにお父さんが帰って来たときに、ちゃんとそこに存在するのです。
父権というものは、父親が父親であるということを支えるのは母親たちの
妻たちの役割であるということなのです。

自分自体が夫にちゃんと心から尽くし、心からの感謝を持っていない者に
なぜ子どもたちに対して
そのようなお父さんを父親として尊敬しなさいという言葉が
通じることでしょうか。

まず女性たちが、妻たちが、夫に対して夫を立てて
やはり夫につき従っていこうという
その謙虚さをもって尊敬していたのだったら
子どもたちは自ずと小さい頃からそういうふうに育ち
父親というものに対して、やはり敬意というものが、尊敬というものをしっかり
男の立派な像として刻んで育つのです。

それさえあれば、あとは本人たちの個性が開花していくのを
温かい愛で母親たちが包んでいけばよいのです。
それ以上、過干渉になることはないのです。

今の若いお母さんたち、現代の母親たちは
夫を自らが不在にしてしまっているのです。
そして、自らが物質的な価値観、この世的な
よそのお子さんたちと比べる価値観の中で、自分がどんな子どもを欲しいか
ただ、まるでハンドバッグや靴や、高い高級ブランドの化粧品を買うように
子どものブランドを決めるように
子どもの学校とか習い事を決めていくのです。
そして、子どもの人生までも左右しようとするのです。

(2005.8.2 レムリア・ルネッサンス

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by nagoyasc | 2015-01-22 08:34 | 日向(ひむか) | Trackback | Comments(0)



一般財団法人レムリア・ルネッサンスより許可を受けアマーリエを介した天上界からのスピリチュアルメッセージを転載させていただいています。
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